artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
勝又邦彦「dimensions」
会期:2012/06/04~2012/06/16
表参道画廊[東京都]
勝又邦彦は2000年代以来、風景写真の領域でコンスタントに佳作を発表してきた。2001年にさがみはら写真新人奨励賞、2005年には日本写真協会新人賞を受賞するなど、その作品は高い評価を受けている。ただ、彼の仕事を見続けてきて、どこか壁を突き抜けられないもどかしさを感じ続けていたのも事実だ。アイディアの多彩さ、作品の質の高さは間違いないのだが、その知的で繊細なアプローチに、どこか既視感がつきまとう所があるのだ。
今回の表参道画廊の個展は「東京写真月間2012」の関連企画として、東京国立近代美術館の増田玲が構成した。都市の遠景を横長のパノラマ的な画面におさめた代表作の「skyline」(2001年~)のシリーズをはじめとして、「screen」(2002年~)、「Hotel’s Window」(2003年~)、さらに新作の映像作品「cities on the move」が展示されていた。どれも練り上げられたいい仕事なのだが、やはりもどかしさは拭えない。作品の完成度ではなく、もっと「これを見せたい」という確信を見せてほしいと思う。
4つのシリーズのなかでは、ホテルの客室のインテリアと窓の外の眺めを同時に捉えた「Hotel’s Window」に可能性を感じた。「内/外」というステロタイプな図式からはみ出していくような、イメージとしての強度がある。さらに粘り強く、先に進めてほしい作品だ。
2012/06/08(金)(飯沢耕太郎)
いくしゅん〈ですよねー〉展
会期:2012/06/01~2012/06/27
LIXILギャラリー[東京都]
きわめて日常的なスナップ写真を壁面はおろか、天井にまで忍ばせ、床に山積みにして見せた写真展。凡庸な日常における決定的瞬間をとらえている点では、梅佳代のような独特の感性を感じさせるが、よくよく見ると、梅佳代にはない要素が強く打ち出されていることに気がついた。それは、暴力的な視点。たとえば自動車事故の現場を映した写真には、直接的な描写こそ避けられているものの、日常にひそむ不吉な暴力を巧みに映し出している。ユーモアのある決定的瞬間や中庸なモチーフを鮮やかな色彩と光でとらえた写真とともに展示されることで、その不穏な空気感がよりいっそう引き立っているところが、なんともおもしろい。
2012/06/07(木)(福住廉)
本橋成一 写真展 屠場
会期:2012/06/06~2012/06/19
銀座ニコンサロン[東京都]
写真家の本橋成一の個展。食肉処理を施す屠場を映したモノクロ写真を展示した。撮影時期が比較的古いからだろうか、あるいは屠殺の現場だけでなく、その労働者たち自身にも肉迫しているからだろうか、本橋の写真には生物を食肉に加工する労働の手つきがたしかに感じ取れる。彼らが使う特殊な道具、空間の粗いマチエール、血液を洗い落とす放水の勢い。ともすると過剰に演出したくなる舞台を、即物的にというより、あくまでも労働の過程に沿って撮影しているのである。むろん、ここには未知の現場を広く知らしめるドキュメンタリーの要素が少なからず含まれているのだろう。ただ、それ以上に写真から強く印象づけられるのは、そのようにして労働の過程を追跡することによって、屠殺という文明社会の陰の一面をなんとかとらえようとしている本橋自身の姿である。彼らの生命を奪い取ることによって私たちの生命を保つこと。できることなら直視したくないこの自然の摂理を、本橋は身をもって目の当たりにしながらシャッターを切った。本橋の写真に現われている凄みは、屠殺という凄惨な現場に由来するというより、むしろその現場に立ち入った本橋自身の心持ちに端を発しているにちがいない。
2012/06/07(木)(福住廉)
平川典俊「木漏れ日の向こうに」
会期:2012/04/14~2012/06/10
群馬県立近代美術館[群馬県]
僕は以前、平川典俊について「なぜ東京で『東京の夢』を見ることができないのか」という文章を書いたことがある(『déjà-vu』19号、1995年4月)。そのなかで、平川のことを「知的なアラキ」なのではないかと論じた。彼の「東京の夢」(1991年)、「At a bedroom in the middle of night」(1993年)、「女、子どもと日本人」(1994年)などの写真作品に見られる、モデルの女性の性的なイメージを直接的に開示するのではなく、「じらし」や「ほのめかし」によって暗喩的に表現していく手法が、荒木と共通しているのではないかと考えたのだ。
その印象は、今回群馬県立近代美術館で開催された、彼の日本の公共美術館では初めての大規模な個展を見てもそれほど変わらなかった。ただ、平川自身がカタログに掲載されたアート・リンゼイとの対談「不確定の目撃者」でも強調しているように、彼と荒木とは「アートへのアプローチに於いては全く違った位置にいる」こともよくわかった。荒木の写真が、あくまでも彼と被写体となる女性との直接的な(私的な)関係を基点にしているのに対して、平川のモデルたちは彼のプロジェクトの一要素としてのみ取り扱われている。彼が常に問題にしているのは彼女たちの社会的な違和感や不安感であり、さらにその写真を見る観客の、抑圧され、歪められた反応のあり方なのだ。また平川が提示するイメージは、彼自身による大量のテキストによって、二重、三重に取り囲まれており、絡めとられており、観客の思考をその文脈によって方向づけていく。多くの場合、テキスト抜きに、いきなり物質化した性的イメージを突きつけてくる荒木とは、その点においても対照的だ。
それでも、平川がなぜこれほどまでに、性的な感情を刺激し、揺さぶるような写真にこだわり続けているのかという疑問は残った。彼は、自分は「写真に固執しているのではない」と何度も述べているが、僕のような立場から見ると、彼の写真のたたずまいは実に魅力的なのだ。昆虫が花の蜜に引き寄せられるような心理的な罠が、至るところに仕掛けられていて、知らず知らずのうちに妄想の糸を紡ぎ出すように導かれてしまう。他のヴィデオ作品やインスタレーション作品に比べても、彼の写真作品の巧妙さ、独特の喚起力は際立って見える。平川典俊は天性の写真家なのではないだろうか。少なくとも、彼ほど写真の力を熟知し、効果的に使用しているアーティストは他にあまりいないのではないかと思う。
2012/06/05(火)(飯沢耕太郎)
トーマス・デマンド展
会期:2012/05/19~2012/07/08
東京都現代美術館[東京都]
紙でつくったハリボテを撮ったたんなるトリッキーな写真、だと思っていた。実際、さまざまな屋内風景を厚紙で再現して撮ってるんだけど、見ていくうちに徐々に不穏な空気を感じずにいられなくなった。ごくありふれた浴室をスナップショットしたような《浴室》、コピー機が並んでいるだけの《コピーショップ》、壁が幾何学パターンの無響室を再現した《実験室》……。どれも人間が不在なのはいうまでもないとして、モチーフの選び方がつまらなすぎて尋常じゃないし、構図も無作為すぎて不気味なくらいだ。これはただ現実世界と紙でつくった虚構世界のギャップを見せたいわけじゃない、背後になにかもっと大きな企みが仕組まれているに違いない。それが確信に変わったのが《制御室》と題された1枚。モスグリーンの壁にメータやスイッチなどが無数に並び、上から天井板らしきものが垂れ下がっている。制作は2011年なので、これが福島第一原発の制御室内を想定したものであることは間違いないが、この本物の制御室がじつは脆弱なハリボテでしかなかったことを、また、そのときだれも人がいなかったという不在感を、これほど雄弁に、これほど不気味に表わした作品はないだろう。そうやってあらためて作品を見直してみると、どれもいわくありげな場所・状況を慎重に選んでいることがわかってくる。今回初めて見る映像作品にも驚いた。これはモチーフの選択だけでなく、そこに時間の要素を加えることで人間の知覚の曖昧さを突いているように見えた。いやあおもしろかったなあ、今年前半期の展覧会ベスト5には入りそう。
2012/06/05(火)(村田真)