artscapeレビュー
2016年12月01日号のレビュー/プレビュー
南阿沙美 写真展 MATSUOKA!
会期:2016/10/22~2016/10/30
PULP[大阪府]
今年7月の「ART OSAKA 2016」で出会った写真家、南阿沙美。その際には出展されなかったシリーズ《MATSUOKA!》が、大阪の画廊で披露された。同シリーズは、体格のよい女性を戦うヒーローに見立てて撮影したもの。彼女はピチピチのTシャツ&青い短パンという衣装で、正義のヒーローのように跳んだり跳ねたり転がったりしている。何と戦っているのかは皆目不明だが、その真剣な姿がなぜか心に響き、スカッとした爽快感が駆け抜けるのだ。じつは本作は2014年の「写真新世紀」で優秀賞を獲得しており、彼女の出世作である。約2年ものタイムラグがあったが、見ることができて本当に良かった。
2016/10/24(月)(小吹隆文)
Chim↑Pom 「また明日も観てくれるかな?」
会期:2016/10/15~2016/10/31
歌舞伎町振興組合ビル[東京都]
Chim↑Pomの醍醐味は、同時代における政治的社会的な問題への先鋭な意識と、それらを体現する桁外れな想像力の強度である。時として作品の重心が前者に傾きすぎると奇妙に優等生的で退屈になりがちであり、後者に傾きすぎると社会を騒乱させる「お騒がせ集団」というレッテルを貼られがちだという難点がないわけではない。だが、その両極のあいだで絶妙な均衡感覚を保ちながら生き延びてきた粘り強い生命力こそ、彼らの類い稀な特質なのかもしれない。
本展は新宿歌舞伎町の一角に立つ古い雑居ビルで催された彼らの自主企画展。ギャラリーの後援も企業や自治体による支援もないまま、建物の全体をほぼ丸ごと使用しながら空間の隅々に作品をインストールし、あるいはその空間全体を作品化した。この雑居ビルは、前回の東京オリンピックが催された1964年に建造され、次回の開催が予定されている2020年を前に解体が決定していることから、これまでのChim↑Pomの作品の多くがそうであったように、過去と現在と未来という時間軸を強く意識させる展観になっていた。
なかでも最も際立っていたのが、2階から4階までの会場の床を位置と大きさをそろえて切り落とした作品。4階から床に開けられた穴を見下ろすと、1階まで抜ける高さに恐怖を禁じえない。ところがほんとうに恐ろしいのは、むき出しにされた床の断面である。そこに認められる鉄筋の数が想像を超えて少なかったからだ。重力に逆らいながらも私たちの文明的な日常生活を支えているはずの土台が、思いのほか不安定で寄る辺ないもののように見えることが衝撃だったのである。むろん、こうした不安の感覚は911が起こったときに否応なく味わったという点で、決して新しいものではない。だが歌舞伎町のど真ん中に穿たれた巨大な穴は、究極的には重力に敗北せざるをえない建築の宿命とは、やや性質を異にしていると思われる。
端的に言えば、それは建築の敗北というより、むしろ戦後民主主義の敗北ではなかったか。というのも、この底抜けの感覚は昨今の政治的社会的な状況の正確な反映として考えられるからだ。民主主義という制度と思想が戦後の日本社会の復興と繁栄を領導してきたことは事実だとしても、主権在民という原則を足蹴にする極右政権の誕生と持続は、それが必ずしも人間の善と幸福を約束するわけではないという事実を改めてつきつけた。戦争の放棄を謳う平和憲法をないがしろにする政策や、沖縄の米軍基地をめぐる問題について民意を無視した強行政策に見られるように、民主主義という理念はいままさに骨抜きにされつつある。それまで民主主義を信奉してきた者さえ、その価値に疑いの眼差しを向けているほど、それは大きな危機に瀕していると言わねばなるまい。これまでの戦後社会を支えていた土台が次々となし崩しにされているという点で言えば、私たちは確実に落ちているはずなのだが、社会全体が周囲の風景を巻き込みながら落ちているせいだろうか、落下の感覚すらおぼつかない。あの1階まで抜けた穴を見下ろしたとき、私たちは落下するかもしれないというより、むしろいままさに落ちていることを想像的に思い知るのである。その反動として思わず上を見上げたとしても、そこにはジェームズ・タレルの作品のように解放感あふれる大空があるわけではなく、薄汚れた5階の床がまるで私たちの未来に蓋をするかのように広がっている。それゆえ結局のところ、私たちは果てしなく落ちていくイメージに束縛されながら、自らの脚で階段を降りていくほかないのだ。
しかしChim↑Pomの今回の作品が優れているのは、物質を大胆に工作することで、そのような社会状況をみごとに体感させているからではない。最下層の1階に降り立つと、そこで眼にするのは、積み上げられた3枚の床。2階から4階までの切り抜いた床を、そのまま下におろし、ビル内にあった色とりどりの家具や事務用品なとの廃物を挟み込んだ。コンクリート製の床面をバンズに、廃物を具材に、それぞれ見立てたハンバーガーのような作品である。つまり切り抜いた床は本来的には落下すると粉砕される可能性が高いが、彼らはそれらを自分たちに馴染みのある造形として反転させたわけだ。《スーパーラット》が渋谷の雑踏でたくましく生きる自分たち自身の自画像だったように、この作品もまた私たちの現在地を刻んでいると言ってよい。
落ちつつも、単に滅びるのではなく、再び立ち上げること。あるいは、なんとかして立ち上がろうともがくこと。ここにこそ、Chim↑Pomならではの思想が表わされている。例えば坂口安吾が扇動したように、滅びの時代にあっては、堕落の道を極めることもありえよう(『堕落論』)。だが、Chim↑Pomの時代感覚はあくまでも同時代的である。どれだけ過去を振り返り未来を見通したとしても、彼らの関心はいかにしていまを生きるかという点にあるからだ。過去や未来はあくまでも現在の輪郭を明確にするための参照点であり、未来の光明を信じて現在の滅びをよしとすることはありえない。そこに、Chim↑Pomのしぶとい生命力の源がある。
2016/10/24(月)(福住廉)
KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN マーク・テ『Baling(バリン)』
会期:2016/10/22~2016/10/24
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
マレーシアを拠点とするマーク・テが10年間の集大成として完成させた『Baling(バリン)』は、公に語られずにきた自国の現代史に光をあてるドキュメンタリー演劇。タイトルの元となった「バリン会談」とは、イギリスによる植民地支配、日本による占領を経て、国家の独立をめぐる内戦状態に陥った「マラヤ危機」を終結させるため、1955年に行なわれた和平会談を指す。会談に臨んだ3名の政治指導者は、マレー系マラヤ連邦初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマン、中華系マラヤ共産党書記長のチン・ペン(陳平)、シンガポール主席大臣デヴィッド・マーシャル。ジャングルに潜伏してゲリラ戦で抵抗するチン・ペンが、公の場に姿を現わす稀な機会としても注目されたこの会談を報じるニュース映画の上映で、作品は幕を開ける。武装解除と共産党の解散(もしくは国外退去)を条件に講和を求めるラーマンとマーシャルに対し、粘り強く交渉するチン・ペンとのやり取りは平行線をたどる。本作から浮かび上がるのは、マレー系/中華系というエスニックな差異が、保守/共産主義というイデオロギーの対立と重ねられ、民族・階級・思想の分断線をより強固にしている点、そしてそうした多民族国家の姿をポストコロニアルな視点から検証する姿勢である。
『Baling』が秀逸なのは、実際の記録に基づいて俳優たちが会談を「再現」するとともに、シーン毎に3名の「役」が順番に入れ替わること、実際は男性のみの会談を1名の女性俳優を交えて演じること、そして俳優たちが手にした「台本」に視線を落としながら演じることで、歴史を「再現/再演」しつつ、歴史=フィクショナルな存在であることをパフォーマティブに示す点だ。こうした歴史の虚構性は、時局の推移に伴って両極的なイメージを付与されたチン・ペンの写真イメージについての考察を交えることで、より強調される。抗日闘争の英雄としてメダルを授与されるチン・ペン/政府にゲリラ戦で抵抗する悪玉組織のボスとして糾弾されるチン・ペン。パスポート写真から取られた後者の顔写真は、指名手配のビラのように天井から吊られ、上空から観客の身体の上に降りかかる。ここでは観客もまた、安全な傍観者として静観することを許されず、『Baling』が発する幾重もの問いの中に身体的に巻き込まれるのだ。
ニュース映画の上映、会談の「再現」と「役の交替」、そして俳優自身が個人的な活動について話す場面が交錯して展開する『Baling』では、場面の転換ごとに背景となる壁やスクリーンが切り替わり、床に座布団を敷いて座る観客たちは、視線の矛先を変え、時に身体ごと移動しながら鑑賞することになる。あるいは、観客という一時的な共同体は、その間に割って入る俳優によって二分され、撹拌される。歴史は仮構的であること、それゆえ多視点で複眼的に眼差す必要があることが、安定した位置を脅かし、視点を流動化させることで、文字通り身体的に経験/要請されるのだ。
こうした多視点的な空間構成は、作品中の「語り」の位相の複数性とも対応する。政府の公式見解/会談の実際の記録/俳優個人としての語りかけといった複数の「語り」が交錯することで、作品は、唯一の「声」への奉仕ではなく、内部にいくつもの分裂を抱え込みながら、「誰が、何を、どのような視点から語るのか」という意識への覚醒を呼び覚ます。それは、演じる役柄の交替という、フィクションであることを曝け出すメタ的な仕掛けともあいまって、歴史=フィクションへの疑義とともに、演劇という機制それ自体への問いでもある。
そして、「交換可能な役として演じられること」と「身体から引き剥がされた写真イメージの過剰性」によって浮かび上がるのは、チン・ペンの実体性の希薄さ、亡霊性である。アクティビストでもある一人の俳優が語るように、実体がなく死なない=亡霊として回帰するからこそ、支配層にとって「チン・ペン」は恐怖の対象となり、過剰な検閲や取り締りが課される(この俳優は、亡命先のタイで死去したチン・ペンの葬儀に出席し、式で配布された自伝的な記録本を「汚れた洗濯物の中に隠して」持ち帰ったが、マレーシアの空港で本の所持を発見された者は逮捕されたという)。
終盤、ドキュメンタリー監督でもある別の俳優が、晩年のチン・ペンを亡命先で取材した映像記録が流される。だがそこに映るのは、かつての革命の闘士の真実の姿ではなく、ほとんど記憶を無くし、言葉もおぼつかなく、質問に対してただ「生まれ故郷のマレーシアに帰りたい」と所在なく繰り返す、ひとりの老人だった。それは、「チン・ペン」の真のイメージの不在を告げるとともに、より象徴的には、歴史の「忘却」、記憶喪失、健忘症という事態を暗示する。
ここで、『Baling』を、複数の国による植民地支配を受けた多民族国家マレーシアという特殊なケースとして片付けることは、作品のより本質的な要素を見誤ってしまうだろう。作品という個別的な特異点から普遍性を抽出し、自らの文脈に照射させて考えることが真の受容ではないか。興味深いことに、2日間に及んだ会談の再現場面では、「First Session」「Second Session」と表示される字幕に、「上演時の現在時刻」が同時に示されていた。私たちはここで、単に歴史の回顧を超えて、その批判的検証を「現在」に引きつけて考える場にまさに「立ち会っている」のだ。それは、グローバル化の進展、難民や移民の増加、強まる保守化・右傾化、民主主義の機能不全など、近代国家のアイデンティカルな輪郭や基盤が再び問われている現在へと折り返して考えることを取りも直さず要請している。
公式サイト:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN
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2016/10/24(月)(高嶋慈)
Chim↑Pom 「また明日も観てくれるかな?」
会期:2016/10/15~2016/10/31
歌舞伎町振興組合ビル[東京都]
昨今「地域アート」という言葉が躍っている。ただいろいろ見ていくと、都市型の芸術祭と過疎地型のそれでは様子が違う。都市型の特徴は過疎地型のように開催する土地への振り返りに乏しく、その代わりに国際性を謳いがちで、テーマは外から持ち込まれる。するとそれは、規模が大きいだけで一般の美術展とさほど変わらなくなる。過疎地型は最初から自分たちの「過疎」というネガティヴな問題を隠そうとはしない。けれども、都市型の場合、問題はいくつもあるのだろうが、内側の問題を開くよりも外から持ち込んだテーマでそれを覆ってしまいがちだ。それは、単にキュレーターや作家の想像力の欠如を指摘して済むものではなく、フェスティバル主催者である地域行政の思惑などが絡まり合った結果であり、それゆえに、その場のポテンシャルが十分引き出されぬまま、淡く虚ろな鑑賞体験しか残さない、という事態が起こる。けれども、都市には過疎地とは異なる見どころやパワーが潜んでいるはず。Chim↑Pomは活動の最初期からずっとそのパワーと向き合ってきた。本展は、歌舞伎町振興組合ビルを展示会場かつ展示作品とするプロジェクトで、オールナイトのイベントが2夜実施された。一種の「家プロジェクト」だけれど、都市型らしい騒々しさがあり、イベントでは窓を開け放して爆音で音楽を鳴らしたりしたそうだが、近くの交番からの中止要請はなかったそうだ。そもそも悪い場所だから、これくらいの悪さは悪さに入らない? そう考えると、あちこちでいかがわしく淫らなことが行われているとしても、つまらない干渉を互いにしないし、だからみなが個性的に街を闊歩している歌舞伎町は、日本には珍しく国際的な雰囲気を漂わせた寛容な世界なのだ。Chim↑Pomはそこで、五階建てのビルの各階の床を2メートル四方ほどくり抜き、吹き抜けを施すという乱暴さを発揮する。《性欲電気変換装置エロキテル5号機》、《SUPER RAT-Diorama Shinjuku-》など初期作品の発展型となる展示もあり、吹き抜けに映写される《BLACK OF DEATH》含め、Chim↑Pomはずっと都市のパワーと付き合ってきたんだよな、と再確認させられる。これは紛れもない地域アートであるはずだ。しかし、これはいわゆる「地域アート」ではない。「地域アート」では行政による介入は不可避であり、その結果、できないことばかりが増えていく。ぼくたちはそうやって自分たちの首を絞めている。Chim↑Pomが巧みなのは地域の当事者と直に接触するところで、そうすると通らないのものも通ってしまう。たまたま歌舞伎町振興組合の組合長と卯城竜太がカメラ越しにトークしている場面に出くわした。都市型芸術祭には、こういう当事者との直接的な接触があるようでないのだ。その場は、善悪を決めつけずに相手と付き合う歌舞伎町的流儀の話で盛り上がった。なるほど「善悪を決めつけない」場というものこそ、アートの場ではないか。
公式サイト:http://chimpomparty.com/
2016/10/26(水)(木村覚)
KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN 小泉明郎 CONFESSIONS
会期:2016/10/28~2016/11/27
京都芸術センター[京都府]
本展は「KYOTO EXPERIMENT 2016 京都国際舞台芸術祭 AUTUMN」の展示プログラムのひとつとして開催された。なぜ舞台芸術祭で小泉明郎なのかと思ったが、彼の映像作品が持つ演劇性に着目したらしい。展覧会のテーマは「告白」で、作品は《忘却の地にて》と《最後の詩》の2点が選出された。筆者が注目したのは前者である。同作では、第2次大戦中に非人道的な任務に就いた元日本兵のトラウマが、独白(音声)と風景の映像で綴られる。時々言葉に詰まり、必死に思い出そうともがく男。その緊迫感に、見ているこちらも心が締めつけられる。ところが背面に回って驚かされた。じつは、交通事故で脳に損傷を受け記憶障害を抱えた男性が、元日本兵の証言を暗記して語っていたのだ。裏切られた! 落胆、憤り、虚脱感が一挙に押し寄せる。なんだこれは。ブラックユーモアにもほどがあるだろう。しかし冷静に考えてみると、こちらが勝手に思い込んでいただけだ。元日本兵の言葉も、それ自体に偽りはない。本作は、人間の記憶や心象がどのように形作られ、どのような危うさを持っているかを伝えている。このヒリヒリした感覚、人間の痛いところをわざと突いてくる感じは彼独特のものだ。作品を見るといつも嫌な気持ちにさせられる。でもけっして嫌いにはなれない。小憎らしいアーティストだ、小泉明郎は。
関連フォーカス
舞台芸術を支えるローカルな土壌と世界的同時代状況への批評性──KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN|高嶋慈:artscapeフォーカス
2016/10/28(金)(小吹隆文)