artscapeレビュー
快快『へんしん(仮)』
2014年06月01日号
会期:2014/05/09~2014/05/19
こまばアゴラ劇場[東京都]
篠田千明が在籍していた時期よりはそのトーンが抑えられているとはいえ、快快とは「つながり」の演劇を志向する劇団である。確かに、今作でも、上演前にお菓子が振る舞われたり、とくにぼくの見たのが子どもの観客を歓迎する回だったこともあって、子どもが舞台上の役者に話しかけたり、ものを放り投げたり投げ返したりするなど、客席と舞台とがインタラクティヴな関係を保っていたのは事実。けれども、舞台で展開されるお話は、そうした打ち解けた空気とはちょっと異質な、絶望や諦念がベースに漂うものだった。冒頭、女(大道寺梨乃)が語るのは、いまの自分に合った新しい洋服を買いたいとの思い、そしてそれが叶った直後に車に轢かれてしまったという話。次に男(山崎皓司)は、自分は同時にあらゆる存在であり得るのだと言い、しかも、床に水たまりをつくるおもらしをすれば、犬の遠吠えをはじめたりもする。タイトルの「へんしん(仮)」が暗示していると思われる、「変身の可能性」を無邪気に信じられないといった雰囲気が、細切れで連なったエピソードのなかから伝わってくる。何者にもなれるのが役者というものである。でも同時に役者は何者でもない。そんなメタ演劇的なメッセージも読みとれそうだ。ヴォードビルショーのような空間で、役者たちは踊ったり、コミカルなシーンをこしらえる。山崎が迫真の演技でゴリラになれば、観客は盛り上がる。自分たちが狙ったはずの変身の効果に、自分たちが戸惑ってしまう、そんなニュアンスが感じられると、どこまでも虚しさが消えない。変身は「死」を通過する。死を通過した再生。『りんご』という作品で取り上げられた「死」のテーマが、本作にも影を落としているように思われた。舞踏はこの死を通過する変身を扱ってきた。快快が死を通してつながる可能性を模索することもあるのだろうか。少なくとも彼らがいま触れているのは、そうした人間の暗黒部分ではないのか。
2014/05/11(日)(木村覚)