artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

吉田重信 展「心ノ虹」

会期:2012/06/02~2012/06/16

Gallery Camellia[東京都]

決して広くはない会場の扉を開けると、床一面が小さな靴でびっしりと埋め尽くされていた。サイズから察するに、おそらく子どもたちが履き古した靴なのだろう。窓ガラスが赤く加工されているため、不穏な空気感が漂っている。おびただしい靴がすべてこちらを向いていたこと、そして空間全体に立ち込めた靴の匂いが、ただならぬ気配によりいっそう拍車をかけていたのだろう。放射能の危機に晒されている子どもたちの姿をおのずと連想してしまうが、それはあくまでも鑑賞者の主観的な判断だとしても、いずれにせよ強く、烈しく、そして痛々しく、鑑賞者の心に訴えかけてくる作品であることはまちがいない。このような情動性は、かつてであれば回避するべき要素だったのかもしれないが、東日本大震災以後の想像力をたくましくして生きざるをえない私たちにとって、それが想像力に効果的に働きかけるという点で、むしろ必要不可欠なアートのひとつなのではないだろうか。

2012/06/14(木)(福住廉)

小島敏男 展

会期:2012/05/30~2012/06/16

a piece of space APS[東京都]

花鳥風月という言葉があるように、これまでの美術は花を特権化してきた。だが、なぜ花ばかりが執拗に描かれる一方で、幹や葉、根は美術家の視線から外されてきたのだろうか。その正確な理由はわからない。だが、例外的な美術家がいないわけではない。小島敏男が木から掘り出しているのは、金木犀の葉。朽ち果てる寸前なのだろうか、どちらかといえば硬質な葉の触感をみごとに表わしている。花ではなく葉を、しかも生命力あふれる若葉ではなく、終わりを控えた葉を形象化した小島の作品は、美術家のやるべき仕事がまだまだ残されていることを如実に物語っていた。

2012/06/14(木)(福住廉)

いくしゅん〈ですよねー〉展

会期:2012/06/01~2012/06/27

LIXILギャラリー[東京都]

きわめて日常的なスナップ写真を壁面はおろか、天井にまで忍ばせ、床に山積みにして見せた写真展。凡庸な日常における決定的瞬間をとらえている点では、梅佳代のような独特の感性を感じさせるが、よくよく見ると、梅佳代にはない要素が強く打ち出されていることに気がついた。それは、暴力的な視点。たとえば自動車事故の現場を映した写真には、直接的な描写こそ避けられているものの、日常にひそむ不吉な暴力を巧みに映し出している。ユーモアのある決定的瞬間や中庸なモチーフを鮮やかな色彩と光でとらえた写真とともに展示されることで、その不穏な空気感がよりいっそう引き立っているところが、なんともおもしろい。

2012/06/07(木)(福住廉)

本橋成一 写真展 屠場

会期:2012/06/06~2012/06/19

銀座ニコンサロン[東京都]

写真家の本橋成一の個展。食肉処理を施す屠場を映したモノクロ写真を展示した。撮影時期が比較的古いからだろうか、あるいは屠殺の現場だけでなく、その労働者たち自身にも肉迫しているからだろうか、本橋の写真には生物を食肉に加工する労働の手つきがたしかに感じ取れる。彼らが使う特殊な道具、空間の粗いマチエール、血液を洗い落とす放水の勢い。ともすると過剰に演出したくなる舞台を、即物的にというより、あくまでも労働の過程に沿って撮影しているのである。むろん、ここには未知の現場を広く知らしめるドキュメンタリーの要素が少なからず含まれているのだろう。ただ、それ以上に写真から強く印象づけられるのは、そのようにして労働の過程を追跡することによって、屠殺という文明社会の陰の一面をなんとかとらえようとしている本橋自身の姿である。彼らの生命を奪い取ることによって私たちの生命を保つこと。できることなら直視したくないこの自然の摂理を、本橋は身をもって目の当たりにしながらシャッターを切った。本橋の写真に現われている凄みは、屠殺という凄惨な現場に由来するというより、むしろその現場に立ち入った本橋自身の心持ちに端を発しているにちがいない。

2012/06/07(木)(福住廉)

第5回東山魁夷記念 日経日本画大賞展

会期:2012/05/19~2012/06/03

上野の森美術館[東京都]

日経新聞社が主催する日本画のコンクール展。入選した30名による作品が展示された。大賞に選出された鴻池朋子や特別賞の三瀬夏之介はともかく、淺井裕介の泥絵まで「日本画」とされると、どうにもこうにも違和感を拭えない。「日本画」の妥当性についてはかねてから議論されてきたが、今日の「日本画」は画題や画材の束縛から完全に解放されたということなのだろうか。そうであれば、油彩であろうとアクリル画であろうと「日本画」になりそうなものだが、そうなっていないということは、やはりどこかで「日本画」の領土を護るための選別が依然としてなされているということなのだろう。その、きわめて人為的な線引きが、いつ、どこで、誰によってなされてきたのか。「日本画」の制度論的研究の今日的な課題はこの点にあるように思う。

2012/05/30(水)(福住廉)