2019年04月15日号
次回5月15日更新予定

artscapeレビュー

2019年02月01日号のレビュー/プレビュー

裵相順「月虹 Moon-bow」

会期:2019/01/14~2019/01/27

JARFO 京都画廊[京都府]

木炭によるモノクロームの静謐かつ力強い描線で、あるいは陶芸で、「紐」「組み紐」「糸玉」を思わせる半抽象的な形態を表現してきた裵相順(ベ・サンスン)。彼女が繰り返しモチーフとしてきた、絡み合う「紐」や「糸」は、メドゥプ(朝鮮半島の伝統的な組み紐工芸)を連想させ、「手工芸」「装飾」といった女性的な領域を示唆するとともに、その有機的な形態や流動的な線の生成は、血管や神経、髪の毛など人体の組織や伸びゆく植物など、生命のエネルギーも感じさせる。裵は、韓国の大学を卒業後、日本の美術大学で学び、現在は京都を拠点に制作している。

抽象的、内省的な作風の裵だが、近年は、日本人の移住によって近代都市が形成された韓国中部の大田(テジョン)の歴史に着目し、記録資料の収集やかつて大田に住んだ日本人へのインタビューなど、リサーチを行なってきた。1900年代初め、日露戦争に備えて朝鮮半島を横断する鉄道建設を急いでいた日本は、重要な中継地点として大田を選び、都市開発を行なった。鉄道技術者らの移住に加え、商店や工場も建設され、当時の絵ハガキの写真を見ると、日本語の看板が並ぶ日本風の街並みを和装の人々が行き交っていた様子が分かる。敗戦後、日本人は本土に引き揚げ、近代建築物の多くは朝鮮戦争で破壊された。日韓両国の歴史においてほとんど語られることのなかった大田だが、近年は、植民地期の都市形成史を掘り起こす研究が進んでいる。本展では、戦前/戦後/現在の大田の写真、かつての居留者の日本人へのインタビュー映像、家族アルバム、市街地図といった資料とともに、写真作品《シャンデリア》シリーズが展示された。



展示風景

「糸」はこれまでの裵の造形作品の主要なモチーフだが、《シャンデリア》シリーズでは、暗闇のなか、絡まり合う無数のカラフルな細い糸を撮影し、写真作品として制作している。素材には韓国と日本の錦糸が用いられ、ほどいた糸を絡めてもつれさせている。それは、戦前に大田で生まれ育ち、敗戦や引き揚げを経て、戦後は日本国内での差別から朝鮮半島生まれであることを語らずに生きてきた人々の、容易には解きほぐしがたい記憶のもつれを思わせる。インタビューに応じた日本人は、平均年齢80歳であり、生まれ育った「故郷」と「日本(人)」というナショナルな枠組みの狭間で、70年以上も引き裂かれながら生きてきたのだろうと察せられる。また、絡み合う「糸の束」が色とりどりの糸から出来ていることに目を向けると、大田というひとつの都市に移住し、行き交い、去っていった無数の人々の人生の軌跡が交錯するさまをも連想させる。さらにそれは、もつれて絡まりあった複雑な両国の歴史のメタファーでもあり、大田が鉄道建設の拠点として作られた都市であることを考え合わせると、帝国主義的欲望とともに拡張されていく線路、その瘤のように肥大化した欲望の姿をも想起させる。個人の記憶と国家的欲望、ミクロ/マクロの多層的な意味やメタファーが重なり合い、一義的な意味の決定を拒むところに、《シャンデリア》シリーズの魅力、ひいてはアートとしての可能性がある。



《選択された風景》2019

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展覧会タイトルの「月虹」とは、月の光(月に反射した太陽光)によってできる虹を指す。それは、暗がりにかすかに光る、見えづらい「虹」だ。作品タイトルの「シャンデリア」もまた、通常想起される富や権力の象徴ではなく、反語的な意味をはらむ。裵の「シャンデリア」は、抑圧され語られてこなかった個人の記憶に耳を傾けることから出発し、国家の歴史から葬られてきた植民地支配の記憶を、かすかな明かりで照らし出す。

2019/01/27(日)(高嶋慈)

ERIC「香港好運」

会期:2019/01/11~2019/02/02

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

ERICが、生まれ育った香港を出て日本に来たのは1997年である。日本行きは「ただなんとなく」で、6人家族が同居する家に馴染めなかったことによる「国際的家出」でもあった。その後、2001年に東京ビジュアルアーツ写真学科を卒業して、日本で写真家として活動してきた彼にとって、「香港を撮る」にはかなり覚悟が必要だったのではないだろうか。香港という愛憎相半ばする場所では、写真家としての客観性を保つのがかなり難しくなるからだ。だが、今回Zen Foto Galleryで展示された30点余りの写真を見ると、彼がそのハードルをしっかりとクリアしていることがわかる。

ERICの撮影スタイルは、初期から一貫して「ストリート・スナップ」である。偶然出会った路上の人物たちにカメラを向け続けるのは、テンションを保つだけでも大変なことが想像できる。実際、彼がこれまで発表してきた日本、中国、インドなどでのスナップ写真も、少しずつ画面構成に破綻がなくなり、落ち着いた雰囲気になってきていた。ところが、今回の「香港好運」展には、まさに原点回帰というべき気迫のこもった写真が並んだ。やや黄色味の強い自家プリントによる写真群の熱量、生々しさは驚くべきものがある。故郷を出てから21年の間に、香港にもERIC自身にも大きな変化があったはずだが、そのことを全身で確認し、さらに前に進もうという強い意欲感じることができた、

なお、Zen Foto Gallery から同名の写真集(アートディレクション・おおうちおさむ)が刊行されている。「個性を垂れ流している」人物たちの写真を小気味よく連ねた、ビートの効いた造本の写真集である。

2019/01/29(火)(飯沢耕太郎)

Oh!マツリ☆ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー

会期:2019/01/12~2019/03/17

兵庫県立美術館[兵庫県]

ポップな脱力感の漂うゆるい展覧会タイトルだが、中身は骨太で硬派、同館としては珍しく攻めた企画展。ハイアート/大衆文化を二項対立的に分離せず、昭和戦前期、戦時期、戦後、高度経済成長期における社会的事象を反映する「視覚文化装置」と捉えて紹介する。「ヒーロー」と対になる「ピーポー」とは、「一般の人々」を意味する本展の造語。消費文化の享受者たる大衆、政治的主体としてのデモ集団、都市を行き交う群集、匿名性や均質性、そして「私たち」の輪郭を問う姿勢は、畢竟、「ネーション」の問題をその深淵において浮上させる。本展は、「集団行為 陶酔と閉塞」「奇妙な姿 制服と仮面」「特別な場所 聖地と生地」「戦争 悲劇と寓話」「日常生活 私と私たち」の5章で構成され、歴史的代表作品とともに、マンガ、紙芝居、特撮、アニメーションなど同時代の大衆文化や資料を紹介する。加えて、ゲスト作家として、会田誠、石川竜一、しりあがり寿、柳瀬安里の4名の新作が、各章の間に配置される構成となっている。

デモの緊張感や運動の躍動感を切り取った、モノクロの構成美が冴える安井仲治や、ブレを駆使した東松照明。労働者のストライキを大画面で描いた、岡本唐貴のプロレタリア美術。都市生活者の類型的外見をつぶさに観察、分類した今和次郎の考現学のスケッチ帳。藤田嗣治、鶴田吾郎の作戦記録画や、川端龍子、宮本三郎の描いた軍人の肖像画は、軍隊での立身出世を戯画的に描いた『のらくろ』の原画やアニメ、軍国色の強い紙芝居や少年向け雑誌、実物の千人針などの資料と並置され、視覚文化がおしなべて動員手段化される事態を映し出す。この「戦争 悲劇と寓話」の章は本展の白眉であり、「ヒーロー」(英雄視される軍人や特攻隊員)の形成が、「ピーポー」を「ナショナルな共同体」へと統合し強化していく回路が、さまざまな視覚メディアによって遂行されたことが示される。

一方、敗戦後の具象絵画(石井茂雄の《暴力シリーズ》、河原温の「浴室絵画」、山下菊二や桂川寛らのルポルタージュ絵画など)は、畸形的にねじれた人体表現のなかに、虚無感や抑圧、現状への告発を表現する。さらに、ハイレッド・センターやゼロ次元による自らの身体を駆使した反権力的なパフォーマンスを経て、『Time』誌の表紙の米大統領とセルフポートレートを接続させる郭徳俊、万歳を叫ぶウルトラマンのフィギュアが鏡に反映して日章旗を形づくる柳幸典の《バンザイ・コーナー》、中国残留孤児の顔写真を切手化した太田三郎、無人駅で即席焼きそばを食べる白川昌生のパフォーマンス、Chim↑Pomなど、社会的・政治的問題を扱う現代作品群が散りばめられている。

また、「ヒーロー」の軸から紹介されるサブカルチャーにおいても、上述の『のらくろ』に加え、東京の街を襲うゴジラ(1954年公開)と「復興のネガ」「空襲の記憶の残滓」、円谷英二の特撮技術の起点が国策映画『ハワイ・マレー沖海戦』にあること、ウルトラマンシリーズの脚本を手がけた金城哲夫と沖縄戦体験など、大衆文化の背後に「戦争」が色濃く影を落としていることが読み取れる。

新作の巨大インスタレーションを発表した会田誠の《MONUMENT FOR NOTHING Ⅴ~にほんのまつり~》は、本展を象徴する作品だ。歯が抜け落ち、痩せこけた幽鬼のような「日本兵」が巨大化し、「墓」となった国会議事堂に手を伸ばす。その姿は国会議事堂に襲いかかるようにも、「戦前」の亡霊に未だにコントロールされる「日本の政治」のカリカチュアのようにも見える。巨大なハリボテの造形は「青森のねぶた」=「祭り」とともに、国会議事堂が象徴する「まつりごと」=「政治」を示唆し、軍隊の最下級である「二等兵」が巨大化して超人的な力を持つ(「ヒーロー」化する)など、本展のタイトルと複数の意味で呼応する。



会田誠《MONUMENT FOR NOTHING Ⅴ ~にほんのまつり~》 写真撮影:多田雅輝

このように、「現在へ警鐘を鳴らす抵抗点として歴史を編み直す」という明確な問題意識に裏打ちされ、質量ともに充実した本展だが、ひとつの深刻な欠落を抱え込んでいることを最後に指摘したい。それは、「ジェンダーの偏差」という問題(もしくは問題化さえなされないという問題)である。「デモ(労働争議、安保反対)」、「戦争(作戦記録画/大衆文化を問わず動員手段となる視覚文化)」、「ヒーロー(仮面や変身/「英霊」)」……ここで駆動しているのは、(扱う事象においても作家の顔ぶれにおいても)徹底して「男の論理(男性の身体を「標準」と見なす行動原理)」にほかならない(唯一の例外は桂ゆき)。それはある意味、「昭和・平成の日本」の典型的反映であるのかもしれない(「制服」のパートで、「女子学生」が登場するが、堀野正雄と安井仲治の写真はともに「均質な集合体」として扱い、中村宏は、顔の見えないもしくはひとつ目のセーラー服の女子学生の身体が乗り物や兵器と合体した様をエロティックなアングルから描く(『艦これ』の先駆?)。いずれも、固有の顔貌を欠いた「女子学生」という記号の生産にほかならない)。

ここで、本展内部および「昭和・平成の日本」の枠組みに文字通り「亀裂」を入れるのが、柳瀬安里の《線を引く》である。この作品は、2015年夏、国会周辺のデモに集った群衆の足元の道路に、「チョークで線を引く」パフォーマンスの記録映像である。気にも留めない人、どうしたのかと心配する人、危ないからと注意する人、戸惑いながら尋問する警察官……声をかける人には「ただ線を引いているだけ」と答える柳瀬は、集団の声に同化するのではなく、その内部を撹拌しながら、「線(境界線)」の持つさまざまな意味をこの場に召喚していく。初めて発表された「フクシマ美術」展(2016)ではシングル・チャンネルの映像作品だったが、今回は、同じ「線を引く」行為を、京都の市街地や美大のキャンパスで行なった映像も並置された。叫び声や音楽の鳴り響く「デモの路上」とは対照的に、人影もまばらな風景のなかを淡々と線を引いていく柳瀬の姿は、警察の規制線、地震の亀裂、「原発20km圏内」や「パレスチナ分離壁」、排除と分断の構造が「どこか遠くにある」分断線ではなく、「日常」のなかに潜在的に偏在していることを想像させる強度に満ちていた。



柳瀬安里《線を引く》

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2019/01/30(木)(高嶋慈)

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第751回デザインギャラリー1953企画展「鈴木康広 近所の地球 旅の道具」

会期:2019/01/23~2019/02/17

松屋銀座7階デザインギャラリー1953[東京都]

アーティストの鈴木康広は周囲の人々にとても愛されている人ではないかと思う。私も鈴木に何度か会ったり取材をしたりしたことがあるが、彼はいつも目をキラキラと輝かせて熱く語ることが多く、子どものように純粋な人という印象を受けた。鈴木は作品を構想するときに、いつもノートにペンでスケッチを描き溜める。そのスケッチが何とも素朴でありながら、しかしそこに「鈴木ワールド」とでも言うべく別次元の宇宙が果てしなく広がっている。そのスケッチ群を壁面いっぱいに展開した本展は、まさに「鈴木ワールド」を堪能できる内容であった。

鈴木は日常の風景や現象を独自の視点で観察し、それを「見立て」によってとらえ直し、作品へ昇華させることで知られている。代表作のひとつ《ファスナーの船》は船をファスナーに見立てた作品だ。「海を進む船と航跡がファスナーのように見えた」という、子どものように純粋な視点が作品を生むきっかけとなった。すごいのは、そんな気づきだけに終わらせず、本気で船をつくってしまったことである。まずはラジコン式の小さな船を公園の池で走らせ、次に「瀬戸内国際芸術祭」で人が乗れる船を海に走らせた。もうひとつ《りんごのけん玉》は、けん玉の赤い玉をりんごに見立てた作品だ。けん玉は地球の引力を利用した遊びである。つまりこれを「ニュートンが木からりんごが落ちるのを見て万有引力の法則を発見した」というエピソードに見立てたのだ。鈴木は中学生の頃に担任教師の勧めで始めて以来、けん玉に対しては並々ならぬ思い入れがあるようだ。

そうした鈴木の過去20年分のさまざまな作品が実物とスケッチと映像で紹介されていた。鈴木の発想の原点であるスケッチを観ていると、思わずクスッと笑ってしまうものが多い。鈴木の見立ては、まったく別物の何かと何かとに共通性を見出す心である。それは既成概念にとらわれない、子どものように純粋無垢な心でなければ得られない。案外と深いなと思ったのが、「現在/過去」という判子である。天面に「現在」と書かれた判子を捺すと、紙に写るのは「過去」という文字である。現在であったはずの時間は、判子を捺した瞬間に、すでに過去となっている。そんな当たり前の時間の概念についても、まるで子どもに率直な質問を投げかけられたときのように、ハッと考えさせられるのである。

展示風景 松屋銀座7階デザインギャラリー1953[撮影:ナカサアンドパートナーズ]

公式サイト:http://designcommittee.jp/2019/01/20190123.html

2019/01/31(杉江あこ)

「OBI KONBU」展 MIYAKE DESIGN STUDIO 新作シリーズ①

会期:2019/01/19~2019/02/18

21_21 DESIGN SIGHT ギャラリー3[東京都]

三宅一生の仕事が近年ますます注目されている。三宅がつくるものはファッションではなくプロダクトだと、多くの人々が口をそろえて言う。ゆえにファッション業界以外のデザイナーやクリエイターからも熱い視線が注がれるのだ。特に結成から10年以上が経つ「Reality Lab.(リアリティ・ラボ)」は、新たな素材の研究と開発で、未来の社会に一石を投ずる活動で知られている。本展で紹介された「OBI」と「KONBU」もリアリティ・ラボが開発した新作バッグだった。

ギャラリーで紹介されるのだから、ただの新作発表というわけではない。まずネーミングのもととなった帯と利尻昆布が展示され、コンセプトが打ち出される。「OBI」は平面に畳まれたときの形状がまさに帯のように細長く、広げるとトートバッグやバックパックとなる製品だ。熱を加えると硬化する特殊な糸で編んだ布を使うことで、リアリティ・ラボがこれまで築き上げてきた平面から立体への展開を可能にし、またハリや光沢の強弱を生かすことで独特の佇まいをつくり出した。本展がユニークなのは、「デザインの解剖展」を彷彿とさせる手法で、「OBI」の全パーツが標本のようにパネル展示されていたことである。これを見ると、いかにシンプルな構造でありながら、しかし魅力的な造形となるようデザインされているのかがわかる。あわせて、その構造を伝えるイメージ映像や布そのものの展示もあった。

展示風景 21_21 DESIGN SIGHT ギャラリー3[撮影:吉村昌也]

一方、「KONBU」は特殊な複数の細い糸で袋状に編み上げてから、4分の1サイズにまで圧縮し、染色するという独特の製法でつくられたバッグだ。圧縮することで立体的な形状となり、自立するほどの適度な硬さを持ちつつ、滑らかで肌触りが良いのが特徴で、ショルダーバッグやハンドバッグにもなり、二つ折りにすればクラッチにもなる。これの製造工程映像も興味深かったが、何より編み上げたばかりの状態と、4分の1サイズにまで圧縮した状態、染色した状態の実物が並べて展示されていたので、その製造工程がリアルに伝わった。簡略的ではあるが、デザインとは何かということをトップデザイナーが改めて示してくれた機会であった。

展示風景 21_21 DESIGN SIGHT ギャラリー3[撮影:吉村昌也]

公式サイト:http://www.2121designsight.jp/gallery3/obi_konbu/

2019/01/31(杉江あこ)

2019年02月01日号の
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