artscapeレビュー
キリコ展「mother capture」
2017年03月15日号
会期:2017/02/25~2017/03/25
ギャラリーヤマキファインアート[兵庫県]
会社を辞めてニートになった元夫との関係を綴った《旦那 is ニート》や、売れっ子の舞妓だった祖母の写真を再構成したインスタレーション、その祖母が娘によって介護される光景を「逆転した母娘関係」として介護用監視モニターの画面を切り取った《2回目の愛》。写真家のキリコはこれまで、家族や配偶者といった親密圏の中に身を置き、極めて私的な関係性を見つめながら、女性の生き方や家庭、コミュニケーションのあり方について作品化してきた。
本個展では、自身が不妊治療中であり、母となった友人たちへの複雑な思いが制作の契機になった《mother capture》が映像と写真で発表された。薄く透けるカーテンで仕切られた半個室には、壁に大きく映像がプロジェクションされている。こちらに背を向け、自宅の一室で、光の差す窓辺に向かって座る女性たち。一見、静止画のように動かない彼女たちは、授乳中であることが分かる。ふと髪をかき上げる仕草、わずかに動く赤ん坊の小さな足、風に揺れる窓辺のカーテン。授乳中の女性を背面から捉える固定カメラの記録映像が(無音で)淡々と流れていく。また、この動画から静止画として切り出した写真作品9点が、9人の女性のポートレイトとして展示された。
「授乳」という、母と子の最も親密な身体的コミュニケーションが、撮影者不在の固定カメラによって機械的に切り取られ、しかも背面から撮影されることで、表情や眼差しなど親密さの核心部分が隠されていること。「母子間の愛情に満ちたコミュニケーション」を定点観測的な固定カメラに委ね、「自分自身がその濃密な空間に入れず疎外されていること」を露呈させる手法は、前作の《2回目の愛》とも共通する。(《2回目の愛》では、食事や排泄の介護をする娘を「おかあさん」と呼んで依存するようになった祖母の姿が、介護用モニターの画面を再撮影することによって、ある種の「距離」の介在として表出されていた)。
《mother capture》も同様の手法を採りつつ、「女性像の表象」をめぐるより戦略的な転倒が仕掛けられている。「母子像」は、イコンとして聖化された「聖母子像」を常に内在化させながら、西洋美術における定番モチーフとして生産・消費されてきた(授乳中のマリア像も多数描かれている)。また、「窓辺に佇むポートレイト」も女性の肖像の定番である。キリコは、「母子像」「窓辺の女性像」という女性表象をあえて戦略的に用いつつ、後ろ姿として反転させることで、見る者の眼差しが期待する「最も親密な空間やコミュニケーション」を隠してしまう。クリシェを反転させて「裏側」から撮る、すなわち同性としての視線から眼差すことで逆説的に浮かび上がるのは、孤独さの印象、「背中を見つめる」視線の憧れやそこに辿り着けない焦燥感、手の届かない疎外感だ。またそれは、「母性愛」を「自然」なものとして肯定的に投影する態度を取り払った地点から、再び眼差すことは可能か、という問いをも提起している。
加えて、背景の空間がみな、「プライベートな室内風景(自宅の一室)」で撮影されていることにも留意すべきだろう。「女性の社会進出」がうたわれる一方で、授乳スペースの整備など、社会的なサポートはまだまだ十分とは言い難い。《mother capture》の沈黙の後ろ姿たちは、「なぜ彼女たちがこの限定された場所で撮影されねばならなかったのか」というもうひとつの問いをも喚起している。
2017/02/25(土)(高嶋慈)