artscapeレビュー

ジュリア・フィリップス『消失の惑星』

2022年02月15日号

翻訳:井上里

発行所:早川書房

発行日:2021/02/25

2019年に全米図書賞(小説部門)の最終候補となり、商業的にも大きな成功を収めた本書『消失の惑星(Disappearing Earth)』が日本語に翻訳されたのはおよそ一年前のことである。昨今の時流にも即した本書は日本でも多くの読者を獲得し、話題を呼んだ。そのため、これから書くことはいささか時宜を逸したものであることは否めないが、あらためて同書の外郭をたどりつつ、従来の書評とはやや異なった視点から本書の紹介を試みたい。

本書は、米国ニュージャージー生まれの作家ジュリア・フィリップス(1989-)のデビュー作である。舞台はロシア東部のカムチャツカ半島であり、物語はアリョーナとソフィヤという幼い姉妹の失踪事件から始まる。しかしながら、本書の叙述は、物語が進むにつれて次第に事件の顛末が明らかになっていくミステリーのそれとは大きく異なる。姉妹が姿を消した「8月」からおよそ一ヶ月ごとに進む本書では、まるで終わりのない短編集のように、カムチャツカ半島に生きる女性たちのエピソードがかわるがわる披露される。友人との関係に悩む中学生オーリャ、新しくできたそそっかしい恋人とキャンプに出かけるカーチャ、鎖骨の下の水疱に悩む学校秘書のワレンチナ、少数民族にルーツをもつ大学生クシューシャなど、彼女たちのエピソードは──部分的に重なりつつも──ほとんど独立しており、物語の結末にむけて一点に収束していくわけではかならずしもない。それらに共通するところがあるとすれば、それは幼い姉妹の失踪事件を背景に否が応でも増幅される、同地の「女性たちの」孤独・煩悶・喪失である。

はじめにも述べたように、本書『消失の惑星』はすでに読書界で高い評価を獲得しており、その構成や文体に鑑みても、これがきわめて完成度の高い長編小説であるという評価は揺るぎようがない。かといって、終始破綻なく進むこの物語に、あらためて批評的な読みどころを見いだすこともむずかしい。そこで、ここではあえて、本書の成立の背景に注目してみたい。

英語によるいくつかの記事に目を通してみるとわかるように、著者フィリップスは、本書の執筆に20代のほぼすべてを費やしている。高校生のころからロシアに関心を抱いていたという著者は、バーナード・カレッジ卒業後にフルブライト奨学金を得て、『消失の惑星』の舞台となったカムチャツカ半島で2年間のリサーチを行なっている★1。また、そうした現地でのリサーチのかたわら、彼女がニューヨークの犯罪被害者支援センター(CVTC)で長く勤務していたという事実も注目に値する★2。本書については、前者のカムチャツカ半島でのリサーチばかりが注目されるきらいがあるが、その内容に鑑みれば、犯罪被害者に間近で接してきた後者の経験が本書の執筆に大きな影響を及ぼしていることは疑えない。

本書は、以上のような長期にわたる、粘り強い創作活動の果てに成った一冊である。その事実をここであえて強調するのは、現代美術の世界で──制度的に──しばしば横行する、ごく短い期間の「リサーチ」なるものとの、彼我の隔たりに思いをめぐらせるためである。むろん、小説とそれ以外の表現形式とでは、基本的な前提に大きな違いがあることもたしかだろう。しかしそれでも、本書のような10年単位のリサーチが、なぜ現代美術の世界において見られないのかということはやはり考えざるをえない。すくなくともこの小説は、1、2年ほどの中途半端なリサーチによっては到底不可能な、きわめて大きな達成である。実際にそうした活動に身を投じるかどうかはともかく、何らかのリサーチに基づく(research-based)作品であることを殊更に謳うからには、本書のような仕事が存在することは重々意識しておく必要があるだろう。

★1──“Barnard’s 2011 Fulbright Recipients Announced” (コロンビア大学、バーナード・カレッジ、2011年5月9日)https://barnard.edu/headlines/barnards-2011-fulbright-recipients-announced(2022年2月6日閲覧)
★2──“Julia Phillips: Debut Novelist And National Book Award Finalist” (ニューヨーク・クイーンズ公立図書館、2020年1月24日)https://www.queenslibrary.org/about-us/news-media/blog/2010(2022年2月6日閲覧)

2022/02/07(月)(星野太)

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