artscapeレビュー
イシャイ・ガルバシュ、ユミソン「Throw the poison in the well」
2016年06月15日号
会期:2016/04/30~2016/05/08
Baexong Arts Kyoto[京都府]
Baexong Arts Kyotoを運営するアーティスト、ユミソンと、イスラエル出身でベルリン在住の写真家、イシャイ・ガルバシュの二人展。出身地も年齢も異なる二人だが、「親世代がジェノサイドの生き残りである」という共通の出自を持つ。負の記憶の継承と共有の(不)可能性、親子関係がはらむ心理的葛藤、個人の生と民族の歴史の交差について言及するそれぞれの過去作に加え、2ヶ月の滞在制作において共同制作された新作《Throw the poison in the well》が発表された。
イシャイ・ガルバシュの《The Number Project》は、ナチス政権下でユダヤ人強制収容所に収容された母親が、腕に入れ墨で刻印された囚人番号を、自身の腕に焼きごてで刻印して、痛みとともに継承するというもの。数字とアルファベットが刻まれた金属片をガスバーナーであぶり、顔をしかめながら自身の腕に焼き付けていく記録映像と、生々しい傷痕が癒えていく様子を毎日1枚ずつ、101日間にわたって撮影した写真が展示されている。「A2867」といういびつな数字が、赤く血でにじみ、かさぶたになり、はがれ、ゆっくりと薄れて読めなくなっていく過程が、ドキュメントとして示される。母親の身体に刻印された番号を、痛みとともに「私」の身体に受け入れ、「私のこの身体」に起きた出来事として反復・引き受けようとすること。それは、民族の受難の物語への回収を拒み、「母と私」という極私的な関係性に留まりながら身体的に継承しようとする身振りである。それはまた、個人を匿名性へと暴力的に押しやった番号が、個人の生の証として取り戻されるという逆説を帯びてもいる。しかしその番号が薄れていく様子は、時とともに傷が癒えていく過程であるとともに、迫害の歴史が忘却されていくプロセスの可視化をも思わせる。ガルバシュの鮮烈な作品は、傷口を押し開きながら縫合するような両義性をはらんでいる。
また、ユミソンの《It Can’t Happen Here.》は、1948年の済州島四・三事件(韓国軍などによる島民虐殺事件)の生き残りである父親が語った記憶と、自身が罵声を浴びせられたヘイトスピーチの体験、父親との葛藤などを、父親の視点から仮構的に綴り直したテクストである。ただし、固有名や具体的な日付と場所を剥ぎ取られて抽象化されることで、話者の「I」は、不特定多数の他者を受け入れる場所となり、記憶と現在時の思索が行き来するなかに、体験の過酷さは詩的なモノローグとして語られる。
一方、ガルバシュとユミソンの共同制作《Throw the poison in the well》は、ともにジェノサイドの生き残りを親に持ち、民族の被傷性にどう向き合うかをそれぞれの視点で考える二人が、「井戸に毒を流す」行為を京都市内の市街地や河川で擬似的に再現するパフォーマンスの記録である。タイトルが示唆するのは、1923年の関東大震災の際、「朝鮮人が井戸に毒を流している」などのデマによって引き起こされた朝鮮人虐殺事件だ。だがこのパフォーマンスで二人は、社会的に排除され憎しみの対象となる「魔女狩り」の「魔女」役を押し付けられたことを糾弾するのではなく、むしろその役割を引き受けてフィクションとして演じてみせることで、「被害者の歴史」を訴えるという政治的正しさに陥ることを回避し、シンプルな行為がもたらす想像の回路を開いていた。
静かな住宅街で、個人宅の軒下に置かれた防火用のバケツに、二人がそっと入れるのは、小さな唐辛子である。その鮮烈で美しい赤。その行為は、むしろそっと贈り物を置いていくような、慎ましやかな贈与のようにも見える。一方、京都市内を流れる鴨川に「唐辛子を流す」行為は、河川敷という空間の公共性や開放感とあいまって、穢れや厄を依代(よりしろ)である人形に託して海や川に流す祭礼行事を想起させた。それは人を殺す「毒」ではなく、社会の底に澱のように溜まった「毒」を、身代わりとして流し、浄化しようとしているようにも見えるのだ。異質な他者への憎しみや排除が社会的不安や混乱の中で暴走し、肥大化した妄想が集団的につくりあげた「架空のテロ」の恐怖。その模倣行為が、憎しみの浄化行為として希望に満ちたものに変わる瞬間を、アートに成しえることとして差し出していた。
2016/05/06(金)(高嶋慈)