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納富信留『ギリシア哲学史』

2021年10月15日号

発行所:筑摩書房

発行日:2021/03/20

本書の著者・納富信留(1965-)は、これまで『ソフィストとは誰か?』(人文書院、2006[ちくま学芸文庫、2015])や『プラトンとの哲学』(岩波新書、2015)といった、専門的な知見に裏打ちされた好著を次々と世に送り出してきた。共同で責任編集を務めた『世界哲学史』(全8巻+別巻、ちくま新書、2020)のインパクトも記憶に新しいが、本書『ギリシア哲学史』はたった一人で執筆された、約750ページにもおよぶ古代ギリシア哲学の通史である。

まず手始めに第I部「ギリシア哲学史序論」に目を通してみれば、本書がどれほど画期的な一冊であるかはすぐにうかがい知れるはずである。このテーマについてはすでに膨大な研究成果があるだけに、たいていの通史はごく一通りの説明に終始するか、せいぜい著者が得意とする領域の知見を二、三、披露して終わってしまいがちである。しかし本書においては、どの章節もごく最近の研究成果を踏まえたうえで書かれているということが、その揺るぎない筆致の端々からうかがえる。

本書の構成についても簡単に見ておこう。さきほども話題にした第I部は二つの序章からなる。まず序章1「ギリシア哲学とは何か」では、そもそもの「ギリシア哲学」をめぐる一般的な解説がなされ、これから記述される「ギリシア哲学史」の外延が過不足ないかたちで示される。つづく序章2「ギリシア哲学資料論」では、写本の伝承や校訂テクストをはじめとする基本事項が手際よくまとめられており、こちらも──とりわけ初学者にとって──きわめて有益である。

本編は、第II部「初期ギリシア哲学」と第Ⅲ部「古典期ギリシア哲学」に大きく分かれ、あわせて32の章からなる。第II部の「初期ギリシア哲学」では、タレス、アナクシマンドロス、ピュタゴラス、パルメニデスといった、イオニアおよびイタリアにおける「哲学の誕生」が、その社会的背景とともに論じられる。また第Ⅲ部の「古典期ギリシア哲学」では、ソクラテス、プラトン、アリストテレスに代表される、古典期アテナイにおける哲学者たちの学説が幅広く紹介される。内容は明快このうえなく、それぞれの典拠も註にかなり細かく顕示されているため、ここから難なくほかの文献にアクセスすることもできる。本書が、初学者と専門家のどちらにとっても必携であるのは、ひとえにこうした理由による。

ここまで見てきたように、本書は手元において事典的に用いることもできるが、もちろん前から順番に通読するという読みかたも十分に可能である。なかでも、本書のひとつの大きな読みどころとなるのが「ソフィスト」の扱いであろう。古代ギリシアにおける職業的知識人であったソフィストは、基本的には哲学史の正道から排除されることが常であった。より正確に言えば、ヘーゲル以来、ソフィストはこれまでの哲学史のなかにもその存在をみとめられてはいたが、そこではもっぱら「哲学者ソクラテス」対「有象無象のソフィスト」という、否定的な扱いがつきまとってきたのである。本書第III部Bパートにあたる「ソフィスト思潮とソクラテス」は、こうした表層的な見かたに一石を投じ、ソクラテスを同時代のソフィスト思潮のなかに位置づけた、とくに興味深いパートである。

なお、以上のことは、本書が示す歴史区分にとっても小さくない意味をもっている。本書の前半部にあたる「初期ギリシア哲学」は、従来「ソクラテス以前(Pre-Socratic)」の哲学と呼ばれることが珍しくなかった。しかしこの呼称は、昨今の研究成果によってその不正確さがたびたび指摘され、むしろいまでは本書が採用する「初期ギリシア哲学(Early Greek Philosophy)」という呼称のほうが一般的になっている。これだけでなく、本書が示す「ギリシア哲学史」は、過去の通念をくつがえすさまざまなアップデートに満ちている。日本語におけるギリシア哲学史のスタンダードとして、今後長く読まれるべき一冊である。

2021/09/27(月)(星野太)

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