artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

静物学 小林且典展

会期:2016/01/30~2016/02/28

ギャラリーあしやシューレ[兵庫県]

原型制作から鋳造までを自身で行なうブロンズ彫刻と、それらを卓上に配置して撮影した写真、木彫などの作品で知られる小林且典。本展でもそれらの作品が展示され、細部まで考え抜かれた配置で彼らしい美の世界を作り上げた。小林のブロンズ彫刻といえば、型から抜き出した状態そのままの生々しい姿が特徴。見る者はそこに侘びた味わいや無垢の精神性を見出す訳だが、近作の中には表面をツルツルに磨いた光り輝くものがあり、彼の制作が新たな段階に入ったことを窺わせた。また、同じモチーフを繰り返し使用し、そのバリエーションを写真に収める彼の手法は、イタリアの画家モランディにも通じる美意識が感じられる。それは小林がイタリアでブロンズ彫刻を学んだことと関係しているかもしれないし、こちらの勝手な妄想かもしれない。ただ、画廊オーナーも同じことを考えていたらしく、本展の会期を兵庫県立美術館の「モランディ展」に合わせていたのであった。

2016/02/07(日)(小吹隆文)

小林哲朗 NO ARCHITECTS「魅せる工場展」

会期:2016/01/20~2016/02/28

あまらぶアートラボ A-Lab[兵庫県]

日本屈指の工業地帯を有する兵庫県尼崎市で、工場写真をテーマにしたユニークな展覧会が行なわれた。写真家は、尼崎市在住で、工場、廃墟、巨大建築物などの写真で知られる小林哲朗。展示プランを担当したのは、建築家ユニットのNO ARCHITECTSだ。展示室内にはさまざまな大きさのボックス(その大半は人間の背丈を超える)がランダムに配置され、大きく引き伸ばした写真が壁一面に貼り付けられている。巨大な煙突、建物に張り巡らされたダクトや配管、吹き出す水蒸気といった工場特有の機械美・機能美が圧倒的なスケールで目前に迫り、それらがひしめき合いながら奥行のある空間に展開しているのだ。通常の写真展ではほぼ同じ大きさのプリントが壁面に整然と並んでおり、インスタレーションを意識した場合でも写真自体が立体的に扱われることはまずない。ところが本展では、3次元的な展示空間が設けられ、観客は工場の中をさまようような感覚を味わえるのである。写真表現の新たな可能性を示したという点で、このコラボレーションは大成功と言えるだろう。

2016/02/07(日)(小吹隆文)

高橋恭司「夜の深み」

会期:2016/01/22~2016/02/27

nap gallery[東京都]

高橋恭司は、1990年代に雑誌、広告等でカルト的な人気を博した写真家である。『THE MAD BLOOM OF LIFE』(用美社、1994)、『Takahashi Kyoji』(光琳社出版、1996)、『Life goes on』(同、1997)といった写真集では、放心と疾走感とがない交ぜになった、独特の映像の文体を確立していた。ところが、2000年代になると心身の不調が写真にあらわれてくるようになり、長い停滞期に入り込む。彼はどうやら、時代の悪意や閉塞感を鋭敏に感じとり、取り込んでしまうアンテナの持ち主だったようだ。2009年頃から活動を再開し、『流麗』、『煙影』、『境間』(いずれもリトルモア)といった写真集を発表するが、表現意識の空転が無惨に露呈するだけだった。
今回のnap galleryでの個展は、商業ギャラリーではひさびさの発表になる。どんな作品なのか半信半疑で見に行ったのだが、新たな方向へ踏み出していこうという意欲が、しっかりと感じられる展示だったことに安心した。「夜の深み」をテーマとする写真群が並ぶ壁の反対側に、裸電球が吊るされ、その下に楕円型の鏡が置かれている。鏡の反射は、向かい側の壁を区切るように投影されており、その光によって写真群が照らし出されていた。ややトリッキーなインスタレーションだが、仕掛けに無理がなく、夜の雨に滲むイルミネーションや、闇に沈み込む「眠る人」などのイメージも、たしかな説得力を備えていた。まだ断言するには早いが、「復活」を強く印象づける展示だったと思う。
次は、以前のように伸びやかなイメージが連なる写真集をぜひ見てみたい。焦らずにゆったりと仕事を続けてほしいものだ。

2016/02/05(金)(飯沢耕太郎)

金子國義写真展

会期:2016/01/29~2016/02/21

AKIO NAGASAWA Gallery[東京都]

2015年3月に逝去した金子國義は、日本を代表する画家、イラストレーターとして、素晴らしい作品を発表し続けてきた。その金子が、一時期写真にかなりのめり込んでいたことは、それほど知られていないかもしれない。1980~90年代にかけて多数の写真作品を制作し、写真集『Vamp』(新潮社、1994)、『お遊戯 Les Jeux』(同、1997)などを刊行している。今回のAKIO NAGASAWA Galleryでの個展には、お気に入りの男女モデルに、自作の絵画作品そっくりのメーキャップを施し、パリなどにロケして撮影した代表作約70点が展示されていた。
小道具のセッティングやモデルのポージングは、絵と見まがうほど凝りに凝ったものだが、それでも彼自身、写真の限界を感じていたのではないかと思う。どんなに気を遣っても、写真にはさまざまな夾雑物が写り込んでくるし、最終的な仕上がりも絵画ほど理想化して表現するのはむずかしいからだ。だが、金子の写真を見ていると、そのコントロールがうまくいかないことを、逆に戸惑いつつも愉しんでいたようも思えてくる。彼の絵につきまとう、痛々しいほどにこわばった緊張感が、写真にはほとんど感じられず、むしろリラックスした雰囲気になっているのだ。残念なことに、金子の「写真時代」はそれほど長くは続かなかった。デジタル化以降にも写真を続けていれば、また違った可能性が見えてきたのではないだろうか。
なお、東京・神田神保町の小宮山書店でも、同時期に「金子國義ポラロイド展」(1月29日~2月28日)が開催された。

2016/02/05(金)(飯沢耕太郎)

村越としや「沈黙の中身はすべて言葉だった」

会期:2016/01/09~2016/02/13

タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]

村越としやは2006年頃から故郷の福島県を撮りはじめ、東日本大震災以後もその仕事を継続している。中判~大判カメラで、あまり特徴のない風景を、細部まで丁寧に目を凝らしながら撮影するスタイルに変わりはないが、その作品にはどうしても「震災の影」を感じてしまう。それは写真を見る観客が、福島県須賀川市出身という彼のキャリアに過剰反応してしまうということだけでなく、彼自身もあらためて撮ることの意味を問い続けなければならなかったということのあらわれといえるだろう。村越は震災後、「被災地としての福島を撮ることを試した」のだが、結局うまくいかず、「目の前にあるどんなことでも、どんなものでも自分の目で見て写真に撮って考えること」を課すようになったという。その覚悟と緊張感が、写真に自ずとあらわれてきているのではないだろうか。
今回のタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムの個展では、大判のパノラマサイズ(イメージサイズは60×180センチ)に引伸された作品、7点が展示された。その横長の風景作品を見ていると、画像の強度がより増してきているように感じる。樹のあいだから見える海、ひび割れた岩の後ろの茫漠とした空間、湿り気が立ち上がってくる水面──画面構成はむしろ単純化しているが、タブローとしての完成度が格段に上がってきているのだ。ただしこのような絵画的な美意識の浸透は、「どんなものでも自分の目で見て写真に撮って」という撮影時のリアリティを弱めることにもつながりかねない。そのあたりの隘路をどう切り拓いていくかが、次の課題として見えてきている。


© Toshiya Murakoshi / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film


2016/02/05(金)(飯沢耕太郎)