2020年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

2020年06月15日号のレビュー/プレビュー

くものうえ⇅せかい演劇祭2020 キリル・セレブレンニコフ『The Student』

会期:2020/05/05~2020/05/06

「ふじのくに⇄せかい演劇祭」の中止を受け、開催予定だった4月25日~5月6日の期間、映像やトーク企画などの配信を行なう「くものうえ⇅せかい演劇祭」が開催された。『OUTSIDE-レン・ハンの詩に基づく』を上演予定だった、ロシア出身の演出家・映画監督のキリル・セレブレンニコフは、カンヌを始め世界各地の国際映画祭で評価を得た長編映画『The Student』(2016)を映像配信した。セレブレンニコフの映画作品は、日本初公開となる。

原作は、ドイツの劇作家マリウス・フォン・マイエンブルクの戯曲『Märtyrer(殉教者)』。主人公の男子高校生ヴェーニャは、水泳の授業をさぼったことが原因で母親と口論になる。問い詰める母親に対し、ヴェーニャは母が思ってもみなかった理由を口に出す──「水泳の授業は、自分の信仰と反する」。彼の「宗教的理由」は認められ、ヴェーニャはプールサイドでひとり、聖書を読みふける。だが、社会の縮図である学校は多様性の容認や異なる価値観の共存へと進む代わりに、「聖書の正しい言葉」を後ろ盾にヴェーニャが唱える原理主義に次第に染まり、さまざまなマイノリティ差別の構造を露わにしていく。

本作で描かれるのは、狂信的な原理主義とリベラルの対立の構図である。日和っているうちに感化され、「正しい」と思い込んで扇動されていく周囲の教師たち。ヴェーニャは、堕落と不貞を戒める聖書の語句を引用し、「ビキニは水泳の授業に相応しくない」と主張。女子生徒たちはカラフルなビキニの代わりに、黒いスクール水着と水泳帽を着用させられる。その光景を聖書を手に二階席から見下ろして微かにほくそ笑むヴェーニャは、大人や教師に従うべき「生徒」が、「大人たち」を支配しているという逆転構造を優越感とともに露わにする。「聖書=正義」の言葉が自分に権力を与えているという実感は、彼が「生徒」だからこそ、その歪さがより際立つ。


一方、ヴェーニャと徹底的に対立するのが、リベラルな生物学教師のエレナである。進化論の授業、セクシュアリティの多様性やセーフ・セックスについて講義するエレナに対し、ヴェーニャは畳みかけるような聖書の引用によって論戦を仕掛ける。「神はすべての造物主」、「同性愛は死に値する」、「婦人は男に教えたり、男の上に立つな」、「アダムはエヴァより先に生まれた」「女は、子を産むことによってエヴァの犯した罪から救われる」……。「聖書は2000年も前に書かれたもので、現代の価値観や科学とは相いれない」と反論するエレナに対し、ヴェーニャは彼女の名前がユダヤ系だからキリスト教を嫌悪するのだと言い返す。また、ヴェーニャを秘かに慕う同級生は、「足の障害を治す」奇跡を起こそうと、自分の足に触れて祈りを唱えるヴェーニャに欲情を覚えるが、「あらゆる病は懲罰」「女と寝るように男と寝るな」といった聖書の引用を投げつけられる。このように、聖書に依拠した彼の「正義」は、同性愛差別、女性差別、女性の「性の自己決定権」の否定、「進歩的」な性教育へのバックラッシュ、民族・人種差別、障害者差別といった「マイノリティ」を攻撃・排除する論理として作用し、社会の不寛容や根強い排他意識の病巣をあぶり出す。「大人・教師が生徒を管理する」閉じたコミュニティ、すなわち社会の比喩である「学校」を舞台に描く本作は、その意味できわめてリアリズムと言える。

ここで、ヴェーニャの台詞が「聖書の引用」で構成される点も重要だ。引用すなわち「自分自身の言葉ではない」ものを、自分の主張に合わせて都合よく切り貼りし、利用すること。また、ヴェーニャに「反論」を試みるエレナが、聖書を読み込んで「彼の主張」を切り崩す論拠に使おうとするくだりは、自説の論拠が反撃相手にも使用されるという両義性や脆弱性を示す。「相手の用いた言葉自体のなかに、反論や矛盾の根拠を見出そうとする」態度はまた、例えば歴史修正主義者の常套手段をも想起させる。

終盤、ヴェーニャは「殺人」と「虚偽の告発」という二重の罪を犯すが、最終的に「裁き」は下されない(前者は「事故」と片付けられ、「女性教師のエレナに身体を触られた」という後者は、校長はじめほかの教師たちが信じてしまう)。クビを言い渡されたエレナは、自分の足を靴ごと釘で貫いて床に打ち付け、「それでも私は出ていかない、ここは私の居るべき場所だから」と叫ぶ。この壮絶なラストは、原作戯曲のタイトル「殉教者」の方がわかりやすいだろう。それは、エレナはリベラルで進歩的な思想の持主だが、彼女自身もまた、自らの信念に狂信的な「殉教者」であるという両義性をつきつける。




「聖書の語句を引用しまくる緊迫した論争シーン」は長回しで撮影され、激しい長台詞の応酬は演劇的であると同時に、「台詞それ自体が『引用』である」という自己言及性は、一種の演劇批判でもある。一方で映像は、表向きは禁欲主義的なヴェーニャの態度とは裏腹に、カラフルなビキニで泳ぐ少女たちの伸びやかな肢体を、揺らぐ水中で下から捉えるカメラの躍動的な浮遊感や、「足を治すために触って祈ってほしい」とズボンを脱ぐ(脱いで誘惑する)同級生の太腿の窃視的なカットなど、エロティックな映像美が目をひく。「姦通するな」と聖書の言葉で「防御」しつつ、性に揺れ動く思春期のヴェーニャの内面的な危うさを、映像によってすくい上げていた。

公式サイト: https://spac.or.jp/festival_on_the_cloud2020

2020/05/05(火)(高嶋慈)

川崎市河原町高層公営住宅団地、洋光台団地

[神奈川県]

コロナ禍の期間中、公共交通機関をほとんど使わなくなった代わりに、自動車で普段訪れることがなかった神奈川県のエリアをまわり、建築を見学する機会が増えた。展覧会や演劇は閉館していると、まったく楽しむことができないが、建築は内部に入れなくても、外観を見学するだけでも多くのことがわかるのがありがたい。時代の変化を示す2つの団地を取り上げよう。ひとつは大谷幸夫が手がけた《川崎市河原町高層公営住宅団地》(1972)、もうひとつは隈研吾による《洋光台団地》と駅前広場のリノベーション(2018)である。



大谷幸夫が手がけた《川崎市河原町高層公営住宅団地》



《河原町団地》の案内図


前者は日本に団地が登場し、これからどんどん増えていく時代の建築だが、遠くから見ても相当なインパクトを与える彫刻的な造形だ。今なお、強い形である。いや、正確に言えば、近年こうしたデザインは忌避されるからこそ、余計に痛烈な印象を与えるだろう。とりわけ、「人」字型の斜めに迫り上がるダイナミックなヴォリュームは、大谷の《京都国際会館》(1966)にも通じるものだが、集合住宅の系譜で言えば、師匠の丹下健三による25,000人の《TAMENOコミュニティ計画》(1960)や、大谷も参加した《東京計画1960》(1961)の住居棟の断面と近い。実際、川崎の団地の外側はテラス付きの住戸をズラしながら積み上げ、日照を確保する一方、内側には巨大な吹抜けの半屋外空間を設けている。全体としては、総戸数3,600戸、人口 15,000人を想定したプロジェクトだが、SF的なデザインは、近代的な団地が輝いていた時代を偲ばせる。



斜めから見た《河原町団地》。「人」字型の斜めに迫りあがるヴォリュームが特徴的



《河原町団地》の内側に設けられた巨大な吹抜け空間


これに対し、ほぼ同時期の1971年に入居を開始した《洋光台団地》は、直方体のヴォリュームが連なる普通の建築だが、誕生して半世紀を迎える直前に、隈のデザイン監修によって生まれ変わった。駅前から続く広場のリニューアルは、既存の傾斜地とも連動しつつ、個性的な場を形成している。隈による長岡の庁舎と同様、ステレオタイプではない日本らしさをもつ広場は、魅力的である。かつて2階の居室だった空間が、店舗に変わり、アーケードの上部に続くデッキと面しているのも興味深い。ほかにも室外機を木の葉パネルで覆ったり、縦導線のコアをストライプ状に塗装し、やさしい表情を与えている。強い建築を志向しない現代的な改修と言えるだろう。



隈研吾のデザイン監修で生まれ変わった《洋光台団地》



洋光台駅から団地へと続く広場もリニューアルされた


木の葉パネルで覆われたエアコンの室外機

2020/05/10(日)(五十嵐太郎)

『AKIRA』IMAX版

1カ月半ぶりの映画鑑賞は、いち早く緊急事態宣言が解除された宮城県におけるTOHOシネマズ仙台となった。新作はわずかで、代わりに『ベン・ハー』、『オズの魔法使』、『タワーリング・インフェルノ』、『ブレードランナー』、『シン・ゴジラ』、『君の名は。』などの古典的な名作をずらりと揃えた最強のラインナップで興味深い。館の再開初日の朝だったので、待ちきれなかった多くの映画ファンが詰めかけているかと思いきや、実際には閑散としていた。ソーシャル・ディスタンスをとるため、半分の座席は使用不可とし、市松模様の配置パターンでチケットを販売していたが、最大のキャパのスクリーン6は364席に対し、わずか約10名の入りという超低密度である。





再開初日の朝なのに券売機前も閑散とした映画館


さて、筆者が鑑賞したのは、漫画中心で読んでおり、映画版はヴィデオで観ていた『AKIRA』だ。そしてIMAX版の『AKIRA』の凄さに驚愕することになった。もちろん、大スクリーンの上映に耐える圧倒的な細部の描写ゆえである。テレビの画面では確認できない、様々な情報がぎっしりと詰め込まれていた。

1988年に公開された『AKIRA』は、それまでの映画史の記憶を踏まえた作品であると同時に(『マッドマックス』、『スキャナーズ』、『トロン』、『ブレードランナー』など)、32年後だからこそわかる、これに続く後発の映画への影響力の大きさ(『新世紀エヴァンゲリオン』や、アニメにおける幻想的なシーンなど)を確認できるものだった。

まだ生々しかった学生運動の記憶、2.26事件へのオマージュを感じる一方で、鉄雄が戦車と対峙する終盤のシーンは、1989年の天安門事件を予見したかのようだ。そして現実になった東京オリンピック2020とその延期も、コロナ禍の今だからこそ、重く受けとめたい設定である。音楽は芸能山城組が印象的だが、途中の未来都市のシーンにおいて、暁テル子の楽曲「東京シューシャインボーイ」(1951)が挿入歌として使われていることも発見した。渋い選曲である。ともあれ、最初の公開から長い時間を経ても、未来の鑑賞者に多くの気づきを繰り返しもたらす『AKIRA』は、やはり古典的な名作と呼ぶにふさわしい。


左上:「AKIRA 4Kリマスター」IMAX上映ポスター
[© 1988マッシュルーム/アキラ製作委員会]

2020/05/15(金) (五十嵐太郎)

Q/市原佐都子 オンライン版『妖精の問題』

会期:2020/05/16~2020/05/17

『妖精の問題』は、2017年の初演以降、国内外で再演されているQ/市原佐都子の代表作。一部「ブス」が落語、二部「ゴキブリ」がミュージカル風の歌唱、三部「マングルト」が健康法の啓発セミナーという三部構成で、三つの物語がそれぞれ異なる形式により、俳優の一人芝居で演じられる。通底する主題は「妖精=見えない(ことにされる)もの」、つまりルッキズム、優生思想、社会的有用性、「清潔」信仰、(女性の)性への抑圧などにより、社会的に「異物」として排除や差別、嫌悪の対象とされるものだが、最終的には価値基準が相対化され、生(性)の強い肯定へと転じていく。


「オンライン版」として出演者や内容を再構成し、リアルタイムで配信した本公演は、Zoomのチャットやアンケート回答の送受信機能といった双方向性を効果的に取り込んだ点が秀逸。また、「菌(異物)との共生」「殺菌思想や優生思想の強化がもたらす、差別と排除、不可視化」という根底を貫くテーマが、コロナ禍の状況下で改めて、そしてより強く浮上した。劇場での過去の上演内容についてはすでにレビューを執筆しているので、本評では、(1)コロナ禍の状況に対する批評的応答、(2)Zoom機能の効果的使用による「コミュニケーション」の焦点化、の2点について述べる。



Q オンライン版『妖精の問題』より 一部「ブス」


まず、(1)について。「なぜ今、その作品を上演するのか」という同時代的アクチュアリティへの切実な応答が最も浮かび上がったのが、三部「マングルト」である。「膣内に常在する乳酸菌を利用して作ったヨーグルトを食べる」という健康法の啓発セミナーが展開されるのだが、創始者の「淑子先生」が「マングルト」開発に至るまでの自伝的語りが改めて訴えかける。多感な思春期に「性は汚いもの」という価値観を植え付けられ、極端な潔癖症になったこと。喫煙者、病人、障害者などを「不潔な存在」として嫌い、同じ空気を吸わないように息を止め、マスクを三重にし、手洗いするため席を離れたこと。「自分は清潔だ」と思い込むことで自分自身を守ろうとし、「清潔」の強迫観念と「殺菌」思想に憑りつかれた彼女の姿が、「他者」「異物」への排除と表裏一体であることは、まさに今の社会の鏡像だ(そのあと彼女は、抗生物質で善玉菌を殺したことで膣内バランスを崩し、女性器の感染症を発症した経験を経て、「菌との共生」に思考を転換する)。

一方、(2)オンライン版におけるZoom機能の使用は、これまでの劇場上演との比較によって、三部それぞれにおける「コミュニケーション」の異なる位相を浮上させる。まず、女子中学生2人の掛け合いを落語形式で語る一部「ブス」は、「自宅でのZoomによる会話」に置き換えられる。二部「ゴキブリ」では、豚骨ラーメン屋の近くに住む主婦が、ゴキブリ駆除に悩まされる日々、ゴキブリの異常な繁殖力、夫とセックスの意思疎通がうまくいかないこと、夫が勝手に焚いたバルサンの煙を妊娠中に吸ってしまい、「異常」な子どもができたことを、ジャズ調の曲で歌い上げる。俳優は自宅で演技するが、「主婦・妻」の「舞台」はキッチンがあてがわれる。これまでの劇場上演では、「妻」と「夫」のモノローグのパートを一人の俳優が歌い分けていたが、オンライン版では、それぞれ女優と男優が担当。Zoom画面を切り替えて登場するが、「Zoomを使っているにもかかわらず、一切『会話』しない」という齟齬は、「(バルサンを焚くのを相手に伝えなかったように)家事でもセックスでも意志疎通のうまくいかない夫婦」がより鮮明になり、「コミュニケーションの断絶」を逆説的に際立たせる。


Q オンライン版『妖精の問題』より 二部「ゴキブリ」


さらに、三部「マングルト」は、「Zoomセミナー」の形式への変更に加え、チャットやアンケートの送受信といったリアルタイムでの「参加」を、フィクションの仕掛けとしても実際の観客参加としてもうまく取り込んで成立させた。「セミナー参加者からのメッセージの表示」「参加者からの質問に答える」というフィクショナルな仕掛けが、「講師と参加者の(疑似的な)交流」を演出し、臨場感を高める。また、観客は、要所要所で、「発酵食品とそうではない食品のどちらを選ぶか?」「除菌グッズを使用したことがあるか?」「マングルトを汚いと思うか?」といった「質問」に答えるよう促され、「送信結果の集計」がグラフで視覚化され、講師役がコメントする。ポイントの顕在化とともに、観客に主体的に考えさせるこの仕掛けは、(劇場での上演とはまた別の)臨場感をもたらした。



Q オンライン版『妖精の問題』より 三部「マングルト」


『妖精の問題』の戯曲の特徴は、「落語」「歌謡ショー」「セミナー」という形式を借りることで、「モノローグ」の虚構性や不自然さをクリアさせた点にあるが、今回のZoomを用いたオンライン版では、コミュニケーションの素朴な肯定、失敗や断絶を経て、観客=視聴者参加型の双方向性へと拡張されていく段階性に特徴があり、「Zoom演劇」の開拓としても意義がある。だがより本質的な意義は、看過されるべきではない。コロナ禍による劇場閉鎖、上演中止・延期の状況下では、「なぜ舞台芸術が必要か?」という問いとともに、「なぜ今、その作品を上演するのか?」という自己反省的な問いに対する根拠が、より強く問われる。もちろん、オンラインを使った新たな表現手法の試みという面も重要だが、単なる代替案でも一過性の消費でもなく、この自己反省的な問いに本公演は真摯に答えていた。

公式サイト: http://qqq-qqq-qqq.com/?page_id=1451

関連レビュー

Q オンライン版 『妖精の問題』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年06月01日号)

市原佐都子/Q『妖精の問題』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年12月01日号)

2020/05/16(土)(高嶋慈)

湘南T-SITE、Fujisawa SST、ミナガーデン十日市場

[神奈川県]

なかなか足を運ぶ機会がなかった《湘南T-SITE》(2014)も、ようやく訪れる機会を得た。再開したばかりで待ちかねた人が集まっていたが、店内への入場制限や、椅子の使用禁止、一部の飲食施設の休業などによって感染の対策を施していた。《代官山T-SITE》と同様、クライン・ダイサム・アーキテクツが総合ディレクションを担当しており、基本的には同じコンセプトのデザインである。代官山は「T」の字を外壁で反復しているのに対し、湘南は(蔦屋書店のシンボルにあたる)蔦の葉のモチーフを選ぶといった差異は認められる。また平行に配置された 3棟の屋内外を串刺しにするようなストリートも同じ構成だ(ただし、湘南は一部、車道を横断する)。もっとも、こういうことは現場に行かないとわからないのだが、まわりの風景が全然違う。


車道を挟んで各棟が並ぶ


蔦の葉のモチーフで覆われた《湘南T-SITE》の外壁

すなわち、《湘南T-SITE》は、パナソニック工場跡地につくられた新興の住宅地、《Fujisawaサスティナブル・スマートタウン》のコアのひとつとなる施設なのだ。したがって、まわりをピカピカの住宅がぐるりと囲んでいる。環境に配慮した約1000戸のニュータウンゆえに、戸建て住宅の内部はさまざまな最新の設備をもつが、外観はほとんど同じようなデザインであり、絵に描いたような郊外住宅群だ。なお、交通量が多いロードサイド沿いに、太陽光発電のパネルが延々と続く風景も独特である。《湘南T-SITE》も、ロードサイド側には開かず、直接のアクセスはない。斜めの太陽光パネルと、一段高く持ち上げたデッキによって、道路と距離がとられている。


《湘南T-SITE》に隣接する住宅街


《湘南T-SITE》の駐車場から見た住宅

11棟のスマートハウスなので、規模はまったく違うが、横浜市の《ミナガーデン十日市場》(2012)も、やはり環境配慮型まちづくりをうたう。これは飯田善彦と小林克弘がマスターアーキテクトとなり、産・官・学の共同プロジェクトとして横河健や首都大学東京などが参加したものである。興味深いのは、ひな壇造成をせず、起伏のある地形や植生をうまく活かしながら、各住戸が角度を変えながらややランダムに配され、中央にみんなの庭が設けられていること。その結果、ありがちな郊外住宅地とはならずに(周囲は集合住宅群)、家と家の関係性を操作するだけで、単調さを回避しつつ、忘れがたい風景が生みだされていた。


《ミナガーデン十日市場》のスマートハウス群


各住戸のあいだに塀がなく、共有スペースになっている


起伏のある地形や植生を活かした住戸配置が《ミナガーデン十日市場》の特徴のひとつ

2020/05/17(日)(五十嵐太郎)

2020年06月15日号の
artscapeレビュー

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