artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
芸術家Mの舞台裏:福永一夫が撮った「森村泰昌」
会期:2012/04/14~2012/05/17
B GALLERY[東京都]
福永一夫は1989年頃から、森村泰昌が制作するセルフポートレート作品の撮影を担当するようになった。森村はひとつの作品を完成させるために、衣裳、メーキャップ、ポーズ、そして舞台設定のセッティングに至るまで、細部にまで目を凝らしながら全精力を傾注していく。彼自身が画面に写り込むことが前提だから、当然誰かがシャッターを切ることが必要になる。そこで白羽の矢が立ったのが、森村と同じ京都市立芸術大学で学んでいた後輩の福永だったわけだ。
森村と福永の写真の師は、日系アメリカ人のアーネスト・サトウである。彼のアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真を例に引いた、厳密なスナップショットの美学についての講義が、森村と福永の「共通の基盤」になっているのだという。つまり、最終的にこのような構図で、このタイミングでシャッターを切るということについて、2人には暗黙の了解事項があるということだ、福永の存在が、森村の旺盛な創作活動を、影で支え続けてきたことは間違いないだろう。
一方で、福永は森村の作品制作の現場を、折りに触れてライカで撮影してきた。それが今回展示された「芸術家Mの舞台裏」のシリーズである。こちらは森村の普段着の姿、また他者に成りきっていく変身の過程がいきいきと、克明にとらえられている。どちらかといえば気軽な、「撮ること」の歓びに突き動かされてシャッターを切った写真群なのだが、ここでもアーネスト・サトウ仕込みの的確なカメラワークが発揮されている。日本を代現する現代美術アーティストの「舞台裏」の貴重な記録というだけでなく、さまざまな出来事が同時発生的に起こってくる制作の現場が、スナップショットの素材として実に面白いものであることがよくわかる。森村の作品とはまた違った魅力を備えたシリーズといえるのではないだろうか。なお、展覧会にあわせて写真集『美術家 森村泰昌の舞台裏』(BEAMS)も刊行されている。
2012/04/22(日)(飯沢耕太郎)
齋藤さだむ「不在の光景」
会期:2012/04/03~2012/04/22
いわき市立美術館[福島県]
齋藤さだむが展覧会のリーフレットに寄せた「不在の光景」という文章で、こんなふうに書いている。
「写真とは、他の表現領域とは異なり、自分が生きている時間と空間のなかでの他者との一瞬の出会いである。そしてその偶然の出会いに気づき、意識することで他者はこちら側に滲入し、それによって出会いの一方の主体である自分自身を超えて何かが立ち現れてくることがあるのが、写真なのではないか」。
齋藤がここで書いている、「出会い」「滲入」そして何ものかの「立ち現れ」といった事態は、たしかに写真を撮るときに常に経験することであり、あらゆる写真に分有されているのではないかと思う。だが、そのような自己と他者との相互関係、相互浸透が、とりわけ研ぎ澄まされた、鋭角的な形で現れてくる状況があるのではないだろうか。齋藤が、今回の個展で展示した東日本大震災の被災地の光景などには、まさに写真特有の表現のあり方がくっきりと露呈しているように見える。
齋藤の撮影のスタイルは、これまでも自然と人工物の境界の領域に向き合い続けてきた技術と経験の蓄積を踏まえた、きわめて正統的な「風景写真」のそれである。だが、目の前の日常と非日常とが逆転した光景を、ひとまずは正確に写しとりながら、彼はやはりその先にある「何か」を無意識のアンテナで探り当てようと試みているように思える。いうまでもなく、それこそが「不在の光景」である。齋藤の写真を見る者は、そこに広がる胸を抉るような痛みをともなう眺めの彼方に、やはり自分にとっての「不在の光景」を立ち上げていきたいという衝動に駆られるのではないだろうか。
なお、同美術館では「光あれ! 河口龍夫─3.11以後の世界から」展が併催されていた。現代美術作家が、渾身の力で「3.11以後の世界」を再構築しようとした素晴らしい作品群だ。
2012/04/21(土)(飯沢耕太郎)
永沼敦子「GOLDEN HARVEST」
会期:2012/04/09~2012/05/05
東塔堂[東京都]
花ではなく植物の写真展だ。観賞用に切り花にされた被写体ではなく、大地に根を生やしてそこから成長してくる植物にカメラを向けている。花の写真にありがちな、センチメンタリズムやナルシシズムはまったくなく、むしろ萼や茎や葉の細部のフォルムにしっかりと目を凝らす植物学者の視線さえ感じさせる。とはいえ、それは決して堅苦しくなく、のびやかで、すべてが祝福されているようなポジティブな気分があふれている。永沼敦子の「GOLDEN HARVEST」のシリーズは、なかなか得がたい、チャーミングな「植物写真」としての姿をあらわしていた。
作品のサイズがあまり大きくないのも、このシリーズにちょうど見合っているのではないかと思う。古書店の本の合間の壁に、あまり押し付けがましくなく、ポストカード大の写真(丸いフレームに入っているものもある)が並んでいるたたずまいがなかなかよかった。マット系の紙に印刷した、和綴じの小ぶりな写真集(デザイン・加藤勝也)もとても雰囲気よく仕上がっていた。
ただ、永沼にはあまりこの「小さな世界」に充足していてほしくはない。デビューから10年以上が過ぎ、彼女自身が「GOLDEN HARVEST(実り多い収穫)」の時期を迎えつつあると思えるからだ。もう少し、制作のペースを上げていってもいいのではないだろうか。
2012/04/19(木)(飯沢耕太郎)
米田拓朗「笛吹川」
会期:2012/04/03~2012/05/06
KULA PHOTO GALLERY[東京都]
米田拓朗は5年ほど前から東京・新宿のphotographers’ galleryのメンバーとなり、同ギャラリーと隣接するKULA PHOTO GALLERYで、1年に1回くらいのペースでコンスタントに個展を開催してきた。だがこれまでは、どうもうまく彼の写真の世界をつかみ切れなかった。そのもどかしさが、今回の「笛吹川」のシリーズを見てかなり払拭されたように感じた。
笛吹川は、山梨県を流れる富士川水系の支流で、日本三大急流のひとつとされ、これまでたびたび氾濫して大洪水を引き起こしてきた。特に1907年の「明治40年大水害」のときには、河の流路が南西方向に7キロにわたって変わってしまうほどだったという。米田はこの川の、水中に沈んだり周辺に転がったりしている石にカメラを向けている。石の多くは急流によって削られて丸みを帯び、卵や赤ん坊の頭を思わせる有機的な形をとる。描写そのものはストレートで即物的なのだが、どこか見る者のイマジネーションを触発するそのたたずまいに、不思議に心惹かれるものを感じた。おそらく米田も、多種多様な石たちにカメラを向けつつ、彼らとの対話を自然体で楽しんでいたのではないだろうか。
米田はこれまで、都会の通行人の顔を中心にクローズアップで捉えたスナップショットのシリーズや、笛吹川流域の桃農家を取材した作品などを発表してきた。被写体を選択し、方法論を定め、撮影を進めていくプロセスに、揺るぎない意欲を感じるものが多かったが、その方向性はかなりばらついていた。だがこの「笛吹川」は、彼の写真家としての可能性を開花させていく重要な分岐点になっていくかもしれない。文字通り、石が転がり始めたようだ。
2012/04/18(水)(飯沢耕太郎)
山崎博「写真的事件」
会期:2012/04/10~2012/05/10
GALLERY 360°[東京都]
1970~80年代に山崎博が試みた「写真による写真論」の先駆的な意味が、ようやく最近になって認識されてきたのはとてもいいことだと思う。今回の展示はホンマタカシの提案で実現したようだが、2000年代以降のホンマの作品に至るまでの日本の写真表現の系譜を、山崎の仕事を糸口にして辿り直すことも可能になってくるのではないだろうか。
写真史的な意味合いは別にして、NDフィルター付きのレンズで太陽の光跡を長時間露光した「Heliography」(1978)やゼロックスコピー機をカメラの代わりに使って風景をコピーする「Taken with Xerox」(同)などの仕事は、いま見ても充分にスリリングで面白い。あらゆる事象を光と影が織り成す「写真的事件」として検証していこうとする、当時の山崎の若々しい意欲が、作品のたたずまいからヴィヴィッドに伝わってきて興奮を覚えた。こういう作品群を見ていると、デジタル時代における「写真による写真論」も充分に可能なのではないかと思えてくる。若い写真家たちも見てほしい展覧会だ。
展示されている作品にはタイトルや年代の表記は一切なく(500分限定のカタログには表記あり)、すべてが非売品なのだという。写真はアート作品ではないというこのあたりのこだわりにも、いかにも山崎らしい頑固さを感じた。とはいえ、彼や田村彰英、長船恒利、浜昇、谷口雅、田口芳正、桑原敏郎などの同時代の仕事は、遅かれ早かれ現代美術の文脈に組み込まれていくだろう。1970年代の「写真による写真論」については、そろそろ美術館の出番なのではないだろうか。
2012/04/17(火)(飯沢耕太郎)