artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
フィーバー・ルーム、プラータナー:憑依のポートレート

会期:2019/06/30~2019/07/03
東京芸術劇場[東京都]
東京芸術劇場において、「響きあうアジア2019」のプログラムを通じ、現代のタイに関わる舞台芸術を2つ体験した。ひとつは2年前、開始時間を間違える痛恨のミスで見逃したアピチャッポン・ウィーラセタクンの《フィーバー・ルーム》(2015)である。普通に客席で座るのではなく、舞台側を使う演出は、ほかにも体験したことがあるけど、これほど効果的な作品は初めてだった。というのは、これまでは基本的に客と演者の両方が舞台側にいるという設定だったが、本作は舞台と客席の関係を反転し、しかもプロジェクターが投影する映像の一方向性を逆に利用していたからである。
(以下の内容は、少しネタバレ的な部分を含むが、たとえそれを知っていたとしても、予想を超える体験になるはずだ)。
前半は舞台側で完結しており、正面と左右に吊り下げられたスクリーンに囲まれ、病院から川や洞窟をさまよう映像を鑑賞する。が、観客席と隔てる幕が開けると、夜の豪雨と雷鳴の風景が出現し、そこからはプロジェクターが放つ光の粒子を全身に浴びる体験に移行するのだ。これはスクリーンの彼方、いや夢の中に没入する奇跡の映像体験である。そしてCGや3Dを駆使した大予算のハリウッド映画にもできない世界だ。どんなにお金をかけようとも、結局は旧来の劇場のシステムをなぞっているからである。
もうひとつの作品は、タイの小説家ウティット・ヘーマムーン×岡田利規×塚原悠也《プラータナー:憑依のポートレート》(2018)である。なんと休憩を一回挟み、4時間超えの長丁場だった。若いアーティストという個人、サブカルチャーの受容、国家の社会的な激動が絡みあう、四半世紀にわたる性と政治をめぐる物語である。特に俳優らがもみくちゃになる激しい身体運動は、演劇ならではの見せ場だった。日本人にとっては、あまりタイの歴史はなじみがないが、同時代の出来事を想像しながら、共感して鑑賞することができる。考えてみると、岡田の《三月の5日間》(2004)も、大きな歴史的事件(=アメリカのイラク攻撃)と渋谷の一角の若者の性愛をパラレルに描いた演劇であり、《プラータナー》の演出に向いていたのではないか。
公式サイト:https://asia2019.jfac.jp/
2019/07/03(金)(五十嵐太郎)
木村悠介演出作品 サミュエル・ベケット『わたしじゃない』

会期:2019/06/27~2019/06/30
Lumen Gallery[京都府]
暗闇に浮かぶ「口」が「彼女」と呼ばれる者について断片的に語り続ける、サミュエル・ベケットの戯曲『わたしじゃない』を、独自の映像技術「Boxless Camera Obscura」を用いて演出した公演。木村演出の要はこの映像技術の使用にあり、『わたしじゃない』の上演史における革新性と映像メディアへの自己言及性、双方にまたがる射程を兼ね備えていた。異なる4人の俳優による4バージョンが上演され、(スタンダードな上演の)女優/男優、日本語/英語など、演出方法がそれぞれ異なる。私は伊藤彩里によるAバージョンを観劇した。
上演空間には、白いスクリーンが貼られた壁と相対して椅子が置かれ、口元の高さにはマイクとルーペ(凸レンズ)が、足元にはスポットライトが設置されている。黒いジェラバ(フード付きロングコート)で全身を覆われた俳優が椅子に座ると、暗転し、スポットライトが俳優の口元を照らす。その光はレンズを通して集められ、対面した壁に、倒立した「口」の映像が浮かび上がる。通常の「カメラ・オブスキュラ」の場合は、「暗い箱」の名の通り、ピンホールやレンズを通して、密閉された箱のなかに対象物の像が映し出される。一方、「Boxless Camera Obscura(箱なしカメラ・オブスキュラ)」では、対象物、レンズ、投影像が隔たりのない同一空間に存在し、「光源とレンズと焦点距離」という極めてシンプルな装置により、映像の原理的構造を体感することができる(凸レンズとロウソクを使った中学校の理科の実験を思い出してほしい)。木村は、映画前史の映像デバイスについてリサーチと実験を行なう過程で、この技術を発見したという。

SCOOLでの東京公演 [撮影:脇田友]
スクリーンに映る「口」は、拡大された倒立像であることもあいまって、グロテスクに蠢く不可解な生き物であるかのように、自律性を帯びて見えてくる。唾で濡れた唇、その奇妙に生々しい肉感、間からのぞく白い歯、洞窟のような口腔。普段は凝視しない、「発声器官」としての「口」の即物的な動きが強烈に意識される。時折映る鼻の穴は、暗い眼窩のようにも見える。俳優の身体が少し動くだけで映像はボケて不鮮明になる。発話する俳優の身体と映像の「口」は、光を通して繋がってはいるのだが、同時に別個の独立した存在として知覚される。生身の身体から「分離」されつつ光の紐帯によって繋がっている―この繊細な感覚は、ビデオカメラによるライブ投影では得られないだろう。純粋な光学現象によって得られる映像の美しさ、魔術性、危うい繊細さが体感される。
そして、こうした即物的な物質性や分裂/同一性を揺れ動く曖昧さは、戯曲の構造とクリティカルに結びつく。「口」が語り続ける内容は断片的で整合性を欠き、しばしば中断や否定を含み、意味内容の正確な把握は困難だ。だが、一見破綻した言葉の羅列を聞き続けているうちに、「口」の語る「彼女」とは、「口」自身のことではないかという疑念が頭をもたげてくる(以下の引用は、木村自身の翻訳による)。例えば、「……彼女は自分が暗闇の中にいるんだって気付いた……」「……彼女が何を言ってるんだかさっぱり!……」「彼女は思い込もうとした……(中略)全然自分の声じゃない……」「……そしたら彼女突然感じた……(中略)自分の唇が動いてるって……」「……体全部がまるでなくなったみたい……口だけ……狂ったみたいに……」といった台詞群は、「口」の語る「彼女」=「口」自身の置かれた状況との一致を示唆する。だがその一致の可能性は、「…なに?‥だれ?‥ちがう!……彼女!……」という、「口」自身が繰り返す激しい否定によって決定不可能な領域に置かれる。
また、生身の身体から切り離され、非人称化された「口」の映像は、「……それに唇だけじゃなくて……ほっぺた……あご……顔中……(中略)口の中の舌……そういう全部のゆがみがないと……喋ることはできない……でも普通なら……感じることなんてない……気を取られていて……何を話してるかってことに……」といった台詞とリンクし、発声器官としての即物性を強調する。
さらに戯曲中には、「……気付いた……言葉が聞こえるって…」「じっと動かず……空(くう)を見つめて……」といった台詞が示唆するように、ト書きに書かれた「聴き手」=「彼女」の一致の可能性も書き込まれている。ここで、俳優の衣装に改めて目を向けると、もうひとつの仕掛けがあることに気づく。木村は、「聴き手」の衣装として指定された「黒いジェラバ」を俳優にまとわせることで、「発話主体であり、同時に聴き手でもある」二重性をクリアしてみせた。

SCOOLでの東京公演 [撮影:脇田友]
三人称で語ることへの固執、何かの役を演じること(代理表象)と俳優自身の身体の二重写しとズレ、発声器官としての即物性、「自らの声」の聴き手でもある二重性。「口」=「彼女」=「聴き手」の一致と分裂。ここから照射されるのは、語る主体の問題、「わたしじゃない」存在を演じる俳優という演劇の原理的構造である。木村は、「Boxless Camera Obscura」という装置を秀逸にもベケットの戯曲に適用することで、語る俳優の身体を複数のレイヤーへとラディカルに解体しつつ、多重化してみせる。それは、「親の愛情を受けずに育ち、コミュニケーションから疎外された人生を送ってきた、70歳の孤独な老婆の分裂的なモノローグ」という表層のレベルを超えて、メタ演劇論としての戯曲の深層を照らし出す。「俳優の『口』以外を黒い幕で覆う」「ビデオカメラで『口』だけを映像化する」といった従来の演出ではなしえなかった境地に到達した。
演劇の原理的構造への応答という点では、ある意味「最適解」である解像度の高い演出ではあるが、本作の試みには、まだ未踏査の領域が残されている。それは、カメラ・オブスキュラ(及びその延長上にある映像)と窃視的な欲望との共犯関係、そこに内包されるジェンダーの問題である。ピンホール=覗き穴から見た光景を(内/外を逆転させて)拡大投影したような「口」の蠢きは、女性器のメタファーとしても機能し、エロティックな含意を帯びている。本作の「彼女」同様、例えば『しあわせな日々』のウィニーのように、女性の身体が被る拘束や抑圧的状況とどう結びつくのか。本公演の到達点の先には、さらなるクリティカルな可能性が広がっている。
2019/06/29(土)(高嶋慈)
温泉ドラゴン『渡りきらぬ橋』

会期:2019/06/21~2019/06/30
座・高円寺1[東京都]
日本初の女性劇作家・長谷川時雨を描いた本作。異なるいくつかの時代を切り出し場面を構成することで、変わりゆく状況とそれでも変わらない時雨の思いを描き出す原田ゆうの戯曲が巧みだ。
時雨(役名は本名のヤス/筑波竜一)の周囲には文学仲間を中心にさまざまな人物が集うが、その態度は男女ではっきりと対照をなしている。そもそも最初の夫である水橋新蔵(内田健介)からして根っからの放蕩者であり、次に深い仲になった中谷徳太郎(祁答院雄貴)とは文学活動を共にするも喧嘩別れしついに夫婦とはなれなかった。彼女が才能を見出しデビューのために手を尽くした三上於菟吉(阪本篤)は年下の夫となるも、売れてからは芸者遊びのための待合で原稿を書く始末。寄り添い続けることの叶わない男たちに対し、時雨の周囲には岡田八千代(いわいのふ健)や生田春月(東谷英人)ら多くの女性が文学仲間として集う。しかし彼女たちもまた、男との関係をうまく結べずにいるのであった。死者として現われたときに時雨の相談役となる樋口一葉(蓉崇)の言葉を借りるならば、「苦しさの中に人生はあり」「煩わしくて恨めしくて寂しい恋こそ、本当の恋」だ、と言ってよいものか。
時はまさに『青鞜』が生まれた、日本において女性の権利が意識されだしたばかりの時代であり、男たちの女への態度と、女性による文学運動の立ちゆかなさは別個の問題ではない。三上は女遊びに明け暮れながらも時雨とは別れず、時雨が創刊した『女人藝術』を金銭的に支え続けもするのだが、赤字続きの雑誌に対し、つい「おやっちゃんの道楽にとことん付き合うつもりだよ」と本音を口にしてしまう。時雨が己の人生を懸けてきた文学を「道楽」と言ってのける三上。両者の認識の差が残酷に浮かび上がるこの場面にこそ、本作のテーマは凝縮されていると言ってよい。男の援助は尊大な感情に支えられたものでしかなかった。男女間の思いと文学に懸ける思いとが綯い交ぜとなって浮かび上がる感情は切なく苦い。
しかしそれだけに、全キャスト男性での上演という演出(シライケイタ)には疑問を呈さざるをえない。俳優たちの演技は素晴らしかった。だが、全キャスト男性での上演は、舞台から女性を排除し、男性によって女性に声を与え(てや)るという選択にほかならない。それは戯曲の内容を裏切っている。もちろんそのような意図はなかったのだろう。だが無意識にであれそれは、男が稼いだ金によって女に居場所を与え(てや)るという三上の行為と意識の反復となってしまっている。
本来的には、女性の声を男性が代弁しても問題ないと見なされるべきなのだろう。当事者しか声を上げられないのはそれはそれで問題である。だがいまだ男女差別甚だしい日本において、圧倒的優位に置かれている男性が女性の置かれている状況を描く場合、より一層の繊細さと謙虚さをもって創作にあたる必要があるのではないだろうか。
公式サイト:https://www.onsendragon.com/13
2019/06/27(山﨑健太)
木村悠介/サミュエル・ベケット『わたしじゃない』

会期:2019/06/20~2019/06/24
SCOOL[東京都]
『わたしじゃない』はサミュエル・ベケットの後期戯曲作品のなかでも特に奇妙な作品である。登場するのはひたすらにしゃべり続ける「口」と、それに対峙し無言のままに言葉の奔流を浴びる「聴き手」だけ。「口」は文字どおり口だけが宙に浮かぶよう指定されていて、一方の「聴き手」は黒い布に全身が覆われその正体は杳(よう)として知れない。「口」の断片的な語りに耳を澄ませば、ひと言も口をきくことのできなかったある人物が、ある日、突如として言葉の奔流に襲われたという物語が辛うじて聞き取れる。観客は目の前の「口」こそがその人物なのではと思うのだが、「違う! 彼女よ!」という「口」の激烈な言葉は、それが自らの物語であることを否定しようとする。
『わたしじゃない』の上演では、「口」だけを舞台上に登場させるために、俳優の口以外の部分を布などで覆う方法が採られることが多い。だが、今回の演出を手がけた木村悠介は、自身が独自に発見した技術だという「箱なしカメラ・オブスキュラ」を用い、言葉を発する俳優の口元だけを映像として壁面に投影する方法を採用した。結果、セリフを発する俳優は自らの口の映像と対峙するかたちとなり、あたかも「口」と「聴き手」の一人二役を演じているかのような状況が出現していた。戯曲にも「口」と「聴き手」は同一人物なのではと思わせるような記述があり、木村の演出はそれを文字通りに成立させるものとしても興味深かった。
今回の公演には4人の俳優による四つのバージョンがあり、私はそのうち増田美佳と三田村啓示による上演を見たのだが、特に興味深かったのが三田村による上演だ。男性による上演は『わたしじゃない』という作品に対しいままでに思いもよらなかった解釈を可能にした。「口」の語りが、Male to Femaleのトランスジェンダーによる切実な存在証明として響いたのだ。
Male to Femaleというのは身体的な性は男でありつつ女の性自認を持つ人を指す言葉である。「口」の語りに登場するかつて言葉を持たなかった人物というのは、男性の身体に抑圧された内なる女性だったのではないか。周囲に認知してもらえなかったからこそ自らが、しかし「彼女」という三人称の下で=外からの名指しとしてその存在を語るしかなかったのではないか。「口」しか存在しないのは、身体こそが「彼女」の存在を覆い隠してきたからではないか。「違う! 彼女よ!」という激烈な否定はむしろ、自身の存在を肯定するための悲痛な叫びだったのではなかったか。
なぜ「口」は語り続けるのか。なぜ「彼女」の物語であることにこだわるのか。なぜ「口」だけなのか。なぜ「彼女よ!」と否定するのか。語る身体が女性である限りにおいて、これらの疑問に対する答は得られない。だが語る身体が男性に置き換えられた途端、すべてがあまりに腑に落ちはしないだろうか。この解釈が唯一の正解であるというつもりはないが、これまでに見た『わたしじゃない』のなかでもっとも胸に迫る上演となった。
公式サイト:http://scool.jp/event/20190620/
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2019/06/24(山﨑健太)
屋根裏ハイツ B2F 演劇公演『寝床』

会期:2019/06/14~2019/06/16
SCOOL[東京都]
屋根裏ハイツは中村大地が演出を務める演劇カンパニー。2013年の設立以降、仙台を拠点に活動してきたが、現在は活動の中心を東京に移している。利賀演劇人コンクール2019では『桜の園』の上演で中村が優秀演出家賞一席を受賞しており、名実ともに若手注目カンパニーのひとつとなっている。
『寝床』は同性カップルの内見、引きこもりがちらしい娘とその母の朝のやりとり、孤独死したらしき人物の部屋を清掃する業者、部屋を退去する直前の老夫婦の様子を描いた四つの場面で構成されている。
© 本藤太郎
© 本藤太郎
物語上は直接の関係はないと思われる四つの場面だが、いくつかの仕掛けによってゆるやかにつながってはいる。ひとつはすべての場面が同じ3人ないし2人の俳優(村岡佳奈、渡邉時生、安藤歩)によって演じられるということ。場面の切り替わりも明示されないため、観客の多くは場面が切り替わってからしばらくしてようやく、演じられているのが先ほどまでとは異なる場面であることに気づいたのではないだろうか。異なる場面で演じられる異なるはずの人物は、しかし地続きに演じられる。
地続きなのは俳優だけではない。会場であるSCOOLという雑居ビルの一室もまた、舞台美術などで覆われることなく、むき出しのまま(当然のことだが)つねにそこにある。いずれの場面も俳優と公演会場という同じ現実をベースとしてつくられている。
© 本藤太郎
各場面の設定にも共通点を見出すことができるだろう。同性カップル、引きこもり、孤独死した人物と特殊清掃業者、記憶の覚束ない老人。彼らはいずれも、現在の日本においては残念ながら周縁的な地位に置かれている人々だということができる。そしてタイトルが暗示する孤独死のモチーフ。カップルを案内する不動産管理会社の人間はそこが事故物件であることを告げ、体液の流れ出す夢を見た娘はそのまま孤独死した人物として業者によって搬出されていく。最後の場面にこそ死のモチーフは登場しないものの、老人がもっとも死に近いことは確かであり、彼らが去った舞台は空っぽのまま幕を閉じる。通底する孤独と死の気配。
だがもちろん、屋根裏ハイツは周縁に置かれた人々をひとまとめに扱っているわけではない。彼らはそれぞれに違った個人であり、それぞれに異なる悩みや希望を抱えているだろう。その違いを踏まえてなお、そこにないはずの/あるかもしれないつながりを仮構してみせるのは、彼らがそこにこそ演劇的想像力の可能性を見ているからなのではないだろうか。あるいはそれは単に、ここで描かれる世界もまた、私が生きるそれと同じ世界なのだという身も蓋もない事実を突きつけているだけのことなのかもしれないが。屋根裏ハイツの次回公演『私有地』は11月28日(木)から、同じくSCOOLで上演される。
© 本藤太郎
屋根裏ハイツ:https://yaneuraheights.wixsite.com/home
2019/06/16(山﨑健太)


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