artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

石川真生『日の丸を視る目』

発行所:未來社

発行日:2011年9月30日

2011年の写真集の大きな収穫のひとつといえる。今年のさがみはら写真賞をプロの部で受賞するなど、石川真生のドキュメンタリーの評価が高まってきている。この新作写真集も渾身の力作シリーズである。
1993年に、87年の沖縄海邦国体会場の日の丸を引きずりおろして焼いたことで逮捕された知花昌一が、家にあった日の丸の旗を持っている写真を撮影したのをきっかけに、この「日の丸を視る目」のシリーズが構想された。「日の丸の旗を持たせて、その人自身を、日本人を、日本の国を表現させる」というコンセプトで99年までに100組を撮影して『週刊現代』に発表、その後も撮り続けて2011年までに184組に達した。本書にはそのうち100組のパフォーマンスがおさめられている。
その間に撮影地は日本だけでなく、韓国、台湾、ロンドン、パリまで広がる。左翼からごりごりの右翼まで、部落解放同盟の運動家からアイヌ人まで、主婦もいれば高校生も性同一性障害者もいる。その被写体の広がり具合に、石川の意図がはっきりと表われている。あくまでも公平に、だがどんな過激な行為でも許容していくことで、これまた驚くべき広がりを持つパフォーマンスが記録されていった。韓国人や台湾人の反応にしても、予想されるような憎悪や反撥だけではない。なかには日本への親近感を語り、「がんばれ日本」と記す者もいる。「やってみなければわからない」パフォーマンス・フォトの面白さが、とてもよく発揮されたシリーズではないかと思う。
ラストは写真家本人のセルフポートレート。直腸癌の手術後に体に付けられた真っ赤な人工肛門を日の丸の中央から覗かせて、こちらをぐっと見据えている。気迫あふれるメッセージが伝わってくるいい写真だ。

2011/11/28(月)(飯沢耕太郎)

稲田智代「パレード」

会期:2011/11/23~2011/12/06

銀座ニコンサロン[東京都]

稲田智代には詩人の才能もあるようだ。会場に掲げられていた「詩」がなかなかよかった。
「パレードがいく/パレードがいく ふたつのあいだを/パレードがいく なにもかもが/ひかってゆれている/はじまりもおわりも/すべてがひとしく/ここに」
どこか大正から昭和初期にかけて書かれた、八木重吉とか大手拓次の詩の趣があるのではないだろうか。そのちょっとノスタルジックな雰囲気は写真にも表われていて、これまた昭和の匂いがするプリントが並んでいた。本人はまったく意識していなかったようだが、1960年代末の田村彰英の初期作品に、こんなふっと消えてしまうような気配を捉えたものがあったような気がする。
会場構成もとてもうまくいっていた。横位置の、水平線が強調された写真(人が本当にパレードのように列を作っている写真もある)が並んでいる間に、プリントをゼムクリップで洗濯物のように吊るしたパートがはさまっている。写真がくるんと丸まっている感じが、風にひるがえっているようでもあり、軽やかな気分を強調している。とはいえ、写真の内容が手放しに明るいものかというと、そうでもない気がする。稲田は建築やインテリア関係の仕事をしていたが、ここ5年ほどは病院で働いている。そのなかで「いくつかの近しいいのちを見送って」きたという。出会いも別れも、生も死も「すべてがひとしく」光に包み込まれてパレードのように続いていく──そんな思いが一枚一枚の写真に投影されているように感じた。写真の紡ぎ手として、ひとつの壁を乗りこえたのではないだろうか。

2011/11/26(土)(飯沢耕太郎)

鈴木涼子「私は」

会期:2011/11/18~2011/12/17

ツァイト・フォト・サロン[東京都]

鈴木涼子の意欲的な作品の展示だ。鈴木はジェンダーやセクシュアリティを問い直すセルフポートレート作品をずっと発表してきたが、「ここまできたのか!」という感慨があった。
180×200センチのかなり大きな作品が9点、120×120センチの作品が1点。どの作品でも筋肉質の男性の裸体に鈴木自身の首(顔)が接続してある。その継ぎ目の画像処理が完璧なので、一見あたりまえの男性ヌード作品のようなのだが、見ているうちにじわじわと違和感がこみ上げてくる。やはり女性の顔と男性の身体とは相性があまりよくないのだ。そのどこかグロテスクでもある気持ちの悪さが、われわれは男性らしさとか女性らしさとかを、いったいどこでどんなふうに認識しているのかという問いかけにつながってくるのだ。
それにしても、鈴木の果敢な実験精神にはいつも驚かされる。彼女は前に過度に女性性を強調したアニメのフィギュアに自分の顔を接続するという「ANIKORA」シリーズを発表した。このときもかなりのインパクトだったのだが、今回の「私は」では男性性器のついた身体と合体している。この「男性性器のついた」というのは比喩的な言い方ではなく、何枚かの作品では実際に男性性器そのものがしっかり見えているのだ。鈴木がそこまで勇気を持って踏み込んでいることに感動する。むろん画像操作上のことだという見方もできるが、この生々しさは尋常ではない。やはり体を張った人体実験に思えるのだ。

2011/11/26(土)(飯沢耕太郎)

アーヴィング・ペンと三宅一生

会期:2011/09/16~2012/04/08

21_21 DESIGN SIGHT[東京都]

むろん、三宅一生のファッションとそれを撮影したアーヴィング・ペンの写真はすぐれた作品だが、とりわけ感心したのは、坂茂の会場構成である。これは文句なしに、カッコいい。いつも手前のくびれた小部屋とその後の大空間の接続が気になっていたのだが、うねる紙管の壁でなめらかにつなぎ、その後にスカーンと奥まで見通す分割線が走る。ファッションをいかに見せるかというのが写真やポスターだとすれば、それらのコラボレーションを展覧会においていかに見せるかもまた、よく練られた企画といえよう。

2011/11/23(水)(五十嵐太郎)

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シャルロット・ペリアンと日本

会期:2011/10/22~2012/01/09

神奈川県立近代美術館 鎌倉[神奈川県]

ル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレとの共同作業を契機に、建築家、デザイナーとしてユニークな仕事を残したシャルロット・ペリアン(1903~99)と日本とのかかわりあいを丁寧に辿った展覧会である。ペリアンは1940年に商工省の輸出工芸指導顧問として来日。パリのル・コルビュジエの事務所ですでに親交があった坂倉準三、民芸運動の創始者、柳宗悦、その息子のデザイナー、柳宗里、陶芸家の河井寛次郎らの助けを借りて「ペリアン女史 日本創作品展覧会 2601年住宅内部装備への示唆」(通称「選択、伝統、創造展」、1941)を成功させた。また1953年にも再来日し、「芸術への総合の提案──コルビュジエ、レジェ、ペリアン3人展」(1955)を開催した。彼女の竹や木を素材とした家具のデザインは、日本の伝統的な工芸品からヒントを得たものが多く、モダニズムが一枚岩ではないことを示す興味深い作例といえる。
今回の展示で特に注目したのは、ペリアンの写真作品である。彼女は1930年代から6×6判のフォーマットのカメラを使って、折りに触れて写真を撮影していた。建築やデザインのための資料という側面もあるし、来日時の写真などはいきいきとした旅の記録になっている。だが、本展の最初のパートに「『生の芸術』と『見出されたもの』」と題して出品されていた、1933~35年頃の写真群は、純粋に「写真」としての可能性を追求したものであるように思える。被写体になっているのは、岩、樹、氷、金属などの「生の」物質であり、それらをストレートに接写している。彼女の興味を引いているのはそのフォルムや質感などだけではなく、むしろそこに潜んでいるアニミスム的な生命力だったのではないだろうか。ちょうど同じ頃に、多くのシュルレアリスムやモダニズムのアーティストたちを捉えていた原始美術や人類学への関心を、彼女も共有していたのだ。「写真家」ペリアンという視点から、彼女の仕事を見直すこともできそうだ。

2011/11/22(火)(飯沢耕太郎)

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