artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
プレビュー:『緑のテーブル 2017』公開リハーサル

会期:2019/06/01
デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)1階KIITOホール[兵庫県]
神戸を拠点とするダンスカンパニー、アンサンブル・ゾネ(Ensemble Sonne)主宰の岡登志子が、第7回KOBE ART AWARD大賞と平成30年度神戸市文化賞をダブル受賞した記念公演が、6月1日に開催される。上演される『緑のテーブル 2017』は、ドイツ表現主義舞踊の巨匠クルト・ヨースの『緑のテーブル』(1932)に想を得て、岡の振付により新たに創作されたダンス作品。2017年に神戸で初演されたあと、愛知、東京で再演を重ねてきた代表作である。本公演に先駆けて、公開リハーサルと記者発表が行なわれた。
岡は、ヨースが創立したドイツのフォルクヴァンク芸術大学に学び、ヨースの流れを汲む身体訓練技法を基礎としてきた。初演のきっかけは、大野一雄舞踏研究所を母体とする特定非営利活動法人「ダンスアーカイヴ構想」から、「ダンス作品の継承」という観点でヨースの『緑のテーブル』に想を得た作品制作の依頼を受けたことにある。パリの国際振付コンクールで最優秀賞を受賞した『緑のテーブル』は、振付の譜面である「舞踊譜」に記録され、現在まで上演され続けている。だが岡は、「譜面通りに伝えていくことだけが「作品の継承」か?」と問題提起。また、『緑のテーブル』は、ナチスが台頭する当時の世相を反映した「反戦バレエ」と解されているが、「根底には人間の生命への尊重があるのでは」という思いから、まったく新しい作品として創作したという。 モダンダンス=抽象的と思われがちだが、『緑のテーブル』には「政治家」「パルチザン」「兵士」「難民」「死神」といった「配役」があってタンツテアター色が強く、岡の振付でも配役はほぼ踏襲されている。一部のシーンを除いて通し稽古が行なわれた公開リハーサルでは、ユーモア、内に秘めた強い感情の表出、爛熟した享楽、現代社会への風刺など、シーンごとにガラリと変わる構成の妙がそれぞれのソロや群舞を通して感じられた。
また、この『緑のテーブル 2017』には、岡、垣尾優、佐藤健大郎など関西を代表するダンサーのほか、舞踏家の大野慶人が特別出演し、アンサンブル・ゾネのメンバー、バレエ団のダンサー、公募ダンサーなどさまざまなバックグラウンドを持つダンサーが参加している。大野の出演の背景には、ドイツ表現主義舞踊に影響を受けた1930年代の日本のモダンダンスの流れが、舞踏につながっていることがあるという。また、上演会場のKIITOは、旧生糸検査所を改修した文化施設だが、建物の建築年は『緑のテーブル』初演の1932年と奇しくも重なる。ダンス史、「ダンス作品の継承」という問題、アーカイヴと創造の関係に加え、ヨーロッパと日本、時代差、ダンサーの身体的バックグラウンドといった差異など、さまざまな問題を考えさせる機会になるだろう。

『緑のテーブル2017』愛知公演 2018
[撮影:阿波根治 © Osamu Awane]
公式サイト:http://ensemblesonne.com/
2019/05/09(木)(高嶋慈)
ミロ・ラウ『コンゴ裁判』

会期:2019/04/27~2019/04/28
グランシップ 映像ホール[静岡県]
本作はコンゴ東部紛争についての「裁判」をめぐるドキュメンタリー映画である。「裁判」とカッコで括ったのは、それが本物の、つまり法的拘束力を持った公的なものではなく、ミロ・ラウらによって立ち上げられた模擬法廷におけるものだからだ。「演劇だから語り得た真実」という原題にはない副題はこの事実を指す。複雑に入り組んだ利害関係を背景に、語られることも裁かれることもされてこなかった紛争の現実。ラウは関係者に「演劇作品への参加」を呼びかけることで「真実」を明らかにする機会をつくり出した、らしい。
不勉強な私には大変勉強になる映画だった。紛争がレアメタル資源をめぐって引き起こされたものである以上、それは日本に住む私とも決して無関係ではない。この映画を見た程度で紛争の複雑な背景のすべてを理解することはできないが、たとえばスマートフォンの普及の裏でこのような事態が引き起こされていることは広く知られるべきであり、その意味で今後も上映が望まれる作品である。

映画『コンゴ裁判』より
しかし、本作を観終えた直後の私は物足りなさを感じてもいた。ラウの演劇作品の多くは過激とも言えるかたちで現実と虚構=舞台上の「現実」を突き合わせることで、観客にあらためて現実と向き合うことを迫る。たとえばこの8月にあいちトリエンナーレで上演される『5つのやさしい小品』はベルギー・ゲントの劇場CAMPOによる委嘱作品で、オーディションによって選ばれた地元の子どもたちが、90年代に起きた少女監禁殺害事件を「再演」するという作品だ。それと対峙する観客の内部に強烈な感情、あるいは倫理的な問いが喚起されるであろうことは想像に難くない。だが、『コンゴ裁判』という映画からは、そのような演劇の力を感じることができなかったのだ。
この物足りなさは、映画内である謎が解消されていないことと通じている。そもそも彼らはなぜ、加害者の自覚があるにもかかわらずノコノコと「法廷」に現われたのか。演劇だと思っていたから? たしかにそういうことになっている。だが、それはほとんど何も説明していないのと同じである。関係者たちが出廷を承諾するまでの過程がスクリーンに映し出されることはない。ラウの手練手管は伏せられている。結果として、この映画から演劇という嘘のありようはほとんど消去されていたように思われる。
たしかに、当事者にとって法的拘束力の有無は大きな違いだろう。そのような条件においてしか動かすことのできなかった現実があることもわかる。だが実のところ、法廷が本物であるか否かは、少なくともこの映画にとっては重要ではなかったのではないか。それを開くことさえできたならば、法廷が本物であったとしても、映画としての『コンゴ裁判』はほとんど変わらなかったのではないか。
考えてみればそれも当然だろう。ラウの目的は、まずはコンゴの現実を動かすことにあり、そして映画を見た人間を動かすことにあったはずだ。演劇はあくまでそのための道具でしかない。だから、物足りないという感想は、持てる者の側にいる私の傲慢だ。見るべきものをはき違えてはならない。

映画『コンゴ裁判』より
公式サイト:http://festival-shizuoka.jp/program/the-congo-tribunal/
『コンゴ裁判』アーカイヴサイト:http://www.the-congo-tribunal.com/
参考
コンゴ動乱:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E5%8B%95%E4%B9%B1
第一次コンゴ戦争:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
第二次コンゴ戦争:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
2019/04/27(山﨑健太)
新聞家『屋上庭園』

会期:2019/04/26~2019/04/30
つつじヶ丘アトリエ[東京都]
新聞家はこれまで、村社祐太朗自らが戯曲を執筆・演出し上演してきた。既存の戯曲を用いて一般に開かれた公演を行なうのは今回が初めてだ。「一般に開かれた」とわざわざ断ったのは、そもそも村社演出による『屋上庭園』(作:岸田國士)は利賀演劇人コンクール2018で上演され奨励賞を受賞した作品であり、今回の上演はその改定再演だからだ。利賀演劇人コンクールで上演された作品がほかの場所で「再演」されることはそれほど多くないのだが、コンクールの成果を広く問う意味でもこのような「再演」には大きな意義があるだろう。
村社の「戯曲」はほぼ散文といってよい形式をとり、その上演に一般的な意味での会話はない。言葉は決して難解なわけではないが容易には意味が取りづらく、しかしそこが魅力でもある。上演においては俳優が他者としての言葉と対峙する様がクローズアップされ、それを観る私もまた、そのような態度を要請される。一方、『屋上庭園』は(およそ100年前に書かれた戯曲ではあるが)平易な言葉で紡がれる会話劇だ。同じ新聞家名義での公演とはいえ、両者の上演は相当に異なるものになるだろう、と思っていた。
だが考えてみれば、他者としての言葉に対峙するという意味では俳優の営為に違いはない。戯曲自体の言葉の質の違いを別にすれば、『屋上庭園』の上演から受けた印象は、新聞家のこれまでの作品のそれと驚くほど変わらなかった。『屋上庭園』という戯曲とそこに書き込まれた人々のことがこれまでにないほど「よくわかる」とさえ思わされたのは、新聞家が「他者」と徹底して向き合ってきたことを考えれば至極当然だったのかもしれない。
人の出入りや金の受け渡しなど、戯曲に書き込まれた必要最低限の動きこそ実行されるものの、演技はいわゆる「リアリズム」からはほど遠く、4人が寄り添い同じ方向を向いて立ち尽くす(記念写真を撮るかのような)状態が基本となる。その視線の先には透明のアクリルボードのようなものがあり(美術:山川陸)、そこには俳優たちの姿もうっすらと映り込んでいただろう。この配置自体、2組の夫婦が/夫と妻とが、互いに己を映し合う『屋上庭園』の構造、そして新聞家の実践それ自体を可視化するようでもある。
横田僚平、那木慧、菊地敦子、近藤千紘の4人の俳優の演技はきわめて解像度の高い「リアル」な情感を私のうちに呼び起こした。男女の配役はそれぞれダブルキャストになっており、2×2で4パターンの配役があったらしい。自身が見た回の配役こそが最適解であると思わされたが、おそらくいずれのパターンも等しく精度の高い、しかしそれぞれに異なった「リアル」を感知させる上演だったのだろう。一見したところ抑制されているように見える俳優の発話や挙動が、それゆえむしろ微細な差異を際立たせる。観客はそうしてそこにある「テクスト」とそれぞれに対峙する。新聞家の実践が決して特殊なものではなく、むしろ演劇原理主義的な側面を持つものであることをあらためて確認できたという点においても(それはつまり演劇の原理(のひとつ)をあらためて確認することでもある)有意義な体験だった。
©村社祐太朗
©村社祐太朗
©三野新
©三野新
©村社祐太朗
©村社祐太朗
©村社祐太朗
©村社祐太朗
©村社祐太朗
公式サイト:https://sinbunka.com/
2019/04/26(山﨑健太)
若だんさんと御いんきょさん『時の崖』

会期:2019/04/19~2019/04/21
studio seedbox[京都府]
安部公房の『時の崖』という同じ戯曲に対して、3人の演出家がそれぞれ演出した一人芝居×3本を連続上演する好企画。シンプルに提示した合田団地(努力クラブ)、抽象的かつ俳優の身体性に比重を置いた和田ながら(したため)、競争社会への批判的メッセージを読み込んで具現化した田村哲男、という対照的な3本が並んだ。
「負けちゃいられねえよなあ……」という台詞で始まる『時の崖』は、「試合前、プレッシャーをはねのけるようにしゃべり続けるボクサーのモノローグ」として始まる。減量の辛さをぼやき、おみくじの結果に一喜一憂し、赤い靴下を新調して縁起をかつぎ、早朝のロードワークに始まる毎日のトレーニングメニューの詳細を述べ立てる。試合に負けることへの不安と自意識過剰気味の自信、ハイとロウの両極を不安定に揺れ動く、人格が分裂したかのようなモノローグ。だが、「こんど負けたら、ランキング落ちだからなあ」という台詞に続く試合場面では、「一つランクを上がるたびに5人の相手をつぶしているわけだから、チャンピオンは50人のボクサーをつぶした勘定になる。やりきれんな、つぶされる50人のほうになるのは」「1人でも他人を追い越そうと思えば、これくらいのこと(きついトレーニングと自己管理の徹底)はしなくっちゃね」といった独白が続き、「落ち目のランキング・ボクサーのぼやき」のかたちを借りた競争原理社会への批判が根底にあることがわかってくる。
1本目を演出した合田団地は、解釈や手を極力加えず、素舞台に俳優の身体のみでシンプルに提示。だが、自暴自棄になった叫びは、自意識過剰気味のダメさや退行性を露呈させ、紙一重の笑いを誘う点に持ち味が光る。一方、2本目を演出した和田は、「おれ」という一人称でしゃべるボクサーにあえて女優を起用。畳みかけるようなモノローグの饒舌さとは裏腹に立ったその場から動けない、発話内容と無関係に突発的に前のめりにつんのめる、といった拘束性や負荷によって俳優の身体性を前景化し、戯曲内容から距離を取って提示した。その手つきは、戯曲を抽象化しつつ、身体運動によって補強する。例えば、「7位から8位……8位から9位……」とランキング落ちを数える場面では、俳優の身体は壁際へと後退していく。4ラウンドでダウンされ、「変だな……自分が2人になったみたいだな」と呟く場面では、照明が壁に影=分身を投げかける。その輪郭をそっと撫でながら、「食事制限も、酒もタバコも、やりそこなったことを、すっかり取り返してやるんだ」と言うラストシーンは、犠牲にして葬ってきたもうひとりの自分への慰撫や和解を思わせ、試合に負けてボクサーは辞めるかもしれないが、「これからの人生は自分自身と向き合って生きていくのでは」というポジティブな余韻を感じさせた。

合田団地演出『時の崖』

和田ながら演出『時の崖』
一方、3本目を演出した田村哲男は、戯曲に込められたメッセージを抽出してリテラルに具現化。俳優はビジネススーツを着込んだ中年男性であり、「勝負の世界に生きるボクサー」の独白は、「激しい競争社会のなかで疲弊するサラリーマン」のそれと二重写しになる。ここで重要な役割を果たすのが「字幕」の存在だ。冒頭、「正社員のポストを用意しました。即戦力として期待しています」と背後で告げる字幕は、派遣もしくは契約社員から「這い上がった」彼が、より過酷な競争に晒される状況を示唆する。また、試合場面では、「右から行け」「もたもたするな」「ジャブが大きすぎるぞ」といったセコンドの指示が響くのだが、背後の字幕は「もっと数字を上げろ」と言う上司の叱責にパラフレーズされる。「正社員」という単語や字幕が女性口調であることは、正規/非正規の格差競争や女性の社会進出など、50年前に書かれた戯曲との時代差を示唆する。また、床に白いテープで引かれた四角い境界線は、シンプルながら四重、五重の意味を担って秀逸だ。それは、文字通りにはボクシングのリングであり、会社の仕事机の領域であり、舞台/客席を分ける境界線であり、鼓舞と自嘲を行き来するモノローグ=彼の内的世界の領域であり、同時にそこから出られない檻や結界でもある。ダウンされてマットに沈み、「4年と6カ月か……結局、元のところへ逆戻りだ」と呟き、「頭が痛くて破裂しそうだ」とうめくラストは、「正社員」からの転落、さらには過労死を暗示して終わる、苦い幕切れとなった。

田村哲男演出『時の崖』
戯曲のシンプルな提示に始まり、抽象化して距離を取る手続きによって解釈の幅を広げて作品世界に膨らみをもたせたあと、ひとつの方向に凝縮させて明確に具現化する。3本の上演順も効いていた。安部公房の作品は著作権が切れていないため、上演に際して一切カットできない。そうした制約にもかかわらず、いや編集や改変ができないからこそかえって、ひとつの戯曲が演出次第で可塑的に変形することが如実に示され、演出家の指向性とともに、戯曲の持つ潜在的な多面性を引き出すことに貢献していた。改変の禁止に加えて、「一人芝居」という形式のシンプルさも大きい。
だが最後に、『時の崖』は「メタ演劇論」としても読める戯曲であることを指摘したい。台詞にはシャドウボクシングの言及が多いが、相手が「いる」と仮定し、仮想の相手の動きを予測しつつ、ひとりでパンチを繰り出すシャドウボクシングは、「モノローグ」という形式と合致する。また試合中に聞こえる動きの指示は、戯曲では「セコンド」とは明記されず、ただ「声」とのみ記されている。姿は見せず、声だけで動きを指示し、強制し、束縛し続ける存在は、絶対的な声として振る舞う演出家を想起させる。したがって『時の崖』は、ボクサー=俳優、「声」=演出家という解釈も可能だ。「演出家」という存在にスポットを当て、「演出とは何か」を問う企画だからこそ、メタ演劇として『時の崖』を上演する演出も見たかったし、あってしかるべきではなかっただろうか。
2019/04/21(日)(高嶋慈)
ホエイ『喫茶ティファニー』

会期:2019/04/11~2019/04/21
こまばアゴラ劇場[東京都]
2018年に上演した『郷愁の丘ロマントピア』が第63回岸田國士戯曲賞最終候補作に選出されたホエイ。新作の舞台はレトロなアーケードゲームの卓が残る古びた喫茶店だ。初めて店を訪れたらしい男(尾倉ケント)は連れの女(中村真沙海)からマルチ商法まがいの「ビジネス」に誘われている。女の上司(斉藤祐一)、男の友人(吉田庸)らも合流し、「ビジネス」の話を進めようとするうち、男女がともに在日コリアンであることが明らかになり──。
「正義」や「常識」は相対的なものであり、多くの人がそれを「正しい」と信じているという程度のことでしかない。茶碗をめぐるマナーひとつとっても韓国と日本とでは違いがあり、それがときに摩擦やイジメを生む。物語の主軸をなすのは在日コリアンの置かれた困難な状況とその抜け出しがたさだが、それらを生み出す構造は世のあちこちに見出すことができる。
「詐欺してますよね」「だまされてますよ」とマルチ商法であることを指摘し「人助け」をしようとした女性客(赤刎千久子)が逆に店から追い出されてしまう場面が印象的だ。そこでは彼女の言動は「正義」とは見なされない。直前に彼女がいかに自らが「正当な」日本人であるかを説明していたことも影響したのかもしれない。「ビジネス」に望みをかけ、何とか現状を打破しようとする人々にとって、彼女の言葉は邪魔なものでしかない。
©三浦雨林
ところで、これまでのホエイのほとんどの作品では、ある意味で「学芸会」的ともいえる簡素な舞台美術が採用されてきた。そこにはないものを「見る」ための想像力を刺激する戦略としてだろう。しかし今作では「リアルな」喫茶店のセットが組まれている。しかも、照明こそ換わるものの、喫茶店以外の場面もそのセットのままで演じられるのだ。このことは何を意味しているのだろうか。
見えていないものを想像することはもちろん重要だ。だがそのためには、そもそも自分には見えていないものがあるのだという自覚がなければならない。友人の出自、異性の抱える困難、あるいは自国の歴史。それが遠い外国のことであれば「知らない」と自覚することは比較的容易、かもしれない。だが、目の前に「見えているもの」があればその分だけ、その向こうに「見えていないもの」があることは想像しづらい。喫茶店のかたちで観客の目の前にはっきりと存在する「今ここ」とは異なる位相で語られるエピソードは登場人物には「見えていないもの」として、観客にのみ開示される。
作品のほとんど最後に至ってさりげなく、物語上は特に意味のないかたちで「クノレド」という単語が登場するのも示唆的だ。なるほど、本作は在日コリアンを中心とした物語だったかもしれない。だがその向こうには無数の同型の、同時にまったく違った問題がある。そもそも在日コリアンについてだって私はロクに知ってはいないのだろう。「知っている」ことの安全圏の外側を、私は想像し続けることができるだろうか。
©三浦雨林
公式サイト:https://whey-theater.tumblr.com/
ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』レビュー:https://artscape.jp/report/review/10142986_1735.html
2019/04/21(山﨑健太)


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