artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
間庭裕基個展「室内風景—camera simulacra—」
会期:2022/07/02~2022/07/18
本展に並ぶ写真作品《Liminal Photo》は、間庭裕基の祖父の家の壁が光や熱で焼けた跡を撮影したものだ。家に入りこむ光や屋内照明の紫外線、あるいは家電のモーターの熱は、壁に貼られたカレンダーや時計やプリントや電子レンジのようなものを取り除いたときに、ぽっかりと白く、あるいは、その物質を縁取るようにして溜まった粉塵で黒く、かつての存在を壁紙に焼き付けていた。物そのものが不在となった後も「何があったのか」をギリギリ感知させるほどに。
奥の部屋に入ると、玄関からの光の消失点かのような位置に《echo》(2022)という映像作品があった。窓からの光をあびるように佇む男が白んで浮かび上がっては僅かに動いて見える。モニターが焼き付きを起こしそうな緩慢な映像のあとには、水場と窓があって、そこに立てかけられたスマートフォンに映し出されている《sleep》(2022)。その映像には窓辺の朝日を感じさせる無人であっけらかんとしたベッドルームに、かつてMacOSで使用されていたスクリーンセーバーのモーションが重ねられていた。PCをはじめ多くのデバイスで使用されていたCRTモニターは、同一映像の長時間表示による画面の焼き付けを防ぐためにスクリーンセーバーが自動表示されていたが、現在はLCDモニターが席巻し、無用の長物となった。その横では、キャプションに記名はないがスタジオ撮影用のLEDライトが煌々と夕焼けのように光り、屋内の壁をガラス越しに照らしていた。この会期期間中の痕跡は、この程度の光では留まらないとでも言いたげなように。
というわけで、本展では、人が感知できないような建物の壁やデバイスの累積する物理的変化、デバイスの技術革新といった時間幅が扱われ、ゆえに人の網膜へ直に到達するブルーライトは主題から外されたのだろう。また、触れなかったが、会場に入ってすぐにあるステレオスコープカードを模した紙に二つの写真が組み込まれた《here and there》は、ドアの穴をピンホールカメラに見立て撮影した写真と、扉に映像を投影した状態で撮影した写真が並んだものだ。左右の視差が記録されていれば三次元が現われるはずのカードには、まったく違う景色が隣り合っている。その異種が混然一体と並ぶ様子からわたしはハンドアウトにあるような「ネットワーク化された写真」の「幻」を受け取ることはできなかったが、長屋独特の奥まっていくにつれ暗がりになっていく空間を上手く使用し、多層的な時間を閉じ込めた展覧会だったと思う。
なお、本展は300円で観覧可能でした。裏手には「あをば荘」があります。
公式サイト:https://camerasimulacra.com/
2022/07/10(日)(きりとりめでる)
川田喜久治「ロス・カプリチョス 遠近」
会期:2022/06/29~2022/08/10
PGI[東京都]
毎回同じことを書いているようだが、1933年生まれ、90歳近い川田喜久治の近年の活動ぶりには、驚きを通り越して凄みすら感じてしまう。今回のPGIでの個展(全48点)も、意欲的なコンセプト、内容の展示だった。
ゴヤの版画集のタイトルを引用した「ロス・カプリチョス(気まぐれ)」は、川田が1970年代初頭に『カメラ毎日』『写真批評』などに発表した写真シリーズである。日常の事物にカメラを向けたスナップ写真の集積なのだが、被写体の捉え方に独特の角度があり、悪意すら感じさせる諧謔味が全編に漂っている。今回の展示では、その旧作の「ロス・カプリチョス」シリーズだけでなく、ヨーロッパのバロック美術を中心に撮影した写真群を集成して、1971年に写真集として刊行された『聖なる世界』からも何点か加えている。それらをいわばマトリックス(母体)にして、ここ数年に撮影した「ロス・カプリチョス」の現代編というべき写真群を混在させていった。
注目すべきなのは、旧作と新作との間の落差がほとんど感じられないということだ。発想、被写体の切り取り方、提示の仕方に共通性があり、指摘されなければどれが旧作で、どれが新作なのかを判断するのはむずかしいだろう。ゴヤが版画で辛辣に描き出した人間社会の「気まぐれ」、愚行は、1970年代でも2020年代でも変わりなく続いているということであり、それらをつかみ取る川田の視線も、まったく錆びついていないことがよくわかった。和紙にプリントしたという印画のトーン・コントロールも興味深い。彩度がやや落ち、インクが紙に滲むように染み込むことで、カラー写真と黒白写真とが、違和感なく溶け込んで見えてくるように感じた。
なお、展覧会と同時期に赤々舎から写真集『Vortex』(2022)が刊行されている。川田がInstagramにアップし続けている写真群を中心に、250点以上を掲載した544ページの大作である。そこにおさめられている写真を見ても、『地図』『聖なる世界』『ラスト・コスモロジー』などの旧作と、分かち難く結びついているように見えるものが含まれている。川田喜久治というフィルターを通過することで、新たなイメージの時空間が形成されつつあるのではないだろうか。
2022/07/08(金)(飯沢耕太郎)
アビシニア高原、1936年のあなたへ─イタリア軍古写真との遭遇─
会期:2022/07/07~2022/08/09
PURPLE[京都府]
映像人類学者の川瀬慈が知人を介して偶然譲り受けたイタリア軍古写真を、自身のエッセイとともに展示する企画。古写真は、イタリアによるエチオピア帝国侵略時代(1935–1941)にイタリア軍の兵士が撮影したと思われるものを中心に、200枚余りに及ぶ。撮影されたエチオピア北部と近隣エリア(現在のエリトリア)は、川瀬が長年フィールドワークを行なってきた土地である。トランプ大の古写真が展示台に並べられ、そのうち6点がパネルに引き伸ばされ、川瀬の言葉を添えて展示された。
これらは、イタリアの蚤の市で、ただ同然の値段で売られていたものだという。所有者の手を離れ、出自も撮影者も不明だが、被写体の性格や撮影手法の点でいくつかのまとまりが見えてくる。イタリア軍の活動には、戦車や行軍、兵士たちの日常生活のスナップに加え、凄惨な死体や兵士の墓もある。一方、典型的な植民地写真の群れは、侵略した土地とその住民や動物を「イメージ」として二重に所有しようとする欲望を表わす。現地住民を従えた記念撮影。裸の上半身に首飾りを何重にも巻いて着飾った少女たち。ワニやダチョウなどの野生動物。古代遺跡や雄大な風景。イタリア兵はカメラを意識せずラフに写るのに対し、現地住民は正面向きや直立不動の姿勢であり、眼差しの前に物体化した身体を晒している。
本展のポイントは、さまざまな被写体に「あなた」と呼びかける川瀬の言葉にある。「あなた(タバコの火を分け合うイタリア兵たち)」は、加害者であり、帝国の野望の犠牲となった被害者でもあった。「あなた(戦車の隊列)」は、19世紀後半に「文明国」がエチオピアに敗けた屈辱を晴らすため、近代兵器の強大な力を示しながら再びこの地にやってきた。王侯貴族のお抱え楽師/道化/庶民の代弁者/社会批評家とさまざまな顔を持つ「あなた(吟遊詩人)」は侵略者を賛辞する歌を歌ったが、抵抗を歌って処刑された者もいた。「あなた(巨大なムッソリーニの彫像)」は、かつてイタリア軍が敗れた街に征服の証として建てられ、兵士たちは「あなた」の前に現地住民を「陳列」して記念撮影した。「あなた」の帽子のかぶり方は、侵略者側に付いた現地住民の傭兵であることを示す。住民の憩いの場であり、争いごとを木の下で話し合って調停する場でもある「あなた(イチジクの巨木)」は、人間の叡智も繰り返される愚かさも見守ってきた。
川瀬はまた、「イメージはこうやって、おのずからひょっこり私たちのまえに現れるので、おもしろくもあり、やっかいでもある」と書きつける。これは、2度目の「遭遇」である。1度目は、異民族の前に侵略者・征服者として相対し、イメージとして他者を所有しようとする眼差し。そして、そうした欲望の眼差しが焼き付いた写真を、時間的・空間的距離を隔てて再び見つめる眼差し。この2度目の「遭遇」のもとで、第一次エチオピア戦争での敗北(1896)からエチオピア併合(1936)の40年に及ぶイタリア史というナラティブの流れが発生する。写真は常に、遅れてきた眼差しの下でナラティブを生み出す。写真とは、眼差しを何度でも受け止める物質的な層である。それは、イメージとして印画紙の上に固定されつつ、決して固定された時間を生きてはいないのだ。
また、現地住民もイタリア兵も巨大な彫像も古木も「あなた」と等しく呼びかける川瀬の語りは、さまざまな示唆を含む。どんなものでも代入可能な「あなた」は、固有名が失われ、回復不可能な忘却という空白を示す。同時に、いま私とともに私の目の前にある「あなた」という存在を承認し、唯一の固有性を回復しようとする呼びかけは、弔いにも似た行為である。
客観性を装った通常の「歴史資料の解説文」であれば、「私」「あなた」といった人称を欠き、「私とあなた」という親密な関係性も想像的な対話もない。そうした形式をあえて逸脱した川瀬の語りは、再び「征服者」「所有者」としてイメージを奪取するのではなく、被害者として一方的に糾弾する(立場を偽装する)のでもない、「あなた」として向き合う倫理的な態度を示していた。
2022/07/07(木)(高嶋慈)
米田知子「残響─打ち寄せる波」
会期:2022/06/04~2022/07/09
シュウゴアーツ[東京都]
ロンドンを拠点として活動する米田知子は、2000年から「Scene」と総称される写真シリーズを制作・発表し始めた。ヨーロッパだけでなく、日本を含む世界各地に赴いて、彼女の前にあらわれた場面/風景にカメラを向けていく。今回のシュウゴアーツでの個展では、初期に撮影された「丘―連合軍の空襲で破壊されたベルリンの瓦礫でできた丘」(2000)、「畑―ソンムの戦いの最前線であった場所/フランス」(2002)などから、「絡まる―マルヌ会戦の塹壕跡に立つ木々」(2017)、「丘陵─『モスキート・クレスト』の頂を望む、ブルネテの戦い、スペイン」(2019)などの近作まで、15点が出品されていた。
米田のアプローチは、その土地を特徴づけるような要素を強調するのではなく、比較的淡々と、やや距離を置いて目の前に広がる眺望全体を画面におさめていく。そのことによって、歴史的な出来事の舞台になった場所が、われわれの目に馴染んだ日常的な光景と接続しているように見えてくる。人々に苦難をもたらす戦争や災害が、逆にごく当たり前に見えるさりげない場面から始まっているという認識はとても怖い。その怖さが、写真を見て、米田自身が執筆したというキャプションを読むうちにじわじわと広がってきた。
そのなかに1点、他のものとはやや異なる印象を与える作品があった。「70年目の8月6日・広島」(2015)である。安倍晋三元総理が出席し、その式辞が野次に包まれたという「広島平和記念式典」を撮影した写真だが、この作品だけ3枚の画像を重ね合わせているので、人物や記念碑、テントなどがブレたように見える。その三重像が、米田自身の感情の揺らぎと対応しているようにも見えてきた。ほかのストレートな処理の写真と比べると、そこに特別なメッセージが込められているのは確かだろう。この加工によって、「Scene」シリーズそのものの再構築が始まっているのではないかとも思った。ロシアのウクライナ侵攻に端を発する、より不確定性が増した現在の時代状況とも、何らかのかたちで繋がっているのではないだろうか(本稿執筆後に、安倍元総理が狙撃されて死去した)。
2022/07/07(木)(飯沢耕太郎)
撮影された岡山の人と風景──県内作家の近作とともに
会期:2022/06/03~2022/07/10
岡山県立美術館[岡山県]
仕事で出かけていた岡山の岡山県立美術館で、興味深い展示を見ることができた。EU・ジャパンフェスト日本委員会が1999年から実施している写真プロジェクト「日本に向けられたヨーロッパ人の眼/ジャパン トゥデイ」の一環として、2001年にオランダのハンス・ファン・デル・メールとベルギーのアン・ダームスの二人が招聘され、岡山県内を撮影した。今回は、同美術館主催の「岡山の美術 特別展示」の枠で、その二人の作品の20年ぶりの展示が実現した。あわせて、同県在住の写真家たち、柴田れいこ、小林正秀、杉浦慶侘、下道基行の写真作品も展示されている。そのうち、小林、杉浦、下道は、県内の若手写真家に授与されるI氏賞の受賞作家である。
ファン・デル・メールは都市や農村の環境に対応した1人の人物を選び出し、建造物の中央部に立たせて撮影する。ダームスは日常の断片を思いがけない角度から切りとったスナップ写真を制作した。これらオランダとベルギーの写真家たちの、いわば異文化に向けられた眼差しのあり方に対置するように、日本人写真家たちはそれぞれゆかりのある人、場所にカメラを向けている。柴田は戦没者の妻と日本人と結婚した外国人の女性のポートレートを、彼らへの聞き書きの一部とともに展示した。小林は在住する美作地方の風物を、端正な黒白写真にまとめあげる。杉浦は深みのある森の写真とオブジェによるインスタレーション、下道は東日本大震災以後に撮影した、小さな仮設の橋の写真を集成したポートフォリオ・ブックを出品していた。
彼らの写真の方向性はバラバラだが、逆に多元的な視線の絡み合いによって、岡山という土地のあり方が複層的に浮かび上がってくる。ほかの県でも、「日本に向けられたヨーロッパ人の眼/ジャパン トゥデイ」の作品を活用して、同じような企画が考えられるのではないだろうか。
2022/07/03(日)(飯沢耕太郎)