artscapeレビュー

2023年03月15日号のレビュー/プレビュー

「ワールド・シアター・ラボ」2023 リーディング公演『ロッテルダム』

会期:2023/02/16~2023/02/18

上野ストアハウス[東京都]

男女の友情は成立するか。答えるまでもない馬鹿馬鹿しい問いだ。では「男女の恋愛は成立するか」という問いならばどうだろうか。これが「女性同士の/男性同士の恋愛は成立するか」という問いであればイエスと答えるべきだろう。もちろん、こちらも同じく答えるまでもない馬鹿馬鹿しい問いではあるのだが、同性愛者の権利が十分に保証されていない日本の現状に鑑みれば、わざわざイエスと肯定することにこそ意味があるのだということはそれこそ改めて言うまでもない。同性同士の恋愛が成立する、いや、同性同士でなければ成立しない恋愛があるのだから、「男女の恋愛は成立するか」という問いに対する答えも自ずと明らかである。男女の恋愛は必ずしも成立するとは限らない。

「ワールド・シアター・ラボ」2023 リーディング公演の1本としてイギリスの劇作家ジョン・ブリテンによる『ロッテルダム』が上演された(翻訳:一川華、演出:EMMA[豊永純子])。「ワールド・シアター・ラボ」は「海外で創作された現代戯曲の翻訳と上演を通して、次代を担う翻訳者の紹介・発掘と、私たちが生きる同時代の世界の現実をよりよく理解する視点に触れる機会をつくることを目的とし」て国際演劇協会日本センターが2021年から実施している事業。今回上演された『ロッテルダム』は2015年にロンドンで初演され、2017年には演劇の賞としてイギリスでもっとも権威のあるオーレンス・オリヴィエ賞も受賞している作品だ。


[写真:おおたこうじ]


大晦日の夜。フィオナ(椎木美月)は同棲している恋人のアリス(小黒沙耶)に自分はトランスジェンダー男性だと告白する。アリスは混乱しながらもその事実を受け入れようとするが、それはフィオナと付き合うことでようやくレズビアンであることを認めることができるようになったアリス自身のアイデンティティを再び揺るがす出来事だった。「あなたが男性なら、私は…ストレートになるの?」とアリスは問うがフィオナは「アリスはアリスのままでしょ」と言うばかりだ。


[写真:おおたこうじ]


[写真:おおたこうじ]


セクシュアリティは自ら選択できるものではないが、必ずしも固定化された不変のものというわけでもない。そこには流動性やグラデーションがあり、あるいはフィオナのように女性同性愛者を自認してきた人間が、時とともにトランス男性異性愛者であることを自覚するようになるというケースもある。かつてフィオナの兄・ジョシュ(荻野祐輔)と付き合っていたアリスのように、自分のセクシュアリティを認められずに異性愛者として振る舞おうとする人間も多いだろう。『ロッテルダム』はフィオナの告白をきっかけに変化していく二人と周囲の人々の関係を丁寧に描いていく。

性別移行を決断したフィオナは、エイドリアンという新たな名前で生き始める。それは生まれてきた子供が男だったら両親がつけるつもりだったという名前だ。少しずつ変わっていくエイドリアン。ジョシュとともにそんな「彼」をサポートするアリスだったが、一方でレズビアンを公言する職場の同僚・レラニ(日向みお)と親しくなっていき──。


[写真:おおたこうじ]


登場人物たちはそれぞれの生/性を生きるのに懸命で、その余裕のなさは時に身勝手な振る舞いとなって他人を傷つけてしまう。喧嘩やトラブルの絶えない日々の先に、やがて決定的な瞬間が訪れる。エイドリアンが「パス」(自認する性別として他人から認識されること)したのだ。狂喜するエイドリアンはその勢いのままにアリスに結婚を申し込むが、限界を迎えたアリスは「私はゲイなの」(ここでのゲイは同性愛者を意味する)と別れを切り出す。それでもなお「俺は男で君はストレートなんだよ。君はゲイじゃない」と言い募るエイドリアンに向けられた「変えられないものもあるの、変えたくないものがあるの、だってそれが私の一部だから。それがなんであなたの問題より重要じゃないわけ?」という言葉は痛切だ。

もちろんこれは十分に予想できた結末だ。ジョシュという前例もある。アリスが男と付き合えないことはすでに証明されてしまっている。だが、このジョシュという前例が示唆するのはネガティブな側面だけではないようだ。

一度は別れを告げたアリスだったが、最後の場面では再びエイドリアンの隣にいることを選択する。フィオナでもエイドリアンでもなく「ただあなたが欲しかった」と言うアリス。二人の関係がこの先どうなるかが明示されることはない。ひとつだけ明らかなのは、アリスと別れたジョシュがそれでも親友として「ここに居続けた」ように、アリスもまたエイドリアンの隣で「ここにいる」ことを選んだということだ。男女の恋愛が成立するかどうかはわからないが、少なくとも男女の友情は成立する。それはきっと希望と呼んでいいことだろう。


[写真:おおたこうじ]


今回はリーディング公演ではあったものの、ト書きを読み上げた稲葉歓喜を含めた俳優たちの好演も手伝って、舞台上にはぐっと引きつけられるドラマが立ち上がっていた。本公演の実現にも強く期待したい。


ワールド・シアター・ラボ リーディング公演:https://iti-japan.or.jp/announce/8768/

2023/02/18(土)(山﨑健太)

ヤングムスリムの窓:撮られているのは、確かにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?

会期:2023/02/19~2023/03/04

京都精華大学サテライトスペースDemachi[京都府]

「ヤングムスリムの窓」は、イスラームが専門の研究者、映像作家と、日本に暮らすヤングムスリムたちが、映像制作を通して協働する学際的なアートプロジェクトである。参加した20代のヤングムスリム3名は、イスラーム圏出身の親のもと日本で生まれ育った2世、改宗した日本人と、多様な背景を持つ。本プロジェクトの特徴は、ヤングムスリム3名が当事者それぞれの視点や関心から映像制作を行なうと同時に、その制作プロセスを映像作家がドキュメントし、さらに双方に対して研究者がカメラを向けてインタビューするという、視線の多層的なレイヤーにある。「映像」を介して、映像の専門家と非専門家、異なる文化的背景、立場、世代の者たちの複数の視点が交差する。タイトルが示唆するように、「窓」とは「視線のフレーム」の謂いであり、「撮る視点」と「見る視点」の双方を含む。そこには、「他者」を一方的に視線の対象としてきた文化人類学や、「マジョリティの日本人」自身の視線に対する批評も含まれるだろう。

まず、ヤングムスリム3名が制作した映像作品は、出自や文化的背景に加え、三者三様の個性やキャラの違いが際立つ。長谷川護は、イスラームに改宗した経緯を生い立ちとともにまとめた。東京の下町で銭湯を営む実家で育ち、宗教上の理由で銭湯を利用できないムスリムがいると知ったこと。インドネシアでのホームステイなどムスリムとの交流、大学でのゼミ、断食体験を経ての改宗。メッカへの巡礼で得た共同体意識。プレゼンのようにまとめた資料からも、まじめな人柄がにじみ出る。作品タイトルの《湯けむりの中で》は、日本社会で可視化されにくいムスリムの存在のメタファーでもある。

一方、トルコ人の父と日本人の母を持つエルトゥルール・ユヌスは、「ムスリムあるある」ネタをユーチューバー風でノリの良い映像にまとめた。《仕事中の金曜礼拝》では、都内で会社員生活を送るなか、昼休みを利用してモスクへ寄り、身を清めて礼拝する様子が、実況風に紹介される。当事者、特にこれから社会に出る若者に対しては、生き方のヒントになり、普段ムスリムと関わりのない日本人にとっては、「ムスリムも普通に日常生活を送っている」ことを肩肘張らずに示す。

また、パキスタン出身の両親を持つアフメド・アリアンは、コンサル会社の経営、大学での哲学研究、芸術という「3つの顔」について、自己省察的な映像にまとめた。本人もインタビューで語る通り、「わかりやすくプレゼンする」というより、「自分の根幹を忘れないための、自分自身にとってのしおり」のようなものだという。

このように、写真や文章を交えて展示された3名の映像作品は、「日本社会で不可視化されがちな、ムスリムの日本人」とその多様性を当事者の視点から提示した点で意義がある。ただし、3名とも「20代のムスリム男性」であり、「ムスリム女性の不在」という点で「マイノリティの中でさらに見えにくいマイノリティ」に言及されていないことが惜しまれた。



会場風景


一方、「視線の交差」をメタ的に組み込むのが、映像作家の澤崎賢一によるドキュメント《#まなざしのかたち ヤングムスリムの窓:撮られているのは、確かにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?》である。映像制作中のヤングムスリム3名を撮影・インタビューした映像と、映像や視線についての省察的なナレーションが交互に展開する。ここで重要なのは、「カメラを構えるヤングムスリム」を入れ子状に映すと同時に、「ヤングムスリム自身が撮った映像」も密かに混在している点である。ひとつのポイントが、長谷川の作品に登場していた「メッカの巡礼」の映像に、「撮る/撮られる」についての語りが重なるシーンだ。深夜のメッカ、巡礼者の人混み、広場を取り囲むまばゆい高層ビル群。「カメラを構える私の姿は、現地のメディアに撮影され、レンズの向こう側で好奇の眼差しで見つめられているのかもしれない」と語り手は想像する。



会場風景




澤崎賢一《#まなざしのかたち ヤングムスリムの窓:撮られているのは、確かにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?》(2023) 映像スチル


映像を撮る「私」は、「撮られる」ことで「彼/彼女」という三人称に変換され、レンズや画面の「向こう側」には常に「他者」が存在する。あるいは、「向こう側」という距離感こそが「他者」を発生させてしまう。だが、「向こう側」が存在することさえ想像できないこともある。カメラのフレーム、画面を眼差す視線のフレーム、表象として固定されてしまうことと、外部への通路。「窓」のメタファーもまた、多重的に交錯する。当事者の発信、当事者と研究者とアートの協働、映像それ自体についてのメタ的な考察など、多様な意義をもつプロジェクトだった。なお、今後、プロジェクト全体を記録したドキュメンタリー映画の公開も予定されている。


公式サイト:https://project-yme.net/exhibition2023/

2023/02/19(日)(高嶋慈)

楢橋朝子「春は曙」

会期:2023/02/01~2023/03/18

PGI[東京都]

1989年は昭和から平成へと元号が変わった年である。楢橋朝子は早稲田大学第二文学部を卒業したものの、写真家としての道筋を掴みきれず、「手に職があるようなないような不安定な」状況にあった。それでもこの年、「春は曙」と題する連続個展を3回にわたって開催している。今回のPGIでの展示は、その個展出品作を中心としたもので、当時のネガからあらためてプリントしている。

6×6判と35ミリ判が混在する写真群は、基本的には旅の産物といえるだろう。青森県竜飛岬から沖縄・石垣島に至るまで、その足跡は日本各地に及んでいる。三宅島、御蔵島など、離島の写真も多い。観光名所のような場所はあまり写っていない。風景、看板、モノなどに向けられた視線は、呼吸するように伸び縮みし、視覚よりもむしろ触覚にこだわっている様子が見える。のちに最初の写真集『NU・E』(蒼穹舎、1997)にまとまってくる、楢橋特有の、不定形な生きもののような世界像が、少しずつ形をとり始めている。一人の写真家が、もがきつつその「文体」を作りあげていくプロセスが、個々の写真に刻みつけられているように感じた。

こういう展示を見ていると、揺るぎない作品世界を確立していく前の、むしろどう動いていくかわからないカオス状態の時期の仕事をふり返ることが、重要な意味を持っていることがわかる。もしかすると、この展示をきっかけにして、楢橋自身の写真家としてのあり方もまた、変わっていくのかもしれない。なお、展示にあわせてオシリスから同名の写真集が刊行された。


公式サイト:https://www.pgi.ac/exhibitions/8481

2023/02/20(月)(飯沢耕太郎)

DNPグラフィックデザイン・アーカイブ収蔵作品より 動物会議 緊急大集合!

会期:2023/02/09~2023/03/25

ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]

まさに1年前、ロシアがウクライナに軍事侵攻した翌日、私は奇しくもエーリッヒ・ケストナーとヴァルター・トリアーの絵本『動物会議』を題材にした展覧会を別の美術館で観た。同書は人間が性懲りもなく戦争をしようとすることに対し、あらゆる動物が一致団結して「動物会議」を開き、人間に不戦を要求するというファンタジックかつ崇高な物語である。本展は、同書にインスピレーションを受けて企画された120点余りのポスター展だ。動物を通して生命や環境、戦争、文化、社会に対する問題意識や危機意識を表明した、グラフィックデザイナーやアートディレクター、アーティスト34人によるメッセージ作品が並んだ。


展示風景 ギンザ・グラフィック・ギャラリー1階[撮影:藤塚光政]


そもそもデザインは、人々の暮らしや社会を良くするためにあるべきものだ。ということは、いま、デザインに求められる究極の役割とは、この戦争を止めることではないか。戦争を止めるためのデザインとは何かを考えることは難しいが、せめてそれぞれの分野においてできることから始められるといい。そう考えると、グラフィックデザインにできることは、人々にインパクトのあるメッセージを送り、彼らの心理に効果的に働きかけることではないかと思う。その点で、私は本展を興味深く観覧した。例えばグラフィックデザイナー、新村則人の山口県魚連「百年先の海を考える」ポスターシリーズは、予想外の動物写真とキャッチコピーで見る者の目を引く。またグラフィックデザイナー、U.G.サトーの軽妙なイラストレーションによる「WARNING AGAINST WARMING」や「自然遺産を守ろう」といったポスターは、ユニークで機知に富んでいた。


展示風景 ギンザ・グラフィック・ギャラリー地下1階[撮影:藤塚光政]


最近、私も知ったのだが、戦争は国や人々を滅ぼすだけでなく、地球環境にも深刻なダメージを与えるのだという。戦闘による爆薬や燃料の大量使用、建物や森林、畑の火災、また避難民の大移動などによって二酸化炭素が多量に排出され、地球温暖化をより進めるからだ。動物から見れば、人間はろくなことをしないと思われても仕方がない。国同士のイデオロギーの違いや覇権争いなどに愚かにとらわれるよりも前に、自然と同調しながら生きる動物の目線までいったん下りてみることが人間に問われている。これらのポスターを眺めながら、改めてそう感じた。


公式サイト:https://www.dnpfcp.jp/CGI/gallery/schedule/detail.cgi?l=1&t=1&seq=00000815
ポスターデザイン:永井一正

関連レビュー

どうぶつかいぎ展|杉江あこ:artscapeレビュー(2022年03月15日号)

2023/02/20(月)(杉江あこ)

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仲條正義名作展

会期:2023/02/16~2023/03/30

クリエイションギャラリーG8[東京都]

一昨年に逝去したグラフィックデザイナー、仲條正義への再評価が高まっている。再評価というと、語弊があるのかもしれない。永井一正や田中一光、勝井三雄らと並んで戦後復興期を支えたグラフィックデザイナーとして、彼はこれまでも一定評価を得てきた。ところが、あくまで私感に過ぎないのだが、最近の若い世代の間でも人気が高まっていように感じるのだ。それはなぜだろうと考えてみたところ、たぶんいまのデザイナーにはない独特の作風と感性を彼が持ち合わせているからではないかと思う。


展示風景 クリエイションギャラリーG8


写真やCGを駆使した端正でクールなデザインでもなく、自身の個性を押し殺してクライアントの意向に忠実に沿ったデザインでもない。手描きのイラストや図形もどき、文字を生かした、ある意味「癖のある」表現を一貫してきたのが仲條である。それでいて資生堂の企業文化誌『花椿』のアートディレクションや、資生堂パーラーの一連のパッケージデザイン、東京都現代美術館をはじめとする美術館のロゴデザインなどの仕事を見事にこなし、ファンに長く愛されてきた。長く愛される理由は、いつ見てもハッとした驚きと楽しさにあふれていて、鮮度を失うことがないからである。それは完成された美を疑い、自分をも疑い、既成概念を壊したうえで、つねに新しい表現に挑み続けてきたためか。そんな自由奔放さと確固たる個性、信念を持ったデザイナーは、いまの時代になかなか生まれにくくなっている。


展示風景 クリエイションギャラリーG8


本展では、仲條が手がけたポスターやロゴ、エディトリアル、パッケージデザインの代表作をはじめ、過去の展覧会の出品作品、手描きの印刷原稿が並んだ。それは彼の88年間のデザイナー人生を一望するようでもあった。個人的にツボだったのは、会場の隅々に小さな文字で「仲條語録」が記されていたことだ。「知的に見えるものはダサイ。」「タブーを犯す若い才能が輩出するのは嬉しい。タブーが減って楽になる。」「私の創作衝動には恨みもある。」「アルコールは父、ニコチンは母。」「体調は少し悪い方が良い。」など、ならず者的な顔をどこか見せつつも、思わず笑ってしまうような言葉ばかりである。そんな正直でかしこまらない面を持ち合わせていることも、彼が人々に愛される所以なのだろう。


展示風景 クリエイションギャラリーG8



公式サイト:http://rcc.recruit.co.jp/g8/exhibition/2302/2302.html

2023/02/20(月)(杉江あこ)

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2023年03月15日号の
artscapeレビュー