artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

KYOTO EXPERIMENT 2019|久門剛史『らせんの練習』

会期:2019/10/20

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

サウンド、光、立体を繊細に組み合わせて場所に介入し、時に自然現象さえ想起させる詩的なインスタレーションをつくり上げてきた久門剛史。KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGで世界初演されたチェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』で舞台美術と音を担当した経験を経て、自身初となる劇場作品を発表した。

観客は、バックステージの通路を通り抜けて、通常は「舞台」である空間に身を置いて鑑賞する。ゆっくりと暗闇に包まれると、前方で小さな光が瞬き始める。ガラスの球体の中で呼吸するように瞬くその光は、夜の海に浮かぶ夜光虫の群れのようだ。やがて空間を覆っていた「幕」が上がり、整然と並ぶ空っぽの椅子が現われ、観客はこの「舞台」へと反転された「客席」と対面して時空の旅人となる。客席にはスタンドライトが置かれて灯り、それは孤独な街灯を遠くから眺めているようにも見え、室内にいるのか、屋外なのかの感覚が曖昧になっていく。この知覚の攪乱は、「音」のレイヤーによってさらに増幅される。反復される電話の呼び出し音。ひぐらしの声。遠雷の響き。踏切の音。水滴の滴り。何かが落ちて壊れる音。コップに水を注ぐ音は、増幅され、激しい水流が部屋の中に侵入してきたような錯覚を与える。人工/自然、室内/屋外の境界が曖昧になり、音の遠近感が攪乱され、次第にカオティックに、暴力的になっていく音の洪水。それは、明滅するストロボ光や激しいフラッシュと相まって、知覚した刺激を情報としてうまく処理できない知覚過敏や精神病患者の世界を疑似体験しているようにも思える。一方、ピアノの鍵盤を叩いて一音ずつ確かめる「調律師」の登場は、この無秩序でカオスの氾濫した世界に、再び「秩序」を取り戻そうとする調停者の象徴だろう。

カオスの氾濫と、秩序の回復への希求がせめぎ合う世界。だが中盤では、「舞台」の床の上をスモークが覆い、たなびく雲海や、霧の立ち込める冬の澄んだ湖面を思わせる。また、「客席」から宙に浮いたカーテンは、風にはためきながら、「落ちる雨だれの音」と同期して広がる光の輪が投影されるスクリーンとなる。こうした「自然現象(の疑似的な抽出)」は、「暴力的であることと美しいことは矛盾しない」という言葉を発する。ただ、時報とともに断片的に流れる「台風の影響による道路情報」のアナウンスは、直近の台風19号の被害を直截的に連想させる点で、生々しい現実の侵入が緻密な構築世界を壊しかねない危惧を感じたが、特定の災害への言及というよりは、(無数の)自然災害の記憶へのトリガーと解するべきだろう。



[Photo by Takeru Koroda, Courtesy of Kyoto Experiment.]




[Photo by Takeru Koroda, Courtesy of Kyoto Experiment.]


ラストシーンでは、はるか高みの客席の天井から無数の紙片が落下し、舞い散る吹雪のようにも、文明の象徴としての書物の解体が暗示する人間世界の終末をも感じさせた後、再び暗闇が覆い、ガラスの球体の中で小さな光が瞬き始める。ひとつの宇宙の消滅さえ感じさせる大きな破壊の後で、原初の生命が(再び)誕生する瞬間を目撃するかのようだ。タイトルの「らせん」とは、一周した輪が閉じて完結するのではなく、少しズレながら、新たな時空上で再びループを描いていく、終わることのない反復構造を意味している。



[Photo by Takeru Koroda, Courtesy of Kyoto Experiment.]


美術・映像作家が手掛ける舞台作品、とりわけ劇場の物理的機構それ自体を俎上に載せ、(ほぼ)無人劇と音や光の緻密な構築によって、一種の「劇場批判、上演批判」と幻惑的なイリュージョンの発生の両立をはかる手法は、例えばアピチャッポン・ウィーラセタクンの『フィーバー・ルーム』や梅田哲也の『インターンシップ』などとも通底する。


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2019/


関連レビュー

TPAM2018 梅田哲也『インターンシップ』|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/10/20(日)(高嶋慈)

アッセンブリッジ・ナゴヤ 2019 |山下残『屋合』

会期:2019/10/17~2019/10/20

Minatomachi POTLUCK BUILDING 屋上[愛知県]

代表作のひとつ『大行進』を昨年の同フェスティバルで上演した山下残が、滞在とリサーチを経て制作した新作公演。「夜間のビルの屋上」というロケーションを活かし、身近な道具を改変した楽器やデバイスを用いてパフォーマンスを行なうおおしまたくろうとコラボレーションを行なった。おおしまが自作した楽器やデバイスが発する音、光、動き、振動と山下のダンスが多層的に共存する、予測不能でスリリングな時間となった。



[撮影:蓮沼昌宏 写真提供:アッセンブリッジ・ナゴヤ実行委員会]


暮れた夜空とビル群を背景に、屋上に設えられた仮設のステージ。現れた山下は、直立した姿勢のまま、足指の微細な運動を足裏、足首、膝、太腿、下半身全体へと徐々に波及させていく。硬直と恍惚、脱力と緊張が入り混じったその動きは、どこか浮遊感を伴い、観客の目線と同じかそれより高く設定されたステージの高さと相まって、彼の身体は空中に頼りなく浮かんでいるかのようだ。一方、おおしまはその傍らで、スピーカーやアンプをいじり、ノイズを次々と発生させ、山下が波動状に運動し続けるステージ上に糸(ピアノ線)を張り渡していく。このピアノ線には小さなデバイスが吊り下げられ、星の瞬きのような光の明滅とノイズの発生を繰り返す。開放的な空間を次第に充満させる音、光、振動は、だが、山下の身体が不意にビルの縁から路上に身を滑らせたような「落下」によって中断される。

「追悼」のささやかな記念碑のように、おおしまが積み上げる黒い石。その上には明滅するライトが置かれ、遠くのビルの屋上で明滅を繰り返す赤い灯(航空障害灯)とシグナルを送り合っているかのようだ。さらに、自走する照明・音響装置も投入され、激しさを増す光と音、ノイズの氾濫のなか、スモークの向こうから「復活」した山下の身体が現われ、再び落下して見えなくなる。非常事態を告げるサイレンのように、戦場の銃撃のように鳴り響くノイズ。霧のたなびく海面を照らす灯台の光のように、あるいは硝煙の渦巻く戦場で「敵」をサーチするドローンのように、回転するライトは暴力的な眩しさで観客の目を射る。ここでは、デバイスや操作する身体が徹底して剥き出しの即物性と、にもかかわらず発生するイリュージョンというアンビバレント、その調停の不可能さ、そして光の浸食、ノイズの洪水、「落下」を繰り返す身体という事態の暴力性にただ耐え、幻惑されるしかない。



[撮影:蓮沼昌宏 写真提供:アッセンブリッジ・ナゴヤ実行委員会]


浮動と「落下」、そして「復活」を繰り返す山下の身体は、ラストシーンの「復活」ではビルの縁の「向こう側」に身を置いているように見え、反復による強度が「死と(再)生」のドラマをもたらす一方で、むしろ身体の実在感は希薄化する。現実空間の「先」にありながら、そこから遊離した一種の幽霊化。そこには、日常空間と地続きだが同時に非日常性を湛えた「屋上」というロケーションもうまく作用している。屋外での上演は珍しい山下だが、周囲の環境を舞台装置の一部や「借景」として取り込んだ本作は、「野外上演」の今後の展開を期待させるものだった。


公式サイト:http://assembridge.nagoya/

2019/10/19(土)(高嶋慈)

Oeshiki Project ツアーパフォーマンス《BEAT》

会期:2019/10/16~2019/10/18

雑司ヶ谷 鬼子母神堂周辺[東京都]

東アジア文化都市2019豊島の一環として実施されたOeshiki Project ツアーパフォーマンス《BEAT》。参加者たちがやがて合流することになる「鬼子母神 御会式」は「享和・文化文政の頃から日蓮上人の忌日を中心とした、毎年10月16日から18日に行われている伝統行事」で、「当日は、白い和紙の花を一面に付けた、高さ3~4メートルの万灯を掲げて、団扇太鼓を叩きながら鬼子母神まで練り歩」くものだ。劇作家の石神夏希、中国出身のアーティストであるシャオ・クウ×ツウ・ハン、そして音楽ディレクターの清宮陵一らのチームは御会式連合会の協力のもと、多くの人を巻き込むツアーパフォーマンスをつくり上げた。

集合場所は西池袋公園。私はそれを東京芸術劇場のある池袋西口公園のことだと思い込んでいたので少々慌てたのだが、行ってみれば池袋西口公園からほど近くにあるごく普通の(やや広めの)公園に参加者たちが集まっている。月に数度は池袋を訪れるが、こんな公園があるとは知らなかった。受付で手持ちの太鼓とバチ、アンパンとミネラルウォーターのペットボトルが手渡される。

50人ほどの参加者はおよそ10人ずつに分かれて説明を聞く。参加者はまず、1人ないし2人ずつに分かれ、渡された地図をもとに「待ち合わせ場所」に向かう。そこで待っているのは「トランスナショナルな(国境を越えて生きる)市民パフォーマーたち」らしい。立教大学脇の路地でヴェトナムから来たシステムエンジニアのDさんと無事に落ち合った私は、太鼓の叩き方を習いながら次の会場へと導かれる。ホスト役はDさんだが、どうやら池袋については私の方が詳しいようだ。会話は日本語にときどき英語が混じる。

[撮影:鈴木竜一朗]

次の会場はビルの谷間の古民家、と呼ぶにはこざっぱりとはしているが風情のある一軒家。到着するとお茶がふるまわれる。私は蓮茶を選ぶ。Dさんによればヴェトナムではポピュラーなのだという。日本人好みの味なように思うが日本ではあまり飲めないらしい。参加者が揃ったところで「平舎(ひらや)」と呼ばれるその場所の来歴(池袋在住300年18代!)と、韓国でフラを教えているという在日コリアンの女性の話を聞く。参加者の何人かから募った言葉でフラをつくり(フラの振りは言葉と対応している)、みんなでそれを少しだけ踊ってみる。

平舎を出て次の会場へ。参加者+パフォーマーのおよそ20人で列をつくり、街中を練り歩きながら太鼓を叩く。参加者とパフォーマーとで異なるリズム。東京メトロ副都心線池袋駅改札のある地下通路を通り東口側へ抜ける。たどり着いた中池袋公園にはすでにほかのグループが揃っていた。グループごとにまた異なるリズムを披露したあと、その場にいたおよそ100人ほどが大きな輪になり、ぐるぐると回りながらともに太鼓を打ち鳴らす。そのまま大きな集団となってまた次の場所へと池袋の街を練り歩く。

[撮影:鈴木竜一朗]

御会式に合流する前に南池袋公園で小休止。フェスティバル/トーキョーの会場のひとつとして使われることもあり、私にとっては多少なりとも見覚えのある場所だ。聞けば、ここから先どうするのかはDさんも知らないらしい。考えてみれば当然のことだ。これから参加する「鬼子母神 御会式」は年に一度の本物の祭りなのだ。練習はできない。

都電荒川線都電雑司ヶ谷駅の近くまで移動し御会式連合会の方々から太鼓の叩き方のレクチャーを受ける。ヤキソバ、りんご飴、ケバブ、タピオカ、じゃがバター。屋台の並ぶ参道をゆっくりと練り歩く。お堂への参拝をクライマックスに、近くの集会所で各国のスナックをつまみチルアウトしてなんとなくの解散。Dさんとも別れ帰途につく。

[撮影:鈴木竜一朗]

4時間のなかで特に印象に残った場面が二つある。といってもそれはパフォーマンスとして用意された瞬間ではない。ひとつは中池袋公園でのこと。公園を占拠し、ぐるぐると回りながら太鼓を打ち鳴らす「私たち」の姿を多くの人がスマホで撮影していた。そのなかには海外からの観光客と思しき姿もあった。彼らは「私たち」をなんだと思っただろうか。それはその日初めて行なわれた、いわば「ニセモノ」の祭りだ。再開発されたばかりの真新しい中池袋公園に集ったヨソモノ同士の集まりも、はたから見れば地域の祭りと変わらなかったかもしれない。

もうひとつは御会式連合会の人の言葉だ。太鼓の叩き方をレクチャーしてくれたその人は「私たち」にこう言った。「東アジアの方はこちらへ」。これがけっこうな衝撃だったのは、まずもって自分が「東アジアの方」と呼ばれるとは思ってもいなかったからだということを白状しなければならない。もちろん日本は東アジアなのだから私をそう呼ぶことは正しい。そもそも《BEAT》は「東アジア文化都市2019豊島」の一環として実施された事業なのであって、「東アジアの方」という言葉はその参加者という意味で使われたのだろう。ならばその言葉を発したその人は「東アジアの方」ではない? さらに言えば、そこには東アジア以外の地域出身の人もいた。だがいずれにせよ、ひとたびお練りが始まってしまえば私たちはみな一緒くたになって太鼓を打ち鳴らすのだった。

[撮影:鈴木竜一朗]

[撮影:鈴木竜一朗]

ローカルであるとは、その場所にいるとはどういうことか。「鬼子母神 御会式」はもともと「日蓮聖人を供養するために行なわれる仏教の行事」だ。私は日本の東京の池袋の祭りに参加したつもりでいたのだが、そもそもは仏教も鬼子母神もインドに由来する。そうして縁はぐるぐる回っている。


公式サイト:https://www.beat-oeshiki.jp/

2019/10/16(水)(山﨑健太)

KYOTO EXPERIMENT 2019|庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』/ブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』

ロームシアター京都 ノースホール、元離宮二条城+平安神宮[京都府]

庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』とブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』。上演日程を同じ週に設定した確信犯的意図は明らかだ。「儀式性」「観客への集団化作用」という共通項と、対照性を感じた両者を、本評ではまとめて取り上げる。

庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』は、上演空間が本物かと見紛うほど精緻に作り込まれた「お堂内部」に変貌し、「蛸」を「神」と崇める8名の信者(を模したパフォーマー)とともに読経や唱和に参加し、(疑似)宗教儀式のトランスを体験するという作品だ。観客を構築されたフィクション内部へと誘う仕掛けは、(上演開始前から既に)周到に幾重にも仕掛けられており、入場前に「名前と願い言」を書いたお札が儀式中に読み上げられてお焚き上げされる、「お堂内の窓や扉を密閉する」作業を観客にやらせる、「経典」や打楽器を配り、読経や木魚を叩くリズムに参加させるなど、「儀式」とその集団化作用へ取り込もうとする「演出」が散りばめられている。さらに、パフォーマーたちが次々と繰り広げる歌唱、三味線や二胡などの演奏に加え、「火入れ」された中央の炉、それが発散する熱、炉に投入されるお香のスパイシーな香りが五感の総動員へと駆り立てる。



[Photo by Yoshikazu Inoue, Courtesy of Kyoto Experiment.]



一方、ブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』は、二条城(13日)と平安神宮(14日)という屋外空間で、9名の女性パフォーマーの身体と声だけで行なわれるミニマルな作品。薄暗くなり始めた夕空の下、静かに入場したパフォーマーたちは、頭に巻いた白いスカーフと黒服というそろいの出で立ちだ。互いに数メートルの距離を保ち、別々の方向を向いて立った彼女たちは、しばしの沈黙の後、頭と上体を激しく前後に振りながら、掛け声とも動物の咆哮ともつかない鋭い叫びを、一定のリズムで反復し始めた。彼女たちは約30分間、位置は不動のまま、短くも全身全霊の叫び声を発し続ける。ひとりの叫びのトーンが少し変化すると、他の声もそれに応答し、時に微妙にズレるリズムは多層的な音響の揺らぎを発生させていく。豊かな反復と差異を湛え、「自律」と「共鳴」の拮抗関係を保ち続けた後、彼女たちはひとり、またひとりと沈黙し、向き合う二人だけとなり、最後のひとりもやがて叫びを停止した。



[Photo by Takeshi Asano, Courtesy of Kyoto Experiment.]


ここで前者の庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』を振り返ると、「蛸=神を信仰する」というフィクショナルな意味の中心(の空虚さの充填)に向かって、容器(舞台美術の造形的完成度)と振る舞い(宗教儀式の形態的模倣)が全力で投入されていたと言える。だが、舞台美術を作り込めば作り込むほど「つくりもの」感が増し、「みんなでお祭りに参加する楽しさ、エネルギーの発散」はあっても、歌舞音曲を伴う宗教儀式(とそれを起源のひとつとする舞台芸術)が本質的にはらむ「身体的同調を通した集団化作用」に対する批判的契機は見られなかった。観客をどこまで「ノせる」のか?(読経や打楽器のリズムに、あるいは(フィクションと了解しつつ)「(疑似)宗教儀式」そのものに)。「実際に、トランス状態に陥った観客が踊り狂う」事態の出現まで想定していたのか、そこまでの狙いがあったのかは不明だが、観客の身体に対する演出設計について言えば、パフォーミングエリアと客席を明確に分け、「『堂内』にすし詰めで座ったまま、ほぼ身動きが取れない」拘束的な状況は、むしろ足枷となったのではないか。


対照的に、ブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』は、そうした意味の中心性が仮構されていなくとも、求心力の弱まりにはならず、むしろ体験の強度が増すことを示していた。そのことは、(パフォーマーが煽らなくとも)「磁場の中心に吸い寄せられるように、観客の輪が自然発生的に縮まる」事態が簡潔かつ雄弁に物語っていた。パフォーマンスが(淡々と、しかし次第に熱を帯びて)進行するにしたがい、初めは遠巻きに取り囲んでいた観客たちは、次第にその輪を縮め、至近距離で眺める人もいた。本作では、観客の身体的振る舞いも(作品要素のひとつとして)計算されている。それは、「その場に不動のパフォーマーたち/座席がなく、自由に移動できる観客」という設計上の対比構造に如実であり、効果的に作用していた。装飾的要素を切り詰めたミニマルに徹しつつ、パフォーマーの声の豊かな振幅の強度によって、「観客の身体感覚に対して遠隔操作的に作用し、その点を反省的に自覚させる」点で、秀逸な作品だった。



[Photo by Takeshi Asano, Courtesy of Kyoto Experiment.]



庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』
会期:2019/10/11~2019/10/15
会場:ロームシアター京都 ノースホール

ブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』
会期:2019/10/13~2019/10/14
会場:元離宮二条城、平安神宮


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2019/


関連レビュー

庭劇団ペニノ「蛸入道 忘却ノ儀」|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2018年07月01日号)

2019/10/14(月)(高嶋慈)

岡山芸術交流2019 IF THE SNAKE もし蛇が

会期:2019/09/27~2019/11/24

旧内山下小学校、岡山県天神山文化プラザ、岡山市立オリエント美術館、岡山城、林原美術館ほか[岡山県]

岡山芸術交流2019は、岡山城などの会場が増えたとはいえ、前回と同様それほど広域に作品が点在せず、コンパクトなエリアに集中しているために、半日もあれば十分にまわることができるのがありがたい。また、日本の作家がほとんどいないため、ドメスティックな感じがせず、ヨーロッパの国際展を訪れているような雰囲気を維持しており、よい意味で日本の芸術祭っぽくない。そして今回はピエール・ユイグがディレクターなだけに、全体的に作品も暗く、変態的である。

しかもメインの会場となった都心の旧内山下小学校は、朝イチで足を踏み入れたにもかかわらず、ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニによって、かつての教室群が不気味な空間に変容しているほか、マシュー・バーニーらの奇妙な実験があり、もしも日が暮れる時間帯だったとすると、相当怖い体験になるのではないかと想像した。体育館の巨大な空間を用いたタレク・アトウィによるさまざまなサウンド・インスタレーションも印象的である。



ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニ《非ずの形式(幼年期)、無人、シーズン3》



マシュー・バーニー&ピエール・ユイグ《タイトル未定》



タレク・アトウィ《ワイルドなシンセ》展示風景

屋外では、パメラ・ローゼンクランツの作品《皮膜のプール》やティノ・セーガルによる運動場の盛り土があまりにも不穏だった。越後妻有アートトリエンナーレでも、いろいろな小学校がアートの展示に用いられていたが、岡山芸術交流2019のような暗さやわかりにくさは抱えていない。


パメラ・ローゼンクランツ《皮膜のプール(オロモム)》


ティノ・セーガルによる運動場の盛り土

前川國男が設計した林原美術館には、ユイグによる少女アニメの映像の横からリアルな少女がとび出してパフォーマンスを行なう作品があるのだが、朝早かったので、あやうくひとりで鑑賞しそうになった。人が少ないと緊張する作品である。また、シネマ・クレールで上映されたジロー&シボーニの作品にはまったく言葉がなく、ひたすら奇怪なイメージが続く。

また今回は岡山市立オリエント美術館も会場に加わり、常設展示のエリアに3点の現代アートがまぎれ込む。そのおかげで岡田新一がデザインした空間を再び体験することになったが、目新しさはないものの、逆に現代の建築には失われた重厚さが心地よい。なお、岡山芸術交流では建築系のプロジェクトがしており、先行して完成していた青木淳に加えて、マウントフジアーキテクツスタジオと長谷川豪がそれぞれ海外のアーティストとコラボレートした宿泊棟が誕生したことも特筆できる。



青木淳+フィリップ・パレーノのコラボレートによる宿泊施設「A&A TUBE」



マウントフジアーキテクツスタジオ+リアム・ギリックのコラボレーションによる宿泊施設「リアムフジ」

岡山芸術交流2019 公式サイト:岡山芸術交流2019

2019/10/14(月)(五十嵐太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00050557.json s 10158309