artscapeレビュー

新納翔「PEELING CITY─都市を剥ぐ─」

2017年11月15日号

会期:2017/09/26~2017/10/07

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

新納翔の新作写真集『PEELING CITY』(ふげん社)の刊行記念展として開催された本展を見て、あらためて高梨豊の「東京人」を想い起こした。「東京人」は、高梨が『カメラ毎日』(1966年1月号)に36ページにわたって掲載した作品で、東京オリンピック直後の多層的な都市空間の諸相が、写真とテキストによってコラージュ的に構成されている。新納が撮影したのは、東日本大震災の前後の時期からの東京とその周辺だが、目の幅を大きくとり、さまざまな距離感の被写体を等価に捉えていく眼差しのあり方に共通性を感じるのだ。とはいえ1960年代と2010年代では、都市空間そのものの手触りがかなり違ってきている。そのことは当然、新納の写真群に写り込んでいるはずだが、ポートレート(近景)、路上スナップ(中景)、風景(遠景)が入り混じる構成に紛れて、くっきりと浮かび上がってこないもどかしさを覚えていた。ところが、10月6日にふげん社で開催されたギャラリートークにゲストとして参加した中藤毅彦の発言を聞いて納得するものがあった。中藤は新納が一時所属していた東京・四谷のギャラリー・ニエプスの主宰者であり、新納の写真を初期からずっと見続けている。その彼が指摘したのは、新納の撮影した写真の中に「ヘルメットをかぶった人物がよく写っている」ということだった。写真集で数えて見ると、たしかにヘルメットをかぶった人物が写っている写真は全111点中10枚ある。帽子をかぶった人物、傘が写っている写真を加えるとその数はさらにふくらみ、全作品の三分の一ほどになる。これはむろん、無意識レベルでの被写体の選択なのだが、ここまで数が多いとやはり何か特別な理由があるのではないかと思えてくる。それはおそらく、ヘルメットが(帽子や傘もそうだが)、何かから「身を守る」ための装具であるということなのではないだろうか。つまり、現在の東京に潜む「危険さ」が、ヘルメットや帽子や傘に対する鋭敏な反応に結びついているのだ。これはやや穿った見方かもしれない。だが、往々にして感度のいいアンテナを持つ写真家は、知らず知らずのうちに何かを嗅ぎ当ててシャッターを切っていることがある。それを無意識レベルから意識レベルまで引き上げて、さらに大きく変貌しつつある都市空間の「皮を剥ぐ」作業を推し進めていく必要があるだろう。

2017/10/06(金)(飯沢耕太郎)

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