artscapeレビュー
ハラサオリ『Da Dad Dada』
2021年11月15日号
会期:2021/10/30~2021/10/31
草月ホール[東京都]
Dance New Air 2020->21のプログラムの一環としてハラサオリ『Da Dad Dada』が上演された。2017年にドイツで初演され、2018年には日本でも上演されたこの作品は、1960年代にミュージカルダンサーとして活躍したハラの父、原健についてのリサーチに基づくもので、ハラ自らはそれを「セルフドキュメント・パフォーマンス」と呼んでいる。
父、といってもハラは原健と一緒に暮らしたことはなく、その名前を名乗るようになったのも父と同じ「身体表現の道へ転向することを決意」して以降のことなのだという。グラフィックデザイナーを目指しながらミュージカルダンサーとなった父・原健。ハラもまた、目指していたアートディレクターではなく、ダンサーの道へと進むことになった。奇妙な符号を見せる父と娘のプロフィール。それらがハラ自身によって語られるところからこの作品は始まる。
父と娘が20年ぶりに再会した2015年のときのものだという会話の録音。いかにも親しげな、しかしその親密さが作り物めいても響く会話を背景に、ハラは舞台上の机の上で父の写真をめくり、スクリーンにはその様子を真上から捉えた映像が投影される。やがて映像は1964年に公開されたミュージカル映画『アスファルト・ガール』へと切り替わる。それは「原健が実際に歌い、踊る姿を確認できる唯一の資料」だ。『アスファルト・ガール』の動きをなぞりはじめるハラとダンサーたち。そう、冒頭のプロフィールに暗示されるように、原健のふるまいをハラがなぞるようにしてこの作品は進行していく。
再び父娘の会話。「いつまで、サオリと一緒に居られるかなあ」「結婚できてたらどうなっただろうなあ」。しかし、ハラとダンサーの動きは二人のすれ違いを示すようでもある。「地震のときどこに居た?」という娘の質問に父からの問い返しはない。かすかな不穏。それでも父は「いつでも構わないから本当に、来てな」と娘を送り出し、娘は「何かあったら電話して」と応じる。この日、ハラは父を自分のダンス公演に招待し、後日、劇場に現われた彼は「俺ァはもう死んでもいい」と涙を流して喜ぶことになる。そしてそれが最後の会話になった、とハラは語る。
暗転して再び明かりがつくと舞台上には楽屋のような箱型の装置。ハラはその中で化粧をしながら冒頭の原健のプロフィールを暗唱している。楽屋の鏡にあたる部分はマジックミラーになっており、観客はその「窓」を通してハラと向き合う格好だ。一方、スクリーンにはハラを背後から捉えた映像が映し出されている。後ろ姿と、鏡越しに左右が反転した像。ハラは父への感情を吐露しはじめる。「的外れな愛情表現も、演劇的な振る舞いも、自己中心的な話しぶりも。すべては彼が舞台で放った輝きの裏側にあったものです」。「なんで私を選んでくれなかったんだろう」。「選んで欲しかった。あなたに、愛されてみたかった」。激した感情はしかしすぐに押さえ込まれる。父には「演技と本音と建前と嘘の区別」がついていないから「いいんです」と。だからハラはあの日、「良き父親を演じきる彼に誘われて、良き娘を演じることに徹し」たのだと。
続く場面では『アスファルト・ガール』と同年の東京五輪の映像を背景にダンサーたちが動き回る。父と娘はともに東京五輪の年に33歳を迎えた。その符合は父と娘の関係を日本社会の世代間の関係へと接続するようにも思えるが、あまりにも出来すぎた偶然は強い力ですべてを父と娘の関係へと閉じようとする。
最後の場面。ハラは映像の中の父のそれと似た衣装を脱ぎ、畳んで床に置いたそれをまたぎこす。鎮魂と、父を乗り越えて先へ進むハラの決意を示すであろう行為。それはいかにも演劇めいている。父への評言は舞台上のハラ自身にも当てはまるものだ。ハラはまるで意趣返しのようにして父との関係を作品化し舞台に乗せていく。舞台の上に「演技と本音と建前と嘘の区別」はない。父への愛憎をも利用して作品をつくることと、作品を利用して父への愛憎を仮構することとは区別ができない。そうすることこそが父への復讐であり愛情であり、しかしそのプロセスは強靭な知性によって支えられている。
この作品においてハラ以外のダンサーは「舞台装置」としてクレジットされている。父がそうしたように、いや、父とは異なり明確な意志をもって、ハラは周囲のすべてを自身のための舞台へと仕立て上げ、そうしていることをあからさまに示す。呪いのような偶然も、ハラ自身の意志によって作品の内部に配置されたものだ。観客でさえも舞台を成り立たせるためのひとつの要素に過ぎないだろう。強靭な知性によってエゴイスティックであることを徹底した先で、そうして自らのエゴを肯定することを通してようやく、ハラは父のエゴを、許すことはできなくとも認めることができるのかもしれない。だがもちろん、それすらも舞台の上での出来事だ。「本当のこと」は観客はもちろん、父にも差し出されることはない。それもまた父への復讐だ。いずれにせよ、それを差し出すことはもはや叶わない。だが、舞台という「嘘」を通してのみ語ることができる、存在できる「本当のこと」はたしかにある。だから『Da Dad Dada』は上演されなければならなかった。そしてこれからも上演されるだろう。
ハラサオリ:https://www.saorihala.com/
2021/10/31(日)(山﨑健太)