artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

神村恵カンパニー『配置と森』

会期:2008/12/20~2008/12/22

STスポット[神奈川県]

「運動on」と「静止off」。このきわめて根本的な2要素が、多様な配置を生み出し「森」というにふさわしい千変万化の景色を生み出した。舞台には、美術作家・出田郷の制作した細い光を放つ白いキューブが16個とダンサーが4人。軽く飛び上がりながら「斜め上」「左横」「右横」「前」と首を振り続けるだけのダンスが冒頭と最後にあって、それは「ダンス」であり「観察」の身ぶりでもあった。なるほど、舞台上のダンサーは踊る者であり見る者でもあるはず。確かに彼らは、舞台に並んだ他のダンサーやキューブを見つめときに配置換えし、自らもまたそうされ続ける。抱えられるとダンサーはキューブのように物と化し、他方でキューブは光を放ち自己主張する。人と物とが等価な空間。ダンサーとキューブが織りなす運動と静止の連続は、ダンスというかポーズの連鎖と思わせ、ダンスというかインスタレーションと思わせる。といっても、それが生み出すスリリングな時間は紛れもなくダンス的な何かであって、むしろすべての芸術に潜在するoff+onの可能性を意識させ、すべての芸術がダンスでもあることを意識させる公演だった。ところで何故、on+offはスリリングか? onにoffが含有することとなり、offはonを予期させるから。神村はその真実を手中にしていて、それをクリアに舞台上で展開した。

2008/12/22(月)(木村覚)

HARAJUKU PERFORMANCE+SPECIAL:2日目 「ビート&エクスペリメント」

会期:2008/12/21

ラフォーレ原宿[東京都]

今日も舞台の背後にはスクリーン。ただし映るのはすべてパフォーマー自身の身体。2日目は、演奏のみならず演奏する身体へフォーカスした公演となった。とくに印象に残ったのは、dj KENTAROや宇治野宗輝の機器をつまみこする手、Shing02のシャイに帽子を押さえる手、大友良英のギターを引っかき回す手。華麗で巧みでユーモラスでもあるそんな身体は、それぞれにマニッシュな官能性を帯びていた。そのなか、急遽出演が決まった真鍋大度(Copy Smiles.)のパフォーマンスは、誰より異彩を放った。顔の各部位に多数の配線を貼り付けた2人のパフォーマーが、音楽に合わせて顔を奇妙に歪ませる。会場ではよく分からなかったが、一方の顔の変化がもう一方にコピーしていたらしい。神経繊維がむき出しになったようなグロテスクで滑稽なルックス。電気ショックによる顔面「フラワーロック」化。真鍋によって身体は、内在するテクニックを披露する場ではなく、外在するプログラムが強引に遂行される事件現場となった。この拷問的なプレイに観客は爆笑し、乗りに乗った。

写真:真鍋大度(Copy Smiles)のパフォーマンス

2008/12/21(日)(木村覚)

HARAJUKU PERFORMANCE+SPECIAL:1日目 「サウンド&ビジュアル」

会期:2008/12/20

ラフォーレ原宿[東京都]

日本パフォーマンス/アート研究所代表でキュレイターの小沢康夫が仕掛けたイベントは、パフォーマンスの次代を占うのに格好の場だった。タイトル通り、初日は聴覚と視覚とを同時に刺激する演奏者が集まった。ドラムをコントローラーにしてスクリーンに映るゲームを行なうd.v.dは、演奏と操作のインタラクティヴィティを活用して、画面上のマッチ棒みたいなダンサーを踊らせた。魂の込もるというか魂を込める演奏。DE DE MOUSEは絶妙トークを封印して、薄っぺらい「雰囲気としてのジャパン」を見せ聴かせた。音響と画像を連動させることによって、観客の聴覚ばかりか視覚も奪う演奏者は、その程度に応じて場の支配者の様相を帯びてゆく。とくにそう感じさせたのは渋谷慶一郎。爆音のテクノなノイズとシャープな立体が変化を続ける画像とに聴覚と視覚は支配され、崇高さと恐怖とを感じてただひたすら身体が圧倒され続けた。高木正勝の画像もダーク色の濃いゴシックテイストで、スクリーン上の子どもや馬の体はエレクトロニックに溶解や屈折や消滅を繰り返した。恐ろしく残酷でそれでいて美しくもある映像に優しくエモーショナルな生演奏が組み合わされることで、癒しともホラーともつかない、しかし強い説得力を感じさせた。その他、RADIQ(a. k. a半野喜弘)の演奏もあった。

写真:高木正勝のパフォーマンス

2008/12/20(土)(木村覚)

イデビアン・クルー・オム『大黒柱』

会期:2008/12/18~2008/12/20

川崎市アートセンターアルテリオ小劇場[神奈川県]

不意にけつまずくとか、井手茂太率いるイデビアン・クルーの魅力は、小振りな動きから生まれる不意打ちのリズムにある。舞台中央に屹立する巨大な「大黒柱」も、そんな一例で「なんだこれ!」とまず開演前に驚かされる。この柱を囲んで、男ばかり(全員30~40才代に見える)の6人が、建物を建造する職人たちや工務店の社員に扮し、労働とダンスを往復する。いくつもの小さな渦が瞬間的に生み出す大きな構造とか、「ガチムチ」で手足が短かいゆえに極端に素早い動きを見せる井手のスリリングなダンス、他ではあまり見かけない奇妙にエロティックでけだるい時間など、井手らしい見所は多い。ただ、男ばかりの舞台は男性性へのことさらな執着を引き出した分、そもそもの井手的不意打ちの生まれる条件であり、いつもはそこが焦点であるはずの(広義の)異文化接触は薄まっていた(肉体労働者と事務労働者の身体性の違いは、取り上げられていたけれど)。途中から柱が男根としか見えなくなったぼくは、舞台に描かれる中年男子の身体性やエロティシズムに、同年代のダンス集団コンドルズとかEXILEにはない豊かさを感じる一方で、ただ、「それ、見たい?」と自問すると答えに窮してしまうのだった。

2008/12/18(木)(木村覚)

金魚(鈴木ユキオ)『言葉の先』

会期:2008/12/12~2008/12/14

アサヒ・アートスクエア[東京都]

鈴木ユキオは若いダンサーや振付家からいまもっとも尊敬を集めている存在といって過言ではない。会場を眺め渡しその印象を強くする。今作は、彼を含め4人の舞台。メインは彼のソロ。あっちとこっち、どっちにも行こうとして結果どっちにいくか定まらない、そんな拮抗のスリルが腕、足、首など各所で同時発生する。鈴木の身体に表われていたのは既存のスタイルの洗練を目指す類のダンスとは次元を画する高純度のダンスだった。「あっちへ」と「こっちへ」とが共棲する体は、いつも速すぎて遅すぎる。必然として起こるズレ。不意打ちのリズムは、見ないことを許さない力を観客に感じさせた。 後半、一個の身体内部に宿されていた拮抗は、不意に現われた若い男にどつかれることで、外側との拮抗へとスライドする。こうした展開もよい。ただ、タイトルの「言葉の先」が示す意味合いは終始不明確だった。「か・ら・だ」「か・ん・が・え・る」などと鈴木が自分の身体の現状を自己言及的に呟く。と、鈴木の体と言葉の関係がかたどられはする。とはいえ、観客と鈴木の身体との関係、発せられた言葉との関係は曖昧なままであって、観客は鈴木との関係が生まれる手前で取り残された。彼のダンスほどに、鈴木の発話行為が観客にとって明確なポイント(「先」)を示しえなかったのは残念だった。

2008/12/12(金)(木村覚)