2018年06月15日号
次回7月2日更新予定

artscapeレビュー

2018年06月01日号のレビュー/プレビュー

ベルトラン・ラヴィエ Medley

会期:2018/04/19~2018/09/24

エスパス ルイ・ヴィトン 東京[東京都]

パリのルイ・ヴィトン財団から持ってきたベルトラン・ラヴィエの作品7点を公開。ラヴィエは1980-90年代に既製品を流用したアプロプリエーションアートで注目されたフランスのアーティスト。家電のような既製品を使うことからジェフ・クーンズと混同しがちだが、ジェフくんほどスキャンダラスな生臭さはなく、いい意味でも悪い意味でもフランス流に洗練された、つまりオシャレな印象がある。今回の7点はいずれもよく知られた美術作品やアーティストに関連するもの。

正面の壁にドーンと据えられている《エンプレス・オブ・インディアⅡ》は、フランク・ステラによるV字型を連ねた同名の絵画をネオンに置き換えたもの。ストライプがネオンで表わされているが、だからなんなんだ? 

ブロンズ彫刻の《イボ》は、キュビスムなどに影響を与えたアフリカの木彫を型取りした作品。キュビスムはアフリカ彫刻をモダンアートの文脈に移し替えることで文化搾取したともいえるが、ラヴィエはさらにそれを流用して文脈を変えている。大画面に不規則な波形だけを描いた《ウォルト・ディズニー・プロダクションズ 1947-2013 No.2》は、コミック雑誌に載っていた「現代絵画」を拡大したもの。わけのわからない落書きみたいな線描こそ、漫画家や一般人が認識するモダンアートってわけだ。道路標識に上塗りした《エクスの風景》は、南仏エクスアンプロヴァンスのサント・ヴィクトワール山を描いたもの。サント・ヴィクトワール山といえばセザンヌだが、これはセザンヌとは似ても似つかない記号化された標識になっているのに、タッチだけは標識に似つかわしくない粗塗りという居心地の悪い作品。以上、年代順に4点並べてみたが、近作になるほど意味が重層化しておもしろくなっている。

EMPRESS OF INDIA II、 2005年 Exhibition view of Espace Louis Vuitton Tokyo (2018) (c)Adagp, Paris 2018 Photo: Jeremie Souteyrat / Louis Vuitton



ATOMIUM, DETAIL N°10、2007年 IBO、2008年 Exhibition view of Espace Louis Vuitton Tokyo (2018) (c)Adagp, Paris 2018 Photo: Jeremie Souteyrat / Louis Vuitton




WALT DISNEY PRODUCTIONS 1947-2013 N°2 2013年 Exhibition view of Espace Louis Vuitton Tokyo (2018) (c)Adagp, Paris 2018 Photo: Jeremie Souteyrat / Louis Vuitton

PAYSAGES AIXOIS 、2014年 Exhibition view of Espace Louis Vuitton Tokyo (2018) (c)Adagp, Paris 2018 Photo: Jeremie Souteyrat / Louis Vuitton

BERTRAND LAVIER - MEDLEY Exhibition view of Espace Louis Vuitton Tokyo (2018) (c)Adagp, Paris 2018 Photo: Jeremie Souteyrat / Louis Vuitton

2018/05/05(村田真)

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武本拓也ソロ公演『象を撫でる』

会期:2018/05/05~2018/05/06

SCOOL[東京都]

ほとんど何もない空間に男がひとり立っている。静止と見紛うばかりのゆるやかな動き。張りつめた空気は観客にも感染する。悪魔のしるしや生西康典の作品に俳優として出演してきた俳優・武本拓也によるソロ公演は、舞踏を思わせる緊張感のあるパフォーマンスで始まった。そのさまは自らの内部、あるいは周囲で生じる微細な出来事に集中し、その一つひとつに応答するかのようだ。

実際、終演後に配布された覚書には「舞台空間に向き合う」「建物の外の音を聞く」「空間の思い出」などのタスクを伴った八つのシーンから作品が構成されていたことが記されている。しかしもちろん、それらが観客に正確に知覚されることはない。見えるのは、極度に集中した武本の身体それだけである。

だが、小駒豪による照明がそこにもうひとつのレイヤーを追加する。舞台奥の壁に向き合い、ゆっくりと歩み寄る武本。白い壁に映し出された複数の影は歩むにつれて武本自身へと凝集していき、壁への到達と時を同じくしてその身体と重なりあう。すると次の瞬間、照明が転じ、武本自身もまた影と化す。

武本はSCOOLの真っ白な空間で、周囲の音や気配、自らの内部で生じる感覚を探り当てようとする。その試みから生まれる身体の動きが状況を変化させ、新たな知覚を生じさせる。それらはすぐそばにありながら容易にはつかめないという意味で影に似ている。つかもうと伸ばす手の動きは、影の形を変えてしまう。武本と影との関係も時々刻々と変わっていく。足元に控えめに存在していた影は、気づけば武本以上の存在感を主張している。武本自身が影へと転じる瞬間には内と外とがひっくり返るような感覚があった。知覚と動作を往復し、両者が渾然一体となるところに武本の身体があり、その輪郭を揺らしている。知覚=イメージ=像の探求は、武本自身を半ばイメージの側へと引きずりこむ。見ること、いること、感じること。観客もまたその分かちがたさを身をもって体感する。

[撮影:研壁秀俊]

公式サイト:http://scool.jp/event/20180505/

2018/05/05(山﨑健太)

戦後美術の現在形 池田龍雄展—楕円幻想

会期:2018/04/26~2018/06/17

練馬区立美術館[東京都]

今年の終戦記念日に90歳を迎える池田龍雄の回顧展。今日は連休最終日の日曜の真っ昼間だっちゅーのに、館内はガラ空きで見やすいったらありゃしない。展示は、戦争に関連した作品を集めた第0章「終わらない戦後」から始まり、1950-60年代の政治色の強いルポルタージュ絵画が中心の第1章「芸術と政治の狭間で」と、第2章「挫折のあとさき」、オブジェ、パフォーマンス、ポスターなど現代美術に接近した60-70年代の第3章「越境、交流、応答、そして行為の方へ」、科学および仏教的世界観に触発された第4章「楕円と梵」、そして90年代以降の旺盛な制作を紹介する第5章「池田龍雄の現在形」までの6章立て。

あらかじめミもフタもないことをいってしまうと、第0章が一番おもしろく、章が進むにつれ退屈になる。比較するのもなんだが、これは先週、栃木で見た「国吉康雄と清水登之」展の逆で、要するに戦争がいつ、どれだけ作者に関与したかの問題だ。国吉と清水が戦争に関与したのは人生の終わりのほうで、だから展覧会も終盤に近づくにつれ盛り上がっていくのだが、池田はその出発点で特攻隊員の訓練を受けるというのっぴきならない体験をしてしまったため、それを超える主題が見つからないままずっと引きずってきたわけだ。もうひとつ余計な比較をすると、2週間前に見た池田と同年生まれ(1928年)のベルナール・ビュフェも、やはり戦後まもない時期に光り輝いたものの、時代が平和になるにつれ芸術的には後退していく。池田の場合ビュフェと違って技法やスタイルを次々と変えてきたが、それでも作品の成熟度が増していくのに反比例してインパクトが薄まっていく感は否めない。

同展で一番インパクトがあったのは、第0章の1954年に描かれた《僕らを傷つけたもの 1945年の記憶》という作品。画面右上に飛び去る戦闘機、下にはたくさんの日本人が倒れている図で、1人は空に向かって竹槍を突いている。「敗戦記録画」と呼ぶにふさわしい絵だ。同じ0章の最後には、若い女性を写実的に描いた《ポートレート(きぬこすり)》がポツンと展示されているが、これは朝鮮戦争に出撃する米軍兵士の土産物として描かれたもの。「きぬこすり」というのは絹地に絵具をこすりつけてリアル感を出したからだろう。かつて五姓田芳柳らが、横浜に来航した外国人の土産物として描いた「横浜絵」を思い出す。どちらも金稼ぎのためというから、日本の画家はいざとなれば昨日の敵を相手に商売していたわけだ。

蛇足だが、出品目録を見てひとつ気になったのは、60年代までの作品の大半は全国の国公立美術館にコレクションされているのに、70年以降の作品はほとんどが作家蔵となっていること。売れる売れないの問題なのか、それとも作者が寄贈しているのか。買ってやれよ。

2018/05/06(村田真)

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佐藤卓展 MASS

会期:2018/04/30~2018/05/12

巷房[東京都]

大量生産品のパッケージやブランドロゴなどを数多く手がけているグラフィックデザイナーの佐藤卓。大量生産品のデザインに携わる身として、それがどのような成り立ちであるのかに関心を持ったことが、佐藤が2001年に「デザインの解剖」プロジェクトを始めたきっかけである。誰もが知っている大量生産品を取り上げ、それを外側から内側に向かってデザインの視点で解剖する。その一貫した姿勢でプロジェクトを継続し、2016〜2017年には21_21 DESIGN SIGHTで「デザインの解剖展」を開くまでに至った。

本展はその精神を引き継いだ個展であった。MASSは「大量」を意味する。私たちの生活はあらゆる大量生産品に囲まれ、その恩恵を受けて生きている。しかし大量生産品へのありがたみはほとんどなく、逆に環境破壊などの観点から悪者扱いまでされている。一方で、大量生産ではない工芸品へのありがたみが増している皮肉な状況でもある。佐藤はそうした傾向を敏感に捉える。

本展の会場は2フロアに分かれていた。まず3階には巨大化したチューブの口の模型が壁にいくつも並んでいた。赤や緑など鮮やかな色のチューブの口から、ペースト状らしき物体がにゅるりと出ている。いずれも出始めの瞬間を捉えた模型なのだが、出方がそれぞれ微妙に異なる。先が尖っていたり、丸まっていたり、極端に垂れ下がっていたり……。さらに地下に移動すると、チューブの正体が現れる。それは巨大化した歯磨き粉らしきものだった。さらに奥には巨大化した水滴? ここは洗面所なのか……私は小人のような気分になる。対象物を巨大化することや精巧に再現することへのこだわりは、佐藤は「デザインの解剖展」でも徹底していた。そうすることで、普段は見過ごしている点に改めて気づくきっかけになるからだという。例えばチューブの歯磨き粉が生活のなかに当たり前にあるありがたみに、私たちは気づいていない。チューブの腹を指で押せば、必要な分だけにゅるりと出てきて、キャップを閉めれば、衛生的に歯磨き粉を保存することができるありがたみを。

3階に展示されたチューブの口を観て、私はもうひとつ別のものを連想した。それは工場だ。かつて「デザインの解剖展」の制作準備のため、佐藤や他のスタッフとともに工場見学へ赴いた際、巨大な鋼管の口から製造過程の食品が目にも止まらぬスピードで出てきていたことを思い出した。徹底的に品質管理された工場があってこそ、私たちの手元には大量生産品が当たり前のように届く。その当たり前のすごさを、佐藤はチューブを介して伝えたかったのだと思う。

展示風景 巷房3階[撮影:SATOSHI ASAKAWA]

展示風景 巷房地下1階[撮影:SATOSHI ASAKAWA]

公式ページ:http://gallerykobo.web.fc2.com/194512/index.html

2018/05/08(杉江あこ)

生誕150年 湯浅一郎

会期:2018/04/28~2018/06/17

群馬県立近代美術館[群馬県]

日本の近代美術史上とりたてて重要でも有名でもない湯浅一郎に興味を持ったのは、代表作のひとつである《画室》が妙にフェルメールを連想させたからだ。《画室》は左から光の差すアトリエに片肌脱いだ女性が台にもたれている場面を描いた大作。最初に発表したときに裸体表現が問題になり、乳房が見えないように修正したという。それはともかく、アトリエという設定、若い女性モデル、石膏像、テーブル、カーテンなどのモチーフがフェルメールの《絵画芸術》とよく似ているのだ。《絵画芸術》だけでない。片脚を上げた女性のポーズや背後の画中画などは《信仰の寓意》にも似ている。もちろん2作品ともフェルメールには珍しい寓意画であり、外光派の湯浅作品とは漂う空気がまったく違うのだが、部分的に見ると意外な共通点があるのだ。そう思って10年前に館林美術館まで見に行ったことがあるが、今回は生誕150年展(横山大観と同じ)なので、より多くの作品がまとめて見られるはず。

ということで在来線でやってきました。ここを訪れるのはもう20年ぶりくらいだろうか、高崎郊外の公園に建つ美術館は閑散としていて気分がいい。湯浅は群馬県出身なので、遺族が全作品を寄贈したという。だから湯浅作品はここでしか見られないのだ。今回は初期から晩年まで油彩を中心に118点の展示。フェルメールに似ているのは《画室》だけではない。たとえば《立葵》の白いほっかむりをした女性は《水指を持つ女》に、チラシにも使われた《パリのアトリエにて》の居眠りする女性は《眠る女》に、《聖徳記念絵画館壁画下絵(赤十字社総会行啓)》のパースを強調した構図は《音楽の稽古》に、《刺繍する人》は《レースを編む女》によく似ている。しかもある時期だけ似通ったというのでなく、初期から晩年までまんべんなく似ているのだ。ヒマな人は見比べてほしい。

湯浅はフェルメールを知っていたのだろうか。彼は明治後期にヨーロッパに留学しているが、スペインでベラスケスの模写はしたものの、フェルメールの模写はないし、見た形跡もない(余談だが、ベラスケスの模写がどれも原画に比べて暗いのは、原画が洗浄されていなかったのか、それとも湯浅作品が黒ずんだからか)。そもそもこの時代、フェルメール作品はまだ美術館で公開されているものは少なかったし、おそらく湯浅も意識していなかっただろう。第一そのころ湯浅はすでに30代後半になっていた。だからたまたま似てしまっただけなのかもしれないけれど、それにしても類似例が多すぎる。おそらく似た理由は、画面を構成するときのクセにあるのではないか。室内画の場合、フェルメールも湯浅も奥の壁面を描くとき画面に平行に設定することが多い。つまり消失点を画面中央に置く。そうすると壁と壁、壁と天井の境界線が垂直・水平になり、幾何学的な画面構成がつくりやすい。湯浅の模写したベラスケスの《ラス・メニナス》もそうだ。要するに画家としての好み、気質の問題であり、それがなんとなく似てしまう最大の理由かもしれない。

2018/05/11(村田真)

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