artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

コウノジュンイチ「終わりのない街」

会期:2022/08/08~2022/08/21

ギャラリー蒼穹舎[東京都]

コウノジュンイチの写真展は本欄でも何度か取り上げたことがある。その度に同じようなことを書いているのだが、街の路上を彷徨い歩き、シャッターを切り、プリント(自家製のカラープリント)して展示するという彼の行為は、何ともとりとめがなく、砂粒が指の間をすり抜けていくようにも見える。彼が2009年から、蒼穹舎で年に一、二度ほどのペースで続けている写真展も、全部見ているわけではないが、それほど大きく変わってきているわけでもない。だが今回の、2014年に集中して撮影した写真群を、あらためて選び直したという展示を見ているうちに、これもまた、写真家の行為としてある種の必然性を帯びているのではないかという気持ちが強まってきた。

コウノはプロフェッショナルな写真家ではないから、これらの写真は金銭を代価とする仕事ではなく、あくまでも“愉しみ”として撮影されたものだ。街を歩き、その時の自分の気持ちにフィットする光景に出会った時に、その手応えを確かめるようにシャッターを切る。あまり人の姿がない、写っていてもかなり距離をおいた光景そのものに意味があるというものよりも、むしろそこに彼がいたということの存在証明になるような写真が選ばれていた。今回の展示では、雨上がりの路上にカメラを向けた写真が目についた。そのやや青味を帯びたウェットな空気感が、プリントに的確に写し込まれている。一点一点の写真は砂粒のようだが、それらを結びつけ、つなげていくと、コウノジュンイチの写真のなかにしか成立してこない、「終わりのない街」の姿が浮かび上がってくるようにも思えてきた。

関連レビュー

コウノジュンイチ写真展「遠ざかる風景」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
コウノジュンイチ写真展 「境界」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年09月15日号)

2022/08/10(水)(飯沢耕太郎)

井上裕加里「Women atone for their sins with death.」

会期:2022/07/30~2022/08/07

KUNST ARZT[京都府]

戦前に広島に渡り被爆した在韓被爆者、終戦による「国境線」の引き直しによって故郷から分断された日韓の女性たちの個人史、ルールの服従と排除による「集団」形成のプロセスの可視化。井上裕加里はこれまで、東アジアの近現代史や共同体の境界線を批評的に問い直す作品を発表してきた。

「死をもって罪を償う女性たち」というタイトルの本展では、イランおよび隣接するパキスタンで起きた「名誉殺人」をテーマとする写真作品を発表した。ともにイスラム共和国である両国では、女性の人権に対するさまざまな制限に加え、「貞節」を守るべしという性規範に抵触したと見なされた女性が、「家族の名誉を守る」という理由で父や兄弟によって殺害(惨殺)される「名誉殺人」がしばしば起きている。

日本とイラン。地域的・宗教的な隔たりを架橋する仕掛けが、ギャラリーの扉の表/裏にそれぞれ掲示された両国の「女性専用車両」のサインだ。公共空間において男女を厳格に分ける宗教的要請に基づき法制化されているイランとは異なり、日本では「女性専用車両」に乗車するかどうかは個人の選択だが、設置の背景には痴漢の性被害に合う「公共空間」の非安全性がある。井上は、「女性専用車両」のサインを「公共に開かれた安全な空間」であるべき展示空間にインストールすることで、表現の現場調査団による『「表現の現場」ハラスメント白書2021』が明らかにしたように、ギャラリーや美術館もまた、「性差別的発言」「男性観客による執拗なつきまとい」といった性被害に脅かされる「安全ではない」空間であることを突きつける。



ギャラリーの扉(表側)の展示風景




ギャラリーの扉(裏側)の展示風景


そして、扉の内側には、「名誉殺人」の事例を人形で再現した写真作品計7点が並ぶ。被写体に用いられたのは、「Fulla(フッラ)」という名前の中東・イスラム版のバービー風着せ替え人形。褐色がかった肌、黒い目、ヒジャーブ(スカーフ)の下は黒髪だが、目鼻立ちやスレンダーな体型はバービーを思わせ、「アラブ美人」のステレオタイプ化という点でも興味深い。井上は、衣装の何着かを手作りしたフッラ人形とともにイランに渡航し、現地の路上で「再現シーン」を撮影した。添えられたテクストには、各事件の経緯が記される。女性性をアピールする写真やリベラルな発言をSNS上で公開し、パキスタン初のソーシャルメディア・スターと呼ばれたモデルのカンディール・バローチは少し異色だが、彼女以外は10代の少女で、「父親の反対する男性とつきあった」「親族ではない男性と通話した」「出席した結婚式で異性の前で歌い踊った」「バイクの少年を二度振り返って見た」といった行為を理由に殺害された。



井上裕加里《Case Pakistan -3 “named as Bazeegha, Sereen Jan, Begum Jan and Amina”》




井上裕加里《Case Pakistan -5 “Anusha”》


これらはいずれも、実の父親や(義理)兄弟による「家庭内殺人」である。ここに、単に「イスラム教の怖い国」「人権意識の遅れた地域」と切り捨てられない、DVとの構造的類似性がある。すなわち、妻や娘、姉妹は家長(男性)に従属する所有物であり、(性の)管理の対象と見なす家父長制的支配構造だ。自分の意のままに従う、意志も声も持たない受動的な人形。男たちには、娘や妹がまさにこのように見えていた。井上による「再現シーン」は、「殺害現場」そのものの再現ではないが、「男たち自身が見ていたビジョン」の再現という意味で恐るべきイメージである。そこでは、「理想美の造形化」に加えて、「家父長的支配者である男性にとっての規範的女性像」として、女性たちの身体は二重にモノ化されているのだ。



展示風景



公式サイト:http://www.kunstarzt.com/Artist/INOUEyukari/iy.htm

関連レビュー

Soft Territory かかわりのあわい|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年07月15日号)
井上裕加里「線が引かれたあと」|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年09月15日号)
井上裕加里展|高嶋慈:artscapeレビュー(2015年04月15日号)

2022/08/06(高嶋慈)

木谷優太、林修平、室井悠輔「P 尽き果て」

会期:2022/07/15~2022/08/07

IN SITU[愛知県]

本展は、名古屋駅からほど近いオフィスビルの一角にある「IN SITU」(完全予約制)で開催された木谷優太、林修平、室井悠輔によるもので、Pというのは「ポスト」を意味するという。

ポスト・トゥルース、ポスト・モダン、ポスト・コロナ、ポスト・コロニアル……次に何を考えるべきか、何を超えようとしているかと命名するとき現われる「P」。相対化の応酬たる「P」を3人はどのように扱うのか。


P:未踏の状態における可能性

宇宙に行ってしまったら、妄想の宇宙は消えてしまうという室井悠輔は、触れたことのないパチンコの絵《Cherry P》を描く。パチンコに幼少期からユートピアを感じながらも、金銭的余裕のなさから店に入ることすらできずにいるなかで描かれる資本主義の肖像。ポスト資本主義社会で重要視されるものが資本ではなく専門知だとして、未知なるものの価値はどうなるのかという問いであり、ひとつの答えだといえるだろう。


P:生活だけが残る

covid-19で注目を集めた言葉のひとつ「エッセンシャルワーカー」は、基本的に公共圏に不可欠な職種を指す。しかし、親密圏にもエッセンシャルワーカーは存在し、それはジェンダーに結びついているのではないかと、木谷優太は《二重生活》を制作する。木谷が「家庭内にあるエッセンシャルワーク」を男性である自身のセルフポートレイトでなぞるとき、何か違和感を感じたらそこにはジェンダーバランスの不均衡が見え隠れする。実家の壁にありそうなプラスチックの画鋲で留められた写真は、そのものが展示物でもあるのだが、人の家に貼られた写真を見てしまったような気持ちにさせる。何を超えようとも果てようとも、生活は残る。


P:次へ次へと果てに向かうのではなく

林修平の《帝國水槽》は熱帯魚が泳ぐネイチャーアクアリウムだ。ただし、その中にある水草は『満州水草図譜』(1942)に掲載されたものである。林は日本に植民地化された時代の満州国という枠組みのなかでの水草を生育環境の再現に用いることで、鑑賞者の内面に起こる二つの連続性を探ろうとしている。地域的あるいは時代的な戦後意識の連続性の有無である。どこまでを他者とみなし、どこまでを自身のこととして引き受けるか。

入場料は500円でした。


室井悠輔《Cherry P》(2022/部分)
合板、ダンボール、アクリルガッシュ、オイルパステル、アクリルメディウム、木工用ボンド、パテ、釘、画鋲、捨てられるはずだったもの、ほか
[撮影:木谷優太]


木谷優太《二重生活》(2022)
インクジェットプリント
[撮影:木谷優太]



林修平《帝國水槽》(2022)
水草、熱帯魚、石、木、二酸化炭素、水槽
[撮影:木谷優太]



公式サイト:https://twitter.com/IN_SITU43/status/1545728893168275458

2022/07/31(日)(きりとりめでる)

橋本貴雄「風をこぐ」

会期:2022/07/26~2022/08/08

ニコンサロン[東京都]

以前、本欄で橋本貴雄の写真集『風をこぐ』(モ*クシュラ、2021)を紹介したことがある。その時にも感じたのだが、12年間を共に過ごした愛犬のフウとの日々を綴ったこの写真シリーズは、ありそうでなかなかない作品なのではないかと思う。むろん飼い犬や飼い猫を撮影した写真はたくさんあるのだが、橋本のアプローチはそれらと微妙に、だが決定的に違っているのではないだろうか。写真集の掲載作を中心に46点を選んで出品した本展を見て、その思いがより強くなった。

ひとつには、被写体であるフウと橋本との距離感ということがある。フウを間近にとらえたカットはほとんどなく、広角気味のレンズでかなり距離を置いて撮影している。そのことによって、犬だけでなく、その周囲の光景、たまたま近くにいた人、ほかの犬などが写り込んでくる。今回の展示には、フウとともに移り住んだベルリンで撮られた写真が多い。それ以前の福岡、大阪、東京の写真と比較しても、橋本の関心が「フウのいる(いた)場面」をしっかりと写しとっておこうという方向に傾いているのではないかと感じた。

もともと交通事故で後ろ脚が不自由だったフウは、ベルリンで犬用の車椅子を装着して歩き回るようになる。おそらく、橋本は遠からぬフウとの別れを強く意識するようになったのではないだろうか。そのために、フウと過ごした日々の記憶、時間の厚みを、どのように写真のなかに取り込むかについて、より注意深い働きかけが必要になってきたことが、写真展の後半部の写真に強くあらわれてきていた。

最後のパートに、フウが亡くなった後、布に包んで車のバックシートに安置し、葬儀場に運ぶ場面の写真がある。フウの片耳と花束がちらりと見える。その後に、フウがまったく写っていないベルリンの光景の写真が5枚くる。これらの写真があることで、見る者にもフウの不在が共感できるように配慮されている。限られた点数しか展示できない写真展をどう構成するかという橋本の意識が、とてもうまく働いた締めくくりだと思う。

関連レビュー

橋本貴雄『風をこぐ』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年12月01日号)

2022/07/30(土)(飯沢耕太郎)

アレック・ソス Gathered Leaves

会期:2022/06/25~2022/10/10

神奈川県立近代美術館 葉山館[神奈川県]

もし、「アメリカ写真」というようなカテゴリーを想定することができるなら、アレック・ソスはその正統的な後継者といえるだろう。「アメリカ写真」というのは、あくまでも個人的な動機によって、未知の何ものかを探求してアメリカ各地を彷徨し、目にしたものを撮影して一束の写真として提示するような写真家のあり方で、ウォーカー・エヴァンズからロバート・フランクを経て、ゲイリー・ウィノグランド、スティーブン・ショア、ジョエル・スターンフェルドらに受け継がれていった。それぞれの写真のスタイルは異なっているが、現実世界の眺めを正確に描写することを心がけながらも、その背後(裏)に潜む見えないヴィジョンをこそ捉えようとしている。アレック・ソスは実質的なデビュー作といえる「Sleeping by the Mississippi」(2004)以来、まさにその「アメリカ写真」の典型ともいうべき作品を発表し続けてきた。

今回の、日本での最初の本格的な回顧展となる「Gathered Leaves」には、「Sleeping by the Mississippi」をはじめとして、「NAIAGARA」(2006)、「Broken Manual」(2010)、「Songbook」(2015)、「A Pound of Pictures」(2022)の5シリーズからピックアップされた、約80点が出品されていた。まだ初々しい眼差しを感じさせる「Sleeping by the Mississippi」から、洗練の度を増した近作に至る写真群を見ると、8×10インチ判の大判カメラによる、色彩や空気感をヴィヴィッドに定着したカラー・プリントという基本的なラインは維持しながらも、テキストと写真との関係、印刷媒体としての写真のあり方、音楽や詩と写真との結びつきなどに目配りしつつ、自らの作品世界をしっかりと構築していったソスの揺るぎない歩みが浮かび上がってくる。新作の「A Pound of Pictures」では、アメリカ各地で無名の人々によって撮影されたヴァナキュラー写真に着目することで、「写真による写真論」への関心を深めている。現在進行形の写真家としての彼の全体像を、的確な写真の選択・構成で見せたクオリティの高い展示だった。同時に刊行された小ぶりなカタログも、ソスへのインタビューを含めてとてもよくまとまっている。

2022/07/28(木)(飯沢耕太郎)

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