2019年11月01日号
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artscapeレビュー

木村悠介/サミュエル・ベケット『わたしじゃない』

2019年10月15日号

会期:2019/06/20~2019/06/24

SCOOL[東京都]

『わたしじゃない』はサミュエル・ベケットの後期戯曲作品のなかでも特に奇妙な作品である。登場するのはひたすらにしゃべり続ける「口」と、それに対峙し無言のままに言葉の奔流を浴びる「聴き手」だけ。「口」は文字どおり口だけが宙に浮かぶよう指定されていて、一方の「聴き手」は黒い布に全身が覆われその正体は杳(よう)として知れない。「口」の断片的な語りに耳を澄ませば、ひと言も口をきくことのできなかったある人物が、ある日、突如として言葉の奔流に襲われたという物語が辛うじて聞き取れる。観客は目の前の「口」こそがその人物なのではと思うのだが、「違う! 彼女よ!」という「口」の激烈な言葉は、それが自らの物語であることを否定しようとする。

『わたしじゃない』の上演では、「口」だけを舞台上に登場させるために、俳優の口以外の部分を布などで覆う方法が採られることが多い。だが、今回の演出を手がけた木村悠介は、自身が独自に発見した技術だという「箱なしカメラ・オブスキュラ」を用い、言葉を発する俳優の口元だけを映像として壁面に投影する方法を採用した。結果、セリフを発する俳優は自らの口の映像と対峙するかたちとなり、あたかも「口」と「聴き手」の一人二役を演じているかのような状況が出現していた。戯曲にも「口」と「聴き手」は同一人物なのではと思わせるような記述があり、木村の演出はそれを文字通りに成立させるものとしても興味深かった。

今回の公演には4人の俳優による四つのバージョンがあり、私はそのうち増田美佳と三田村啓示による上演を見たのだが、特に興味深かったのが三田村による上演だ。男性による上演は『わたしじゃない』という作品に対しいままでに思いもよらなかった解釈を可能にした。「口」の語りが、Male to Femaleのトランスジェンダーによる切実な存在証明として響いたのだ。

Male to Femaleというのは身体的な性は男でありつつ女の性自認を持つ人を指す言葉である。「口」の語りに登場するかつて言葉を持たなかった人物というのは、男性の身体に抑圧された内なる女性だったのではないか。周囲に認知してもらえなかったからこそ自らが、しかし「彼女」という三人称の下で=外からの名指しとしてその存在を語るしかなかったのではないか。「口」しか存在しないのは、身体こそが「彼女」の存在を覆い隠してきたからではないか。「違う! 彼女よ!」という激烈な否定はむしろ、自身の存在を肯定するための悲痛な叫びだったのではなかったか。

なぜ「口」は語り続けるのか。なぜ「彼女」の物語であることにこだわるのか。なぜ「口」だけなのか。なぜ「彼女よ!」と否定するのか。語る身体が女性である限りにおいて、これらの疑問に対する答は得られない。だが語る身体が男性に置き換えられた途端、すべてがあまりに腑に落ちはしないだろうか。この解釈が唯一の正解であるというつもりはないが、これまでに見た『わたしじゃない』のなかでもっとも胸に迫る上演となった。


公式サイト:http://scool.jp/event/20190620/


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