artscapeレビュー
アピチャッポン・ウィーラセタクン アートプログラム〈中・短編集〉
2016年06月15日号
会期:2016/05/07
シネ・ヌーヴォ[大阪府]
タイの映画監督・映像作家、アピチャッポン・ウィーラセタクンの新作映画「光りの墓」公開に伴い、中・短編を上映するプログラム。『Worldly Desires』(2005)、『エメラルド』(2007)、『My Mother’s Garden』(2007)、『ヴァンパイア』(2008)、『ナブアの亡霊』(2009)、『木を丸ごと飲み込んだ男』(2010)の計6作品が上映された。
ラインナップからは、1)「反復構造とズレ」、2)「記憶」、3)「光(の多義性)」という、ウィーラセタクンの映画/映像作品に通底するキーワードを抽出することができる。まず、1)「反復構造とズレ」の明白な志向が見て取れるのが、中編の『Worldly Desires』。ポップソングのミュージックビデオを夜の森で撮影する女性歌手とダンサーたち、愛し合う男女の逃避行を描く劇中劇、それを撮影するクルーの会話、という3つのパートが交互に描かれる。3パートとも鬱蒼と茂る森の中で進行するが、同じ場所で起きた出来事なのか、それぞれの関係性はどうつながっているのかは曖昧だ。女性歌手とダンサーたちは、まばゆい照明を当てられて目鼻立ちが曖昧に溶解し、夢の中の光景のようにおぼろげながら、何度も同じ歌とダンスを繰り返す。また、森の中を駆け落ちする男女のシーンは、前半と後半で繰り返されるが、後半では女性が男性の手を振り払い、一人で森をさ迷う。反復構造が差異をはらむことで、異なる物語を分岐させていく手法は、長編映画『世紀の光』においても顕著である。同一性と差異の重なり合った世界は、記憶違い、日常世界とよく似た夢、平行世界、前世/現世の輪廻など、さまざまな想像をかき立てる。
また、2)「記憶」を扱う作品として、『エメラルド』が挙げられる。閉鎖されたバンコクのエメラルド・ホテルの室内を映す映像に、中年女性と若い男性が会話する声がオーバーラップする。無人の室内を綿毛か羽根のように舞う、白い物体。中年女性の声が語る、遠い初恋の記憶。香りを嗅ぐと前世の記憶が見えるという花の話。部屋を漂う白い物体は、語りの進行とともに密度を増し、ピンクやブルー、緑に色づいていく。それは歳月を物語るホコリを思わせるとともに、場に降り積もった記憶の断片や、浮遊する無数の霊魂のようにも見えてくる。そして、ベッドに亡霊のように浮かび上がる誰かの顔。それは寝顔なのか死に顔なのか。生(性)と眠り、死が重なり合う場所としてのホテルの部屋、その閉じられた空間の濃密性のなかに、染み付いた匿名的な記憶が降り積もり、あるいは語りの声によって解き放たれていくかのようだ。
3)「光(の多義性)」は、『ナブアの亡霊』において、重層的な光の交錯として現われる。蛍光灯に照らされた夜の草地。爆撃か花火のような激しい稲妻が落ちる大地。稲妻の炸裂は、画面内のスクリーンに映し出され、入れ子構造を形づくる。スクリーンの前に若者たちが現われ、火のついたボールでサッカーに興じ始める。夜の闇に火の粉をまき散らしながらバウンドする火球は、人魂を思わせる。そしてゲームの盛り上がりとともに、スクリーンに燃え移る火。一方、燃え尽きたスクリーンの背後では、プロジェクターの光がむき出しになり、バチバチという音とともに激しく明滅する。稲妻の映像は炎という現実の光に飲み込まれて消滅したが、スクリーンを失ってもなお、生き物のように明滅し、映像とは純粋な光にほかならないことを主張する。照明や光源、花火などの人工的な光と、稲妻や炎といった自然界の光。霊魂など神秘的存在のメタファーとしての光。映像を生み出す光。そこに含まれる、かつての光景の記憶。「光」の多義性が重層的に重なり合い、眩暈を起こすほど美しい作品である。
2016/05/07(土)(高嶋慈)