artscapeレビュー

2023年03月15日号のレビュー/プレビュー

初芝涼子「Consciousness」

会期:2023/02/20~2023/02/25

巷房[東京都]

初めて見る作家の展示だが、とても面白かった。1978年、千葉県生まれの初芝涼子は、桑沢デザイン研究所在学中から写真作品を制作し始め、東京を拠点に活動を続けている。今回は、巷房の3階、地下1階、階段下の3会場を全部使って、意欲的な展示を展開していた。

作品は5つのパートに分かれている。3階の巷房・1には、鯨やイルカなどのフィギュアを空中に浮かせて、「原初的な意識体験」を再現しようとした「Swim」と、抽象画やミニマルアートの作品を黒白印画に置き換える「境界線」が、地下1階の巷房・2には、マッコウクジラの寝ている姿を、フィギュアを使って撮影した「Whale」と、蓮の花を焼いて炭化させたオブジェをモチーフとする「黒の曼荼羅」が出品されていた。また階段下では、「Material」と題して、「黒の曼荼羅」で使った蓮のオブジェによるインスタレーションを試みていた。

作品はゆるやかに重なり合いながらも、それぞれ異なる領域を志向しており、全体としての統一感はそれほどない。だが、初芝自身がこれまで育て上げてきたさまざまな想念が、的確な技術とよく練り上げられた制作のプロセスを経て具現化しており、完成度はとても高い。「Swim」や「Whale」の、夢みがちな子どもに語りかけるようなスタイルは、たとえば写真絵本のようなものに発展していく可能性があるのではないだろうか。カジミール・マレヴィッチ、ドナルド・ジャッド、バーネット・ニューマンらの作品を踏まえた「境界線」も、より広がりのあるシリーズとして展開できそうだ。それらの作品世界が融合することで、さらに思いもよらない「何か」が出現してきそうな予感もする。


公式サイト:https://gallerykobo.web.fc2.com/194512/

2023/02/22(水)(飯沢耕太郎)

木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』

会期:2023/02/22~2023/02/23

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

木ノ下歌舞伎が、書き下ろし台本と演出に岡田利規(チェルフィッチュ)を迎える、初タッグ。『桜姫東文章』は、約200年前に初演された鶴屋南北の代表作のひとつ。ぶっ飛んだストーリーをほぼ原作通りに現代口語で上演。俳優陣も魅力的だ。

物語は、主人公の桜姫、僧の清玄、ワルの色男の釣鐘権助の三角関係を軸に展開する。17年前、稚児の白菊丸との心中に失敗し、自分だけ生き残った清玄のもとに、吉田家の息女・桜姫が尼になるためにやってくる。桜姫の父と弟は何者かに殺され、家宝を奪われた吉田家は存亡の危機にあり、桜姫は生まれつき左手が開かないために婚約を破棄され、出家を望んでいる。しかし清玄が念仏を唱えると手が開き、中から香箱が出てきた。香箱の裏に書かれた「清玄」の文字を見て、清玄は17歳の桜姫が白菊丸の生まれ変わりだと確信する。一方、桜姫の手が開いたことを知った婚約者は、破談を取り消す手紙をよこす。使者の腕に彫られた「釣鐘の刺青」を見て驚く桜姫。かつて屋敷を襲い、自分をレイプした盗賊の腕にも、同じ刺青があったからだ。しかも桜姫は顔も知らないその男に惚れており、同じ刺青を自身の腕にも彫り、密かに出産した子を里子に出していた。出家をやめ、寺で再会した盗賊の釣鐘権助と愛を交わす桜姫。釣鐘権助は逃走し、「清玄」と書かれた香箱が落ちていたため、清玄に疑いがかかる。桜姫への想いで不義密通の濡れ衣をかぶった清玄は、桜姫とともに河原で晒し者になる。清玄は前世の因縁を話して口説くが、桜姫はつれない。




[撮影:前澤秀登](東京公演)



[撮影:前澤秀登](東京公演)


後半、寺を追われ流転の身となった清玄は、香箱を隠し財産と勘違いした元弟子に金目当てで殺される。一方、釣鐘権助と夫婦になるものの、女郎屋に売られた桜姫には、夜ごと清玄の幽霊が出現するため、家に戻されてしまう。家には、かつて里子に出した子どもがめぐりめぐってやってくる。わが子であることを清玄の幽霊から聞く桜姫。そして酔った釣鐘権助の話から、父の殺害と家宝を盗んだ張本人だと知った桜姫は、子どもと釣鐘権助を殺して復讐を遂げる。

心中、輪廻転生、前世の因縁、不具が治る奇跡、三角関係、仇と知らずの恋、家臣たちの忠義、子殺しと復讐……。ネタの過剰投下と複雑な人物関係、(歌舞伎と同様に)清玄/釣鐘権助の1人2役。本公演では「これから演じるシーンを、先に字幕で説明する」という裏技を駆使して約3時間の大作にまとめた。舞台上には、崩れかけた額縁舞台が入れ子状に設置され、出番のない俳優たちが「舞台の端や手前」に寝そべって眺めている。見せ場や立ち回りでは、「紅屋!(ベニヤ?)」「豆腐屋!」といったふざけた屋号に加え、「ポメラニアン!」「ダルメシアン!」といった謎のかけ声が口々に飛ぶ。この「メタな観客の空間」には、衣装ラックや鏡が置かれ、俳優が着替えや水分補給、メイク直しをする「楽屋」でもある。

入れ子状の舞台奥には、「囃子方」の代わりにDJブースがあり、ゆったりしたリズムがどこか不穏さをまとって流れ続ける。抑揚を抑えた平板な発声で、魂が半分抜けた操り人形のような動きをする俳優たちには、「本気で演技してない」感が漂う。あるいは、(初期の)チェルフィッチュを思わせる、「身体の不随意な運動の増幅」が台詞とは無関係に反復され続ける。奥に広がる暗闇を背景に、脱力感と不穏な緊張感が均衡しながら持続する。



[撮影:前澤秀登](東京公演)


木ノ下歌舞伎を主宰する木ノ下裕一は、当日パンフレットで、岡田を脚本・演出に迎えた理由として、次のように述べる。「時に歌舞伎の演目は、ネガティブな側面も内包しています。当時の時代背景に根差した差別やジェンダー観、家父長制や障がい者の描かれ方……(旗揚げから:筆者注)17年経って、それらにも正面から向かい合うべきなんじゃないかと考えました」。本公演で、特にジェンダーと家父長制への批評としてポイントとなるのが、(主人公の桜姫ではなく)「お十」という脇役の女性の演出である。

お十は、長屋の大家業を営む釣鐘権助の間借り人の妻である。捨て子(実は桜姫の子)を養育費目当てで引き取った釣鐘権助は、「乳の出る女を適当にみつくろったから」と言うが、お十は「では、その適当にみつくろわれた、乳の出る女とは誰でしょう?」と観客に向かってメタ的に問いかける。また、幽霊が出て客がつかないからと桜姫が「返品」され、売った20両を返せと迫る女衒に対し、釣鐘権助はお十を身代わりに売る。お十には「抗議の台詞」すら与えられないが、無言のまま、クラッチバッグを持った片手を左右に振りながら、ふらふらと身体を揺さぶり続ける。

そして大きく改変されたラストシーン。「劇中劇の舞台」から一歩前に出た桜姫は、奪い返した家宝をお十に放り投げ、さらにお十が舞台奥へ投げ捨て、「ハレルヤ!」と屋号が飛んで幕となる。釣鐘権助にとっても、奪った家宝は、元武士の落ちぶれた自分が再び這い上がるための拠り所だった。だが、原作とは異なり、桜姫には、家宝を取り戻して「お家再興」を果たすという家父長制的使命感も執着もなく、むしろ投げ捨てるべきものである。「家宝」の正体も、「折り畳まれたただの紙きれ」だ。「父から息子へ、血統の正統性とともに継承される家宝」すなわち家父長制の象徴を、「男の手」から奪い返し、非実体性の暴露とともに放棄すること。男の欲望によってモノのように扱われた女性たちが、最後にささやかな抵抗と連帯を示す。

とまとめたいところだが、本作には、下記の2点で疑問や未消化感が残った。1点目は、桜姫の衣装の扱い方である。すべての俳優が複数の役を演じ分けるため、さまざまなコート、ダウンベスト、スタジャンといった「上着」の着替えで「役の交替」が可視化される。だが、桜姫だけが、「身分の転落」とともに分厚いファーコートを脱ぎ、シースルーのコートに着替え、ラストはそれすら脱いでキャミソール1枚となる。根強い性差別や女性に自己犠牲を強いる家父長制的ジェンダー観に異を唱える本作だが、「ヒロイン(だけ)が衣装を脱いでボディラインを露わにしていく」演出は逆行ではないか。

2点目は、「家宝」と同様、家父長制と密接に関わり、「実体がないもの」として舞台上で表象される「赤ん坊」である。「ただの紙切れ」にすぎない「家宝」と同様、「桜姫の子ども」もまた、「俵型のクッション状の物体」として登場する。ずっと釣鐘権助の手中にあった家宝とは対照的に、「赤ん坊」はほぼすべての主要登場人物の手から手へと手渡されていく。もはや誰の「捨て子」なのかもわからないほど捨てられ続ける赤ん坊。それは、「未婚で産まれ、かつ父親不明の子」が家父長制を内部から脅かす存在であり、システム内部に定位できないことの象徴でもある。家長(父親)が息子に家督を継承させる家父長制の存続は、「婚姻外の男との子どもではない」ことが確実に保証された嫡子を産ませるために、女性(妻・娘)の性を一方的かつ徹底的に管理することにかかっているからだ。

しかし、桜姫は、わが子の父親が判明したとたん、原作通り未練も躊躇もなく、「仇の子(=釣鐘権助の血をひく子)」という理由で子どもを殺す。彼女の行動原理を支えるのは、「子は父親(だけ)の血統を継ぎ、父親に属する所有物である」とする父権的思考である。従って、桜姫は、「家宝」を放棄する身ぶりの一方で、子殺しによって逆説的に家父長制的思考を「延命」させるというジレンマを体現してしまう。「家宝」と「赤ん坊」をともに非実体的に表象することで、『桜姫東文章』のドラマの裏に書き込まれた家父長制に迫った本作だが、「終焉を宣言しつつ(再)回収されてしまう」という深い矛盾が残った。

歌舞伎に限らず、「古典」を現代において上演することは、ジェンダーの問題を避けては通れない。逆に言えば、古典に向き合う意義はまだまだ汲み尽くされてはいない。


公式サイト:https://rohmtheatrekyoto.jp/event/67743/

関連レビュー

木ノ下歌舞伎『糸井版 摂州合邦辻』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年03月01日号)

2023/02/23(木)(高嶋慈)

潜在景色

会期:2022/11/19~2023/03/05

アーツ前橋[群馬県]

本展はコロナ禍もあって、開催が1年延期された。だが、そのことがむしろいい方向に働いたのではないだろうか。時間をかけて準備できたことが、個々の作家たちの出品作にも、展覧会全体のキュレーションにもプラスになったように思えるからだ。アーツ前橋の学芸員、北澤ひろみが企画・構成した本展に参加したのは、石塚元太良、片山真理、下道基行、鈴木のぞみ、西野壮平、村越としやの6名である。それぞれ実績のある作家たちだが、実は彼らのような「中堅作家」の作品をじっくり見ることができる機会は、特に公立の文化施設では意外に少ない。その意味でも、時宜を得た好企画といえるだろう。

石塚元太良はアラスカの石油パイプラインを撮影した旧作に加えて、廃業後に放置されたガソリンスタンドにカメラを向けた新作「GS_」を出品した。石油産業に支えられたモータリゼーションの社会構造が浮かび上がってくる。片山真理は2014、15年にアーツ前橋のレジデンス施設、堅町スタジオに滞在して制作した作品を中心に発表している。現在の彼女の仕事に直接つながる意欲作である。

下道基行は東日本大震災後に集中して撮影した、仮設の「橋」の作品群と、街を散策して得られた情報を参加者が書き記し、それらを重ね合わせて「見えない風景」を浮かび上がらせていく新シリーズを出品していた。鈴木のぞみの出品作は、前橋市内の廃業した理容店の扉、窓、鏡などからの眺めを感光乳剤で定着し、再構築したインスタレーションである。物質と映像の複合体というべきオブジェが、独特の魅力を発していた。

西野壮平は、都市や川をテーマにした旧作のコラージュ作品だけでなく、利根川を撮り下ろした新作を出品した。水面の様子を捉えた抽象的な作品など、新たな画面構成のスタイルを模索している。村越としやは、前橋市内の建物、倉庫、古墳などを撮影した新作「神鳴り、山を赤く染める」を発表した。モノクローム作品だが、潜在意識に浮かび上がる「赤」という色を引き出そうと試みている。

「潜在景色」すなわち「その場所に潜む見えない何か」をとらえるという写真の特性を踏まえた彼らの作品が、皆同じ方向を向いているわけではない。かなりバラバラな印象を与える展示だが、作品が相互に干渉し合うことによって、気持ちのよいハーモニーが生み出されていた。前橋を中心とした群馬県各地を巡る変奏曲という趣もあり、よく練り上げられた展示空間を楽しむことができた。なお、萩原朔太郎が撮影した前橋市内の写真に、それらに共鳴する萩原朔美、吉増剛造、木暮伸也の作品を加えた「萩原朔太郎大全2022 ─朔太郎と写真─」展も、同時期に併催されていた。


公式サイト:https://www.artsmaebashi.jp/?p=17949

2023/02/24(金)(飯沢耕太郎)

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下川晋平「Neon Calligraphy」

会期:2023/02/24~2023/03/12

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

下川晋平は2021年に34歳で夭折した。2020年に銀座ニコンサロンで開催した個展「Neon Calligraphy」が好評で、これからの活躍が期待されていた矢先の急死は、ニコンサロンの選考委員を務めていた筆者にとっても大きな衝撃だった。それから2年余りを経て、下川が師事していた東京綜合写真専門学校校長の伊奈英次をはじめとする関係者の尽力で、遺作集『Neon Calligraphy』(東京綜合写真専門学校出版局)が刊行されることになった。本展はそれにあわせて開催された展覧会である。

「Neon Calligraphy」の被写体になっているのは、イランを中心としたアラブ諸国の商店やホテルなどに掲げられたネオンサインである。イスラム教の世界では、文字を書きあらわすカリグラフィーは「霊魂の幾何学」と称されており、アッラーの言葉を視覚化するという重要な役目を担っている。下川はアラビア語の読み書きができたので、ネオンサインを通じて光と闇、無と有とを併せ持つ大いなる神の存在を顕現しようとしていたことは間違いない。だが同時に、ハンバーガー、レバー、アイスクリームなどのネオンサインも含む本作は、イスラム世界の人々の生の輝きもまた写しとっており、聖と俗とが入り混じる独特の眺めを見ることができた。

このユニークな作品だけでなく、下川はアイスランドや北海道を撮影した、静謐だが力強い風景写真も残している。遺作となったのは、どこか「末期の眼」を感じざるを得ない、故郷の長野県大町近郊のリンゴ園の写真群だった。それらを含めて、彼の作品世界の全体を、さらに大きな規模で辿り直す機会があるといいと思う。写真家というよりは哲学者、あるいは詩人のような雰囲気だったという下川と、その仕事の記憶を、これから先も長く受け継いでいきたいものだ。


公式サイト:https://fugensha.jp/events/230224shimokawa/

2023/02/25(土)(飯沢耕太郎)

鄒楠「帰らない私たち」

会期:2023/02/17~2023/03/02

ソニーイメージングギャラリー銀座[東京都]

鄒楠(すう・なん)は1989年、中国江蘇省に生まれ、2012年に来日して九州産業大学で写真を学んだ。現在は大学院芸術研究科博士後期に在学中である。2022年に「燕郊物語―中国の白血病村」で名取洋之助写真賞奨励賞を受賞するなど、ドキュメンタリー写真の分野で頭角を現わしつつあるが、本展ではより身近なテーマを取り上げている。

33点の写真で紹介されているのは、福岡を中心とした在日中国人たちの生活ぶりである。むろん鄒自身もそのひとりであることはいうまでもない。2020年以来のコロナ禍で入出国が制限されたため、彼らのなかには帰国できなくなる者もあった。だが鄒が撮影した人たちの多くは、あえて「帰らない」ことを選んでいる。在日10年、20年という者もおり、日本に定住して、地域社会に溶け込んで生活しているからだ。写真を見て気づいたのは、一昔前と違って、彼らの多くが、立派な部屋で豊かな暮らしを享受しているように見えることである。在日中国人のライフスタイルの変化を、丁寧に描写したドキュメンタリーともいえるだろう。

鄒は撮影にあたって、被写体となる人たちが「自分自身を演じるようにアレンジ」し、「実生活を再現」してもらったという。つまり非演出のスナップというよりは、鄒の指示によってポーズをとった写真ということだ。とはいえ、そこにわざとらしさはあまり感じられず、演出と自発的な動きのバランスがよく取れていた。家具などのインテリアもしっかりと写し込んでおり、彼らの生活ぶりが浮かび上がるように配慮されている。最初と最後にセルフポートレートをおいた展示構成も、とてもうまくいっていた。何点か、時間をおいて撮影した写真を並置したパートがあったが、さらに撮り続けていけば、より厚みのあるシリーズになっていくのではないだろうか。


公式サイト:https://www.sony.co.jp/united/imaging/gallery/detail/230217/

2023/03/02(木)(飯沢耕太郎)

2023年03月15日号の
artscapeレビュー