artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

瀬戸正人「Good-bye, Silver Grain さらば、銀の粒」

会期:2010/08/02~2010/08/08

Place M[東京都]

写真家たちにとって、デジタル化により銀塩印画紙の多くが製造中止になりつつある状況は他人事ではない大きな問題だ。これまでの作品制作システムが、根本から変わってしまうのだから、現場の混乱がおさまらないのは当然だろう。Place Mを主宰する瀬戸正人も、まさにそのような事態に直面しており、「写真を撮りはじめた30年前に立ち返って自分を検証する」という意味をこめて、今回の展覧会を企画した。すべて全紙サイズの銀塩印画紙によるプリントをずらりと並べており、特に1996年の第21回木村伊兵衛写真賞受賞作「サイレント・モード」のシリーズをひさしぶりに見ることができたのは嬉しかった。電車の車内の女性をスナップしたこのシリーズは、たしかモデルのプライヴァシーの問題があって発表を控えていたはずだが、瀬戸も覚悟をきめて出してきたということなのだろう。
展示を見ながら思ったのだが、銀塩印画紙の魅力は必ずしも最終的なプリントの出来栄えということだけではないのではないか。デジタル・プリンターの進化によって、現在ではクオリティ的にはむしろデジタルのプリントの方がよくなっている場合もある。それよりは、印画紙を引伸し機で露光して現像液につけ、停止、定着の処理をするそのプロセスそのものが、他に得がたい経験を与えてくれるのではないかと思う。瀬戸は展示の解説文で、印画紙の銀の粒子に「リュウ子」という女性の名前で呼びかける。そして、その現像のプロセスを「精液に似たタルタルした液の中で、キミが悶えながら姿を見せた」と描写している。たしかに、印画紙にイメージが少しずつ、ぼんやりと浮かび上がってくる様は、どこか性的な行為を思わせるところがある。暗室の赤い灯りと、現像液や停止液の饐えた匂いが、そのエロティシズムをより増大させているようにも感じる。
銀塩印画紙がなくなるということは、そういう代替不能なエロス的な体験も消えてしまうということだ。その方がむしろ大事なことなのだ。

2010/08/04(水)(飯沢耕太郎)

石川真生 写真展

会期:2010/07/23~2010/08/21

TOKIO OUT of PLACE[東京都]

沖縄の写真家・石川真生の写真展。携帯で撮影した『セルフ・ポートレイト─携帯日記─』と、あらゆる人びとに日の丸で自己表現をしてもらう『日の丸を視る目』、2つのシリーズから新作が発表された(また渋谷のZEN FOTO GALLERYでも、ほぼ同時期に『Life in Philly』と『熱き日々 in キャンプハンセン』による写真展が開催)。この2つのシリーズには、後者の石川が撮影者に徹しているのに対して前者の石川が被写体にもなるという違いがあるが、双方に共通しているのはともに人間を丸ごとさらけ出すという写真の暴力性を最大限に発揮しているという点だ。とくに日の丸について考えたことはなくても、石川の写真は自己と日の丸の関係性を明らかにするように迫ってくるし、術後の身体を包み隠さず披露しているように、そのような暴力性を自らにも差し向けるところに、石川真生ならではの倫理がある。それは、写真というメディアがはらむ大衆性がかつてないほどの拡がりを見せている今日、写真家という特権性を自己否定する身ぶりであるばかりか、私たちがつい忘れがちな「写真を撮る」という表現行為の楽しさと恐ろしさを、全身で教えようとする態度の現われのように感じられた。だからこそ、『日の丸を見る目』で被写体となっている人びとの多くが、左右を問わず、思想的に偏っているように見受けられたのが気になった。このシリーズの醍醐味は、携帯で自分を撮ることはあっても、日の丸などには見向きもしないような、市井の人びとが、なかば暴力的に日の丸と自己の関係性を問い直させられた結果、どのような表現が立ち現れるのか、その点に尽きると思うからだ。携帯の世俗性と日の丸の象徴性が重なり合うとき、石川真生はかつてない達成を遂げるのではないか。

2010/08/04(水)(福住廉)

上原徹 展 INERT MODULES

会期:2010/07/30~2010/08/11

AD&Aギャラリー[大阪府]

高層ビルの一部分を撮影し、幾何学的な図柄をミニマルアートのように仕上げた写真作品。単体ではなく、アンサンブルでインスタレーションを構築していた。作品の魅力は徹底したクールさ。同種のモチーフを用いる作家は他にもいるが、展示の美しさという点では私が見た過去の例より一段突き抜けていた。まだ発表経験が少ない作家だが、今後の活躍に期待したい。

2010/08/02(月)(小吹隆文)

尾畑涼子「祈りのかたちに似ている」

会期:2010/07/31~2010/08/12

ミリバールギャラリー[大阪府]

作者の祖母の故郷である和歌山の古座川町で撮影した写真作品。プリントの中でゆっくりと進む時間を感じながら、少年時代の夏休みを思い出した。行ったことがない土地なのに、なぜか懐かしい気持ちになるから不思議だ。展示は川面を意識したのか、大小の作品を底辺揃えで一直線に並べていた。また、床にも小品を並べており、視線を上下に動かしながらぐるりと展示室を回るのが楽しかった。

2010/08/02(月)(小吹隆文)

Summer Open 2010 BankART AIR Program

会期:2010/07/30~2010/08/05

BankART Studio NYK[神奈川県]

前回の「Spring Open」がなかなか面白かったので、横浜のBankART Studio NYKのアーティスト・イン・レジデンスの作家たちのオープン・スタジオにまた出かけてきた。6~7月にBankARTに滞在、あるいは通って作品を制作していたアーティスト、45組の成果発表の催しである。学園祭的な乗りの作品もないわけではないが、相当にレベルの高い展示もあって、逆にその落差が普通の展覧会にはない活気を生み出している。
写真を使った作品ということでいえば、東京藝術大学美術学部先端芸術表現科の鈴木理策研究室による「私にも隠すものなど何もない」展に出品されていた、金川晋吾の「father」が気になった。「蒸発をくり返している」父親をモデルにする連作のひとつ。今回は家で何をすることもなく暮らしている父親にコンパクトカメラを渡し、セルフポートレートを撮影させている。生そのものに不可避的にまつわりつく澱のようのものが、じわじわと滲み出てきている彼の顔つきがかなり怖い。有坂亜由夢「風景家」も日常の恐怖をテーマとする映像作品。部屋の中の物が生きもののように少しずつ移動しつつ、その配置を変えていく様子をコマ撮りの画像で淡々と見せる。カフカが描き出す日常と悪夢との境界の世界の感触を思い出した。
別なのブースで展示されていた藤村豪、内野清香、市川秀之のコラボ作品「迷いの森」は夢を物語化して再演する試み。フランスパンを持った男女の儀式のような写真(「誰かの夢」を演じたもの)を見せて、その夢がどんなものだったかを想像して「誰かが見た夢の話」の物語を書いてもらうというプロジェクトだ。まだ、あらかじめ設定された枠組みを超えて、物語が野方図に拡大していくような面白さにまでは達していないが、写真、テキスト、パフォーマンスを組み合わせていく手法はかなり洗練されている。今後の展開の可能性を感じさせる作品だった。

2010/08/01(日)(飯沢耕太郎)