artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
尾形一郎 尾形優「自邸『タイルの家』で開く写真展」
尾形一郎・優自邸[東京都]
会期:2012年5月18日、19日、26日、27日
尾形一郎と尾形優の作品は、いつも謎めいたたたずまいを見せている。今回自邸「タイルの家」を会場にして展示された「ナミビア/室内の砂丘」のシリーズもそうで、こんな場所が本当にあるのだろうかと疑ってしまうほどだ。被写体になっているのは、約100年前のダイヤモンドラッシュの時期に、ナミビアの砂漠地帯にドイツ人たちが建造した住宅群。ダイヤモンドを採り尽くして彼らが立ち去った後も、極度の乾燥によって家々の壁紙やドアの枠などはそのまま保存され、その中に侵入した砂粒が部屋を半ば埋め尽くしつつある。今回お二人の話を聞いて、その眺めが「人類の頭の中にある深層風景」として撮影されていることがよくわかった。尾形一郎(当時は小野一郎と言う名前で活動)のデビュー作だった、メキシコの過度に装飾的な協会建築を撮影した「ウルトラバロック」(1992~)のシリーズもそうなのだが、彼らは常に現実の世界と内的なヴィジョンとして出現してくる「深層風景」とを照らし合わせるようにして仕事を進めてきたのだ。
それらが通常の視覚的世界の尺度を超え、どこか現実の秩序を逸脱した夢のような相貌を備えているのは、尾形一郎がディスレクシア(dyslexia)というやや特異な障害の持ち主であることと関係がありそうだ。難読症、識字障害とも訳されるディスレクシアの人は、本を一行目から順を追って読み進めたり、長い文章を書いたりするのが難しい。本のページのすべての単語が同時に眼に入ってくるし、文章はブツブツに途切れてしまうので、あとでカット・アンド・ペーストしてつなぎ合わせなければならないのだ。だが、ディスレクシアの人は、ある種の表現活動に天才的な能力を発揮することがある。レオナルド・ダ・ヴィンチやトーマス・エジソンやアガサ・クリスティも、ディスレクシアだったとされている。尾形一郎も、そんな表現者の系譜に連なるひとりといえるだろう。パートナーの尾形優との共同作業を通じて、彼は写真家として、また建築家として、実に独特な作品世界を構築していった。それが「ナミビア/室内の砂丘」のシリーズや、今回公開された自邸「タイルの家」に見事に表われてきているのだ。
「ウルトラバロック」が制作されていた1998年頃から建造され始めた「タイルの家」には、メキシコ産の装飾タイル、陶器、屏風、沖縄の住宅に使われる穴模様のコンクリートブロック、ドイツ製の鉄道模型などが混在した、不思議な空間が醸成されている。これまた尾形一郎のディスレクシア的な世界像を、建築のかたちで実現したものといえそうだ。そのインテリアは、ナミビアの砂に埋もれかけた家を撮影してからは、灰色の塗料で少しずつ塗りつぶされつつある。つまり、彼らが訪れた世界各地の建築物、それらを撮影した写真、彼らがつくり出した建築空間が、連動しながら入れ子状態で結びつき、謎めいた、だがどこか奇妙に懐かしい空間にわれわれを誘うのだ。このユニークな仕事を、少人数で味わうことができたのは幸運だったが、もう少しスケールの大きな展示(インスタレーション)として見てみたいとも思った。
2012/05/27(日)(飯沢耕太郎)
大辻清司フォトアーカイブ 写真家と同時代芸術の軌跡 1940-1980
会期:2012/05/14~2012/06/23
武蔵野美術大学美術館 展示室2[東京都]
写真家、教育者、執筆者と多元的な活動を展開した大辻清司の軌跡を、「同時代芸術」と関連づけて、これまた多元的なアプローチで浮かび上がらせようという意欲的な展示である。大辻の膨大なネガ、プリント等の作品資料は、2008年に武蔵野美術大学美術館および造形研究センターに寄贈された。それから4年あまりをかけて、同研究センター客員研究員の大日方欣一が調査を進めたその成果を、今回はじめて展覧会のかたちで披露することになったのだ。
展示は「写真家の誕生」「表現の現場から」「建築と環境」の3部構成で、それぞれ時代ごとに「写真家と同時代芸術の軌跡」を辿っていく。最初のパートに展示されている大辻の「少年期のアルバム」、山口勝弘、北代省三らが制作したオブジェを大辻が撮影して『アサヒグラフ』のコラム欄「APN」に掲載した写真群(1953)、『藝術新潮』の嘱託写真家として武智鉄二、勅使河原蒼風、向井良吉らの作品を撮影した「ストロンチュウム・90」のシリーズ(1957)など、これまであまり取りあげられなかった作品が紹介されているのが興味深い。大辻の単独の仕事ももちろん質が高いのだが、彼の写真がコラボレーションによってさらに大きく伸び広がっていく可能性を備えていることがよくわかった。
また今回は、残されたヴィンテージ・プリントだけではなく、未発表の写真もネガからあらためてプリントし、デジタル化した画像を駆使して展示している。大辻のなかに潜む写真家としての可能性を積極的に引き出していく試みといえるだろう。1980年代以降の大辻の軌跡を追う次回の展示も大いに期待できそうだ。
2012/05/26(土)(飯沢耕太郎)
荒木経惟「過去・未来 写狂老人日記1979年-2040年」
会期:2012/05/25~2012/06/23
Taka Ishii Gallery[東京都]
荒木経惟が元気だ。このところ、以前にも増して精力的に写真集を刊行し、写真展を開催している。IZU PHOTO MUSEUMでも、これまで刊行した写真集450冊(!)あまりを一堂に会する「荒木経惟写真集展 アラーキー」(2012年3月11日〜7月29日)を開催中だ。72歳の誕生日のお祝いを兼ねた「過去・未来 写狂老人日記1979年-2040年」のオープニングにも、元気な姿を見せていた。2008年に前立腺癌の手術を受けて以来、お酒や肉を控え、健康に気を使うようになっているようだ。まだまだ、やりたいことがたくさんあるということだろう。
今回の個展に展示されているのは、お馴染みの「写狂老人日記」のシリーズ。だが、単純に近作を並べているだけでなく、その構成には工夫が凝らされている。「過去」のパートでは、1970〜90年代の日付入りモノクローム・プリントが並ぶ。『荒木経惟の偽日記』(1980)、『写狂人日記』(1992)などに収録された名作のオンパレードだが、あらためて見直してみると荒木の前を通過していった人、事、物の膨大な集積が、実に味わい深い各時代の見取り図を描いていることが見えてくる。
「未来」のパートは、6,000枚近いというカラー・ポジフィルムを、自ら鋏でカットし、並べ直した三面マルチ作品。巨大なテーブルに蛍光灯を仕組み、内側からフィルムを透過光で照らし出すようになっている。これだけの量、しかも小さな35ミリポジフィルムの群れを見続けていると、頭がクラクラしてくる。女、空、食事、花、バルコニー、そしてふたたび空──飽きもせず同じ被写体を撮り続けるエネルギーには驚嘆するしかないが、ここにもいかにも荒木らしい仕掛けが凝らされている。最後のあたり、日付入りコンパクトカメラで撮影されたカットの、その日付の表示が「2040」になっているのだ。2040年といえば、荒木が100歳の誕生日を迎える年。ぬけぬけと「未来の写真」まで展示しているわけだが、それがあながち冗談とも思えなくなってくる。100歳の荒木が、なおも淡々と「写狂老人日記」を撮り続けていそうな気もしてくるのだ。
写真:荒木経惟「過去・未来 写狂老人日記」2040年、35mm カラーポジフィルム
Courtesy of Taka Ishii Gallery
2012/05/25(金)(飯沢耕太郎)
安村崇「1/1」
会期:2012/05/13~2012/06/10
MISAKO & ROSEN[東京都]
安村崇のデビュー作「日常らしさ」(1999)はとても興味深いシリーズだった。彼の身の回りの日常の場面で見慣れた事物を、大判のカラーフィルムで精密に撮影・プリントする。ところが、それら蜜柑、ケーキ、ホッチキス、ホースなどは、あまりにも本物らしいがゆえに、逆にどこか偽物めいた雰囲気(「日常らしさ」)を露にし始めるのだ。視覚的に正確に撮影すればするほど、心理的な真実からは隔たってしまう──そんな写真特有の二律背反が見事な手際で暴かれていたといってもよい。
それから10年あまりが過ぎ、安村は淡々と、だが着実に写真の「見え方」の探求を続けていった。その成果がひさびさの新作として発表されたのが、今回のMISAKO & ROSENでの個展「1/1」である。壁に並んでいる11点の作品は、いわば「色面の研究」の成果といえる。赤、緑、青、黒など壁面、階段、柱などの一部が、抽象的なパターンとして切り取られて画面の中に配置されている。タイトルの「1/1」というのは、「現実とそれを表わしたものとの関係」ということのようだ。つまり、被写体と写真の画像がほぼ同じ大きさであるというだけではなく、「カメラを通したもうひとつの『1』」として定着されているのだ。奥行きのある三次元空間を捉えた「日常らしさ」とはかなり違っているようで、この一見平面的、装飾的なシリーズでも、安村のアプローチは一貫している。ここに浮かび上がってくる「色面」も、その微妙な陰影やテクスチャーへのこだわりによって、やはり「色面らしきもの」に置き換えられているのだ。
ただ、今のところ、その探求の道のりはまだ半ばであるように感じた。「日常らしさ」のような鮮やかなどんでん返しに至るまでには、もう少し別な(細やかな)操作が必要になってくるのかもしれない。
2012/05/25(金)(飯沢耕太郎)
縄文人展
会期:2012/04/24~2012/07/01
国立科学博物館 日本館1階企画展示室[東京都]
国立科学博物館で開催された「縄文人展」は、なかなか興味深い「写真展」だ。近年、1万5千年前から一万年以上も続いた縄文時代を、日本文化の最古層を形成する時期として捉えるという見方が強まってきている。縄文期の暮らしや文化への関心の高まりを受け、若海貝塚人(茨城県出土の男性)と有珠モシリ人(北海道出土の女性)の、二体の発掘人骨の展示を中心に構成されたのが本展である。
展示全体のインスタレーションを担当したのは、グラフィック・デザイナーの佐藤卓、そして写真撮影は上田義彦である。この二人の関与によって、30数点の写真パネルによる、すっきりとした会場構成が実現した。上田はこのところ、東京大学総合研究博物館のコレクションを撮影したシリーズを、展覧会や写真集のかたちでさかんに発表しており、今回の作品もその延長線上にある。黒バック、あるいは白バックの画面のほぼ中央に被写体を置き、注意深いライティング、ボケの効果を活かしたフォーカシングで撮影するスタイルは、すでに完成の域に達している。「縄文人」の骨の撮影においても、広告の仕事で鍛えた完璧なテクニックを駆使することで、被写体の細部がクリアーに、写真特有の映像的な魅力をともなって定着されているといえる。
ただ、その会場構成にしても、写真の見え方にしても、あまりにもすっきりと整い過ぎているのではないかという思いも残った。被写体となった骨のなかには、頭骨に損傷が見られたり、おそらく通過儀礼によるものと思われる抜歯の痕が残っていたりするものもある。骨から浮かび上がってくる、「縄文人」の生活の厳しさ、生々しさを、もう少し強めに打ち出していってもよかったのではないだろうか。
2012/05/23(水)(飯沢耕太郎)