artscapeレビュー
天覧美術/ART with Emperor
2020年06月15日号
会期:2020/05/22~2020/05/31
KUNST ARZT[京都府]
アーティストの岡本光博はこれまで、「美術ペニス」展(2013)、「モノグラム美術」展(2014)、「ディズニー美術」展(2015)、「フクシマ美術」展(2016)などのキュレーションを、自身が主宰するKUNST ARZTにて手がけ、表現と検閲、タブー、複製・引用と著作権の問題についてユーモアを交えながら問うてきた。岡本は本展で、天皇制をテーマに設定。本評では、あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」に岡本と同じく出品した小泉明郎、そして木村了子の3作品について、「可視化/消去」を軸に分析し、本展の射程を明らかにする。
日本画家、木村了子の《菊福図》(2009)は、「菊の御紋」と「菊門」という二重の「タブー」を重ね合わせ、去勢された政治的タブーに私秘的な性愛図のリビドーを注ぎ込んで相殺させるインパクトが目を引く。だが、天皇制と美術の関係を扱う本展の導入として重要なのは、青年期の平成天皇を「理想化された美青年」として御真影風に描いた《菊の皇子様》(2020)である(御真影と同様、「礼拝対象」として、鑑賞者が仰ぎ見る高い位置に展示されている)。展覧会タイトルの「天覧」は「天皇が観覧すること」の意味だが、近代以前は「神聖で不可侵の禁域」として秘匿された天皇像は、明治期の近代国民国家の形成過程で、ナショナルアイデンティティの形成と浸透の視覚的手段として、肖像写真や肖像画によって「見られる対象」として可視化されていく。そうした御真影は、「記録性や写実性が高い」とされる欧米輸入の媒体で制作されたが、ナショナルアイデンティティの象徴を「伝統的でよりふさわしい」日本画で描き直す木村の作品は、一種のパロディとしての「回復」であることに加え、ジェンダーの表象と家父長制についての問題提起の射程をもつ。木村はこれまで、美麗で官能性を湛えた男性像を描くことで、「美人画」が内包するジェンダーと欲望の視線の非対称性を批評的に反転させてきた。《菊の皇子様》もまた、(女性からの異性愛的視点で見た)「美的な対象」として描くことで、ジェンダーと表象をめぐる別の政治的闘争の領域に投げ込んでいく。(皇后とのセットや「天皇ご一家」の写真表象により)「近代家族」の規範や家父長制イデオロギーの体現としても機能し、「父(男系継承の、臣民=赤子にとっての)」たる存在であることを体現する天皇像は、美的対象化を被ることで、そうした権威性を脱臼され、解除されていくのだ。
岡本光博の出品作《r#282 表現の自由の机 2》(2020)は、韓国の済州島に設置された「平和の少女像」の左肩にとまる小鳥を、監視カメラが見張るなか、3Dスキャンで型取りし、実物大のブロンズ像として「複製」したものを、鳥かごに閉じ込めた作品である。3Dスキャナーを構えた岡本が、少女像と対峙する制作風景の写真も添えられる。鳥かごに閉じ込められた「自由」の象徴は、不自由展の炎上・攻撃と中止に対するストレートな批判的応答だが、本作の問題提起はそれだけにとどまらない。少女像に近づく者が「監視」されることに抗するように、スキャンする視線を向け返すことで、視線の非対称性を反転させること。また、「少女像の(一部分の)複製」を通して、デジタル・ファブリケーションの普及と著作権の問題に言及するとともに、少女像が韓国各地やサンフランシスコなど国外にも複数体設置され、ミニチュアも含めて「複製」され続けている事態のパロディともとれる。「複製」の「複製」──だが、小鳥がとまるべき少女像の「本体」が不在であることは、なぜ「ここ・日本にない」のか? 何によって抹消させられたのか? という問いを突きつけ、歴史修正主義による消去という日本の文脈についても示唆する。
一方、小泉明郎は、自身の幼少期のトラウマと、戦後日本が抱え続けるトラウマを重ね合わせた映像作品《Rite for a Dream II(with countless stones in your mouth)》(2017)を出品。「父が連れ去られる悪夢」の原因になったという、特撮ヒーローのテレビドラマの恐怖を煽るシーンをコラージュした映像に、平成天皇の「即位礼正殿の儀」のニュース中継の音声が重ねられる。映像は、悪を倒す正義のヒーローという「中心」を欠いたまま、トラウマ的な恐怖シーンが延々と継ぎはぎされていく。爆発や火災、火だるまの人間、皮膚が溶けたりカビのような胞子で覆われた人体、手術や実験、垂れる血のり、気持ち悪い虫……。これらは何のトラウマなのか? ラストでは、「天皇陛下万歳!」の音声に合わせて、姿の見えない敵に襲われた人々や子どもがバタバタと倒れ、爆発や炎上シーンが畳みかけるように連続し、沖縄やサイパンでの集団自決や手榴弾での玉砕を想起させる。それは、戦後日本が「戦争」の負債を清算できないまま抱える、悪夢のようなトラウマティックな反復の回路である(第二次大戦で子どもを殺害した日本兵の証言を、事故で記憶障害になった男性に暗誦させ、その「語りの失敗」によって「加害の記憶喪失」を患う日本を批判する《忘却の地にて》(2015)と主題的に通底する)。本作は、「消去」されたヒーロー/天皇という「不在の中心」によって、天皇の戦争責任の隠蔽と、それを抑圧・忘却しようとすればするほど回帰してくるトラウマの回路を、批評的にあぶり出す。
また、冒頭では「父と息子」の写真を映したカットが意味ありげに提示され、クライマックス(?)では捕われの少年が「お父さん、助けて」と叫ぶ。だが、彼を助ける「父」(その代替としてのヒーロー)は現われず、子どもたちは虚しく倒れていく。「父と子」の物語、より正確には「父に見捨てられた子」の物語は、群衆に罵られながらゴルゴダの丘を上るキリストを介して、父(天皇)と子(臣民)の関係に輻輳的に重ね合わせる《夢の儀礼─帝国は今日も歌う─》(2017)に連なっていく。
このように、木村、岡本、小泉の作品は、近代天皇制の一翼を担った御真影、加害の記憶喪失、世代継承という時間軸を内包しながら、パロディや引用の戦略を用いて、表象というより広義の政治的領域における天皇制や戦後日本社会の病理的構造について深く照射していた。なお本展は、6月2日~20日まで、「皇居編」として東京のeitoeikoでの巡回展が予定されている。
編集部注:eitoeikoでの会期は6/27までに延長されました。(2020年6月16日)
2020/05/23(土)(高嶋慈)