artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

うつゆみこ「はこぶねのそと」

会期:2009/1/23~2/22

G/P gallery[東京都]

2006年、第26回「写真ひとつぼ展」でグランプリを受賞。このところ国内外での発表の機会も増え、僕を含めて一部ではかなり盛り上がっている期待の新鋭の、新作を含む作品展である。
オープニング前の、まだ展示が全部終わっていない雑然とした会場で、思いついたことをメモしながら作品を観た。その一部をここで公開してしまおう。
「サツマイモの芋虫化 ジャガイモの芽の一部のモグラ化 少女化するシャコ 見立ての凄み メタモルフォーゼの暴力的自己増殖 色彩の自立と細胞分裂 脳内ドラッグ 汎ゲロ世界 かわいい/グロテスク/エロいの三位一体 アイディアのてんこもり キノコをもっと増やせ! のろい(slow)呪い 現実世界に寄生するオブジェたち はこぶね=ノアの方舟?」
うつゆみこの凄みと魅力が少しは伝わるだろうか。なおメモの最後に書いた「はこぶね=ノアの方舟?」という答えはやはり正解だった。うつゆみこの作品のなかで「メタモルフォーゼの暴力的自己増殖」しているのは「はこぶねのそと」に放逐された「呪われた動物たち」だったのだ。神に方舟に乗り込むことを許されなかった、へんちくりんな生命体の方が、ノアをはじめとするまともな生き物たちよりずっと魅力的であることは、彼女の作品を見ればすぐにわかるだろう。もう一つ、絶対そうだろうと思っていたのだが、うつゆみこが一番尊敬している画家はヒエロニムス・ボッシュだそうだ。

2009/01/23(金)(飯沢耕太郎)

高梨豊「光のフィールドノート」

会期:2009/1/20~3/8

東京国立近代美術館[東京都]

展覧会のタイトルが「光のフィールドノート」。展示されている作品を入り口から順番にあげると、「SOMETHIN’ELSE」「オツカレサマ」「東京人」「都市へ」「町」「東京人1978-1983」「都市のテキスト」「都の貌」「next」「地名論」「ノスタルジア」「WINDSCAPE」「囲市(かこいいち)」「silver passin’」。
どれも文学的な教養を介してよく練り上げられ、的確にその内容を言い当てている。高梨豊が何よりも考えつつ写真を撮ってきた作家であることが、これらのタイトルにはよくあらわれている。
だがその写真が理屈っぽく、観念的かといえば決してそうではない。ポートレートなどでは演出的な写真もあるが、高梨の真骨頂はスナップショットであり、そこでは思惑を捨ててひたすら歩きまわり、イメージの「拾い屋」に徹し切っている。都市も田舎も、彼ほど日本全国を移動している写真家は、ほかにあまりいないだろう。撮ることの身体性をよく熟知しつつ、思考の抽象性もまた同時に研ぎ澄ませていく──知力と体力の素晴らしくバランスがとれた結合を、今回の処女作から未発表の新作まで、約250点で構成された回顧展で愉しく、しっかりと確認することができた。
個人的には「初國」のパートが一番見応えがあった。1980年代~90年代初頭にかけて、日本各地の「聖地」を訪ね歩いたシリーズだが、そこにはこの国に特有の土地の手触りが見事に捉えられていると思う。

2009/01/20(火)(飯沢耕太郎)

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吉岡俊直 展

会期:1/15~2/8

Gallery OUT of PLACE[奈良県]

映像、CG、写真作品が出品された。映像は自宅マンションの一角に巨大な水滴が現われて、遂には雫となって落下するというもの。水滴は「恐怖」のメタファーである。シンプルな作品だが、得体の知れない怖さを見事に表現していた。写真作品は、スイカの皮の部分のみを剥き、真っ赤な果実をむき出しにしたもの。まるで肉塊のような生々しさがあり、内視鏡で初めて自分の臓器を見た時のことを思い出してしまった。

2009/01/17(土)(小吹隆文)

横谷宣「黙想録」

会期:2009/1/7~2/28

gallery bauhaus[東京都]

おそらく横谷宣という名前をほとんどの方は知らないだろう。僕も昨年9月まではまったく知らなかった。作家・翻訳者の田中真知さんに紹介され、彼の手作りアルバムを見せられた時、これはただ者ではないと感じた。そこに写っているのは彼が旅の途中で出会った風景だが、すべて褐色のソフトフォーカスの印画に焼き付けられている。最初に見た印象は、これはピクトリアリズム(絵画主義)の再来ではないかということだった。ピクトリアリズムは、19世紀末から20世紀初頭にかけて世界的に流行したスタイルで、ゴム印画法やブロムオイル法のような特殊な技法を使って「絵のような」画面を作り上げる。聞けば横谷もカメラやレンズを自製し、尿素を使った独特のトーニング(調色)をプリントに施しているのだと言う。
だが写真を見ているうちに、これは別にオールド・ファッションをめざしているのではなく、むしろ彼にとってのリアルな眺めをできうるかぎり正確に定着しようという強い意志のあらわれなのではないかと思いはじめた。そのことは今回のgallery bauhausの個展ではっきりと確認できたように思う。横谷の写真に写っているのは、彼が一番美しいと思っている黄昏時の光そのものを、どうしたらきちんと捉えることができるかという苦闘の結果である。そのためにカメラやレンズも改造し、求める光に出会うために、最小限の装備を身につけて砂漠を超えて何日も旅行する。今時こんな古風な求道者的な写真家がいること自体が驚きなのだが、もっと驚くべきことは、じわじわと口コミで彼の写真の魅力が伝わり、多くの観客がギャラリーを訪れ、作品を購入していることだ。そのピュアーな、だが不思議な抱擁力を備えた作品世界は、多くの人たちを巻き込みつつあるようだ。

2009/01/16(金)(飯沢耕太郎)

TARO賞の作家I

会期:2008/10/11~2009/1/12

川崎市岡本太郎美術館[東京都]

今井紀彰から電話があって、彼が出品している「TARO賞の作家I」展を観に行くことにした。会場の岡本太郎美術館は、川崎市の生田緑地のとても気持ちのいい場所にあるのだが、やや遠くて、足を運ぶには一日潰す覚悟がいる。この展示も行かなければと思っていたのに、ついずるずると最終日になってしまっていたのだ。
結果は行って得をした気分になった。今井は以前から写真を大画面に曼荼羅状に配置していくコラージュ作品を制作していたのだが、今回はそれがさらに進化して「ビデオコラージュ」になっていたのだ。ハイビジョン化によって画像の精度が増し、写真作品並みの細部のクォリティが実現できた。画面の分割、融合、合成などの視覚効果も簡単に使えるようになってきたのだという。とはいえデータの量は半端ではなく、10分程度の作品で、書き込みだけで40時間もかかる。デジタル機器の進化によって、逆に今井のような画像の物質性を追求する映像作家が出現してきたのはとても興味深いことだ。
内容的には、これまでの彼の「曼荼羅」作品と同様に、ブレークダンス、街の雑踏、水の輪廻、空と雲などの森羅万象が、点滅しつつ変幻していく魔術的な映像世界が構築されていた。もともと彼の中にあったシャーマン的な体質が、静止画像から動画になることで、より強化されているようにも感じる。今後の展開が大いに期待できそうだ。
「TARO賞の作家I」展の他の出品者は、えぐちりか、開発好明、風間サチコ、棚田康司、横井山泰。TARO賞も11回目を迎え、ユニークな作家が育ってきている。えぐちの増殖する卵の群れ、下着でできた食虫植物など、日常を異化する作品が面白かった。この中の何人かには、岡本太郎の作品世界のスケールの大きさまで肉迫していってもらいたいものだ。

2009/01/12(月)(飯沢耕太郎)