2024年03月01日号
次回3月18日更新予定

artscapeレビュー

2016年04月01日号のレビュー/プレビュー

群馬NOMOグループの全貌──1960年代、「変わったヤツら」の前衛美術

会期:2016/01/16~2016/03/21

群馬県立近代美術館[群馬県]

近年、60年代の前衛美術運動を検証する企画展が相次いでいる。「佐々木耕成展:全肯定/OK. PERFECT. YES.」(3331 Arts Chiyoda、2010)をはじめ、「ハイレッド・センター:『直接行動』の軌跡」(名古屋市美術館、渋谷区立松濤美術館、2013-2014)、「九州派展:戦後の福岡で産声を上げた、奇跡の前衛集団。その歴史を再訪する」(福岡市美術館、2015-2016)などは、60年代の前衛美術運動を歴史化するうえで大きな功績を果たした。
本展は戦後の群馬で活躍した前衛美術運動「群馬NOMOグループ」(1963-1969)の全容に迫った企画展。同館学芸員の田中龍也が、いくつかの先行研究を引き継ぎながら、緻密で粘り強い調査によって、その活動の実態を克明に解き明かした。その充実した成果は本展の図録で公表されているが、会場ではメンバーによる作品80点あまりと関連資料が展示された。
「群馬NOMOグループ」の特徴は、主に3点ある。
第一に、メンバーがおおむね絵画を志向していたこと。前橋駅前のやまだや画廊における「’63年新人展」は「NOMO」が誕生する契機となったグループ展だが、これに参加した砂盃富男、角田仁一、田島弘章、藤森勝次、田中祥雄は、いずれも「前橋洋画クラブ」のメンバーであり、ともに絵画を制作する仲間だった。1965年、前橋市の群馬県スポーツセンターで催された「第1回群馬アンデパンダン展」に参加した「NOMO」メンバーの作品も、砂盃富男がいくつかの平面作品を組み合わせることで小部屋を構成したとはいえ、ほとんどが壁面に展示する絵画だった。逆に言えば、「NOMO」は読売アンデパンダン展に端を発する反芸術パフォーマンスには一切手をつけなかったのである。このように、あくまでも絵画を追究する志向性は、九州派であれハイレッド・センターであれゼロ次元であれ、肉体による行為芸術を大々的に展開した60年代の前衛美術運動の趨勢にあって、「NOMO」ならではの独自性と言っていい。
第二に、その絵画の形式的な面において、絵画による社会への直接的な介入を志したこと。1966年8月7日、前橋ビル商店街で催された「シャッターにえがく15人の画家たち」は、日曜の休業日のため下ろされた各店舗のシャッターに、「NOMO」と東京から応援に駆けつけた佐々木耕成をはじめとする「ジャックの会」のメンバーたちが、それぞれ絵を描くというプロジェクトだった。「ジャックの会」は前橋駅から会場までの道中で、当時彼らが「ジャッキング」と自称していたハプニングを繰り広げたが、このプロジェクトの狙いはあくまでもシャッターに絵を描くことで絵画を一般庶民に直接的に届けることにあった。「NOMO」はアトリエで絵画を制作して画廊で発表するという従来の制度に飽き足らず、より直接的に絵画を社会に認知させるためにこそ、シャッターという新たな支持体を選び取り、画家と一般庶民とを結びつける新たな制度を構想したのだ。残念ながら、それが新たな制度として成熟にするにはいたらなかったが、絵画という美術の制度を維持しながら、美術と社会の新たな関係性のありようを提起した点から言えば、「NOMO」を今日の地域社会で繰り広げられているアートプロジェクトに先駆ける事例として位置づけることもできよう。
第三に、その絵画の内容的な面において、「NOMO」のメンバーが描く絵画には、アンフォルメルの影響がさほど見受けられないこと。なかには黒一色でマチエールを固めた砂盃富男のアンフォルメル風の絵画もないわけではない。けれども全体的にはイメージの再現性や物質の質感、あるいは日常的な事物との連続性を強調したような絵画が多い。紙に手足を生やしたような異形のイメージを描いた金子英彦の絵画は、例えば桂ゆきのように、明確なフォルムをユーモラスな感性で描き出すことが強く意識されているし、支持体としたアルミニウム板の上にワイヤーブラシを配列した加藤アキラの絵画にしても、強調されているのは無機質で幾何学的な規則性であり、フォルムを突き破るほどの激烈な個性やほとばしる激情などは一切見られない。むしろ自動車整備工として日々労働していた日常と切れ目なく接続している点で言えば、加藤の絵画はポップ・アートに近いのかもしれない。

絵画への拘泥と反芸術パフォーマンスからの距離感。おそらく「NOMO」を60年代の前衛美術運動の歴史のなかに同定することの難しさは、この点にある。だが、反芸術パフォーマンスに回収されえないからと言って、「NOMO」は60年代前衛美術運動の例外として否定的にとらえられるべきではない。なぜなら60年代前衛美術運動の周縁にあったとしても、見方を変えれば、ある種の根源的な底流に触れた運動として肯定的に理解することもできなくはないからだ。例えば前述した桂ゆきや中村宏らは、60年代前衛美術運動の熱気のさなかにあって、「NOMO」と同じように、反芸術パフォーマンスとは一線を画しつつ、絵画の制作を続けていた。彼らはいずれも肉体表現を極限化させたがゆえに自滅せざるをえなかったラディカリズムとは無縁であり、ただおのれの絵画意識を追究してきたという点で言えば、ある種の保守主義として考えられなくもないが、同時に、決して批判的な社会意識を隠していたわけでもなかったので、純粋を自称する審美的なアトリエ派というわけでもない。このような類稀な特質をもつ画家たちは、運動と様式に基づいて語られがちな現在の美術史のプロトコルによっては、明確な歴史的系譜として描き出されることがほとんどない。本展における「NOMO」の出現は、そのようないまだ命名されていない、ある種の批判的な絵画の系譜を歴史化するための第一歩として評価したい。

2016/02/04(木)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00033756.json s 10121414

三軒茶屋 三角地帯 考現学

会期:2016/01/30~2016/02/28

世田谷文化生活情報センター 生活工房[東京都]

世田谷通りと国道246号線に挟まれた三軒茶屋のデルタ地帯、通称・三角地帯。極小の飲食店やアーケード商店街、銭湯などがひしめき、それらのあいだを細かい路地が縫うように走っている。再開発が進められている周囲の街並みとは対照的に、この一帯だけ昭和で時間が止まったかのようだ。
本展は、この「三角地帯」をフィールドにした考現学的調査の結果を報告したもの。考現学とは、今和次郎らによって実践された都市風俗の観察と記録の活動で、それらの結果を手書きのイラストレーションや図表、テキストによってレポートした。本展もまた、そのようなメディアを用いている点では考現学と変わらない。けれども考現学と大きく異なっているのは、その調査のテーマ。通行人の歩行経路をはじめ、呑み屋で提供されるビールの銘柄やお通しの種別、スナックで歌われるカラオケの曲目など、それらの大半は知られざる呑み屋街の生態を解き明かすものだ。その点では、入りにくい居酒屋の内側にテレビカメラを向ける「街レポ」に近い。あるいは、それらの調査が調査主体の経験に裏づけられている点で言えば、「考現学」というより、むしろ「体験記」というほうが適切かもしれない。三角地帯の中だけでタオルや下着などを調達して千代の湯に入る、しまおまほによるテキストも、まぎれもなく「体験記」である。
だが、今和次郎らによる考現学は明らかに「体験記」ではなかったし、「街レポ」でもなかった。それは、こう言ってよければ、きわめて変態的な調査だった。丸の内のOLが昼休みにどのように行動するのか、彼女たちを尾行して経路を記録したり、井の頭公園での自殺者の分布図を整理したり、考現学の特徴は観察と記録よりもむしろ調査の主題の独自性にあった。平たく言えば、誰も見向きもしないような主題を馬鹿正直に追究することによって都市風俗の生々しい一面を浮き彫りにするところに考現学の真髄があったのだ。
「考現学」を冠した本展は、そのような意味での変態性に乏しく、きわめて常識的であり、それゆえ考現学が持ちえていた芸術性を見出すことはできなかった。おそらくテレビや雑誌などのマスメディアで消費されるコンテンツとしては十分なのだろうが、それは芸術的な価値とは本来的に関係がない。

2016/02/22(月)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00034381.json s 10121415

グイド・ヴァン・デル・ウェルヴェ個展 killing time|無為の境地

会期:2016/02/20~2016/03/21

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

オランダ出身で、現在はハッシ(フィンランド)、ベルリン、アムステルダムを拠点に活動するグイド・ヴァン・デル・ウェルヴェ。彼の作品の特徴は、自らが行なったパフォーマンスの記録を元に映像作品を制作することだ。また、作品に自作の楽曲を用いることもある。例えば《第14番「郷愁」》では、音楽家のショパンを題材に、ワルシャワの聖十字架教会からパリのペール・ラシューズ墓地までトライアスロンで走破した。ほかにも、凍った海の上で砕氷船の直前を歩く《第8番「心配しなくても大丈夫」》や、北極点に立ち24時間かけて地球の自転と逆に回転する《第9番「世界と一緒に回らなかった日」》といった作品がある。本展では、過去10年間の作品から7点を選んで展示した。なかには日本人には理解し難いユーモア感覚の作品もあり、とまどったが、それも含めて貴重な機会だった。美術大学が運営し、アートセンター的な活動も行なう京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAならではの企画と言えるだろう。

2016/02/23(火)(小吹隆文)

artscapeレビュー /relation/e_00034015.json s 10121377

マルモッタン・モネ美術館所蔵:モネ展「印象、日の出」から「睡蓮」まで

会期:2016/03/01~2016/05/08

京都市美術館[京都府]

クロード・モネの《印象、日の出》から《睡蓮》まで、彼の1870年代から1920年代にわたる画業を示す作品群を紹介する展覧会。家族の肖像画、若き日の諷刺画、モネ自身が収集した作品(ドラクロワ、ブーダン、印象派の作家たち等)等を含む、約90点が展示されている。モネが白内障を患ったのち、晩年の作品が多く出展されているのも本展の特徴。しかし見どころはなんといっても特別出品の《印象、日の出》(1872年)、印象派命名の由来となった作品だ。画集等でいままで何度も見てきた作品だが、印刷物媒体で複製化される同作品と異なる。それこそその「印象」の違いにあっと驚かされる。実物の色・筆触・構図といい、扱われるモチーフの近代性が表出するさまといい、まるで新しく作品に出会ったような感慨を覚える。薄暗い会場に浮かび上がる、色彩が精妙でクリアな同作品を鑑賞していると、液晶絵画という言葉がしきりに思い浮かんだ。なんとも新鮮な視覚体験であった。[竹内有子]

2016/03/01(火)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00034283.json s 10121347

美術は語られる─評論家・中原佑介の眼─

会期:2016/02/11~2016/04/10

DIC川村記念美術館[千葉県]

美術評論家の眼から60~70年代の戦後美術を振り返った展覧会。美術評論家の中原佑介(1931-2011)が雑誌や書籍、展覧会の図録、リーフレットなどに書いた美術批評と、中原が私蔵していた作品に同館のコレクションをあわせた約40点とが、併せて展示された。比較的小規模な展示とはいえ、良質の企画展である。
展示されたのは、中原が評価していた池田龍雄、オノサト・トシノブ、河原温、高松次郎、山口勝弘、李禹煥らによる作品。クレス・オルデンバーグやピエロ・マンゾーニ、クリストら欧米諸国のアーティストによる作品もないわけではないが、大半は国内の美術家であるため、おのずと日本の戦後美術史を部分的になぞるような経験を得ることができる。美術批評が作品と同伴していた時代のリアリティばかりか、双方が協働することで歴史が構築されてきた過程を目の当たりにするのだ。
しかし本展の最大の見どころは、そのような歴史的な珠玉の名品ではない。それはコンスタンティン・ブランクーシの全作品を形態的かつ系統的に分類して図表化した《ブランクーシ研究メモ》(1977頃)である。なぜなら、それは本展のなかでもっとも明瞭かつ濃厚に中原佑介の「眼」を体現していたように思われるからだ。
縦軸で時系列、横軸で作品の種別を表わしており、双方が交錯する升目に作品のイメージがすべて手書きで描きこまれている。例えば《接吻》や《空間の鳥》、《無限柱》といったブランクーシの代表的なシリーズが、いつ、どのような流れで制作されたのか、一目で理解できるようになっている。よく見ると、随所に原稿用紙の升目が透けて見えるから、原稿の裏紙を再利用したのかもしれない。
通常、このようなメモは参考資料として二次的に取り扱われることが多い。美術批評にとってのエルゴンがテキストであるとすれば、それらを作成するために用いられたメモ類はパレルゴンである。事実、この《ブランクーシ研究メモ》は雑誌に部分的に使用されたものの、その後刊行された単行本『ブランクーシ』(美術出版社、1986)には掲載されなかった。絵画にとっての額縁がそうであるように、美術批評にとってのメモは副次的な表象にすぎないというわけだ。
だが中原によって丁寧に描かれた図表には、エルゴンとパレルゴンの関係性を相対化するほどの大きな魅力が備わっているように思えてならない。緻密な筆致からブランクーシへ注がれた深い敬愛の情を読み取れないわけではないが、それ以上に伝わってくるのは、一枚の紙片に凝縮した中原の批評的な関心そのものである。言い換えれば、中原佑介の批評的なまなざしが、書物に連ねられた文字の羅列とは別のかたちで、紙という物質に定着しているように見えるのだ。それはメモであることに変わりはないが、もはやテキストに奉仕する義務から解放されているようだ。ちょうど今和次郎による考現学的なイラストレーションが、テキストのための図表というより、それ自体に自立した価値を含んでいることに近いのかもしれない。
《ブランクーシ研究メモ》は、私たちが思っている以上に、美術の語られ方が自由であり、豊かであることを示唆している。美術は批評家によって語られるだけではないし、誰によって語られるにせよ、その語り口は多様であり、しかもそのメディアも言語に限られているわけでもない。すなわち、美術はいかようにも語られうる。中原佑介は、意識的にか無意識的にかはともかく、「美術」という言葉の先に、そのような豊穣な地平をまなざしていたのではないだろうか。

2016/03/01(火)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00033962.json s 10121416

2016年04月01日号の
artscapeレビュー

文字の大きさ