2019年08月01日号
次回9月2日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

野村恵子×古賀絵里子「Life Live Love」

会期:2018/10/26~2018/12/24

入江泰吉記念奈良市写真美術館[奈良県]

野村恵子と古賀絵里子、女性写真家の2人展。野村は、雪深い山村に取材し、猟で仕留められた動物や闇を焦がす火祭りなどを生活風景とともに撮ったダイナミックな新作を展示。生と死、聖と俗、闇と光の混淆する力強い世界を提示した。また、ロードムービー風の匿名的な風景と女性ヌードが交錯する「赤い水」のシリーズ、自身のルーツである沖縄を撮ったシリーズも展示。とりわけ沖縄のシリーズは、寂れたスナック街、生活臭の漂う室内風景、ポートレート、ずらりと並べられたブタの頭部など、生と死が濃密に混ざり合った強烈な「南」の色彩とぬめるような湿気が同居する。

一方、古賀絵里子は、高野山を撮った「一山」のシリーズや、サンスクリット語で「三世」(前世・現世・来世)を意味する「TRYADHVAN」のシリーズを展示。僧侶との結婚や出産といったプライベートな出来事が撮影の契機にあるというが、私写真というより、生者と死者の記憶が曖昧に溶け合ったような幻想的な世界を四季の光景とともに写し取っている。なかでも、コンパクトなプリントサイズながら最も惹き込まれたのが、浅草の下町の長屋で暮らす老夫婦を6年間かけて撮った「浅草善哉」。展示空間は90度の角度で向き合う左右の壁に分かれ、右側の壁には、夫婦が営む小さな喫茶店の室内、カウンター越しの屈託のない笑顔、気温と天気が几帳面に綴られたカレンダーなど、2人がここで長年はぐくんできた生活の営みが活写される。一方、左側の壁に進むと、「老い」が確実に2人の身体や表情に表われる。セピア色になった、店を切り盛りする若い頃の写真の複写が挿入され、隣に置かれた老女の眼のアップは、彼女の視線がもはや未来ではなく、過去の追憶に向けられていることを暗示する。そして、無人になった室内、空っぽのカウンター、雨戸が閉ざされた店の外観が淡々と記録され、閉店と(おそらく)2人がもうこの世にはいないことを無言で告げる。ラストの1枚、店の前に佇む2人を車道越しに小さく捉えたショットは、現実の光景でありながら、彼岸に佇む2人を捉えたように感じられ、強い彼岸性を帯びて屹立する。ドキュメンタリーでありながら、写真が「フィクション」へと反転する、魔術的な瞬間がそこに立ち現われていた。

2018/12/05(水)(高嶋慈)

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林勇気「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」

会期:2018/11/23~2018/12/07

FLAG studio[大阪府]

同時期にギャラリーほそかわで開催された個展「times」とともに、「デジタルデータのアーカイブ」に焦点を当てた個展。映像作家の林勇気は、デュッセルドルフにあるimai – inter media art instituteで映像作品のアーカイブについての調査を2ヶ月間行なった。その経験を元に、「映像作品の保存形式(の複数性)」と「時間軸」という観点から、新作が発表された。

メインスクリーンに映し出された《trajectory - timelines》は、無数のカラフルな色の帯がゆっくりと軌跡を描きながら落下し、氷柱や鍾乳石の形成を極端に時間を速めて眺めているような、あるいは流れる滝をスローモーションで見ているような有機的な印象を与える。だが、これらの色の帯の1本1本は、インターネット上の著作権フリーの動画を素材に制作されており、設定した範囲内に小さく圧縮したものを、軌跡を残しながら上から下に移動させている。近づくと、コマ同士の切れ目が見える場合もあり、「連続した時間の流れ」が文字通り可視化されている。また、素材となった著作権フリーの動画のうち、約100本はアーカイブ化され、2台のPCモニターで自由に検索して閲覧できる。



林勇気《trajectory - timelines》 FLAG studioでの展示風景 [撮影:麥生田兵吾]

一方、《trajectory - timelines》は、別の問題提起も孕んでいる。メインスクリーンの手前のテーブル上には、2種類の紙資料が置かれている。ひとつは、作品の購入者と制作者の林との間で交わされる「作品証明書・利用契約書」であり、タイトルや制作年、時間の長さに加え、保存メディア、解像度、ビデオフォーマットとコーデックといった基本情報、購入者が所有するマスターデータと林が所有するアーティストプルーフが存在すること、展示の際に守るべき使用規定(機材や動作環境など)が細かく記されている。またもうひとつは、映像作品のスクリーンショットをプリントアウトしたものだ。一見どれも同じに見えるが、キャプションをよく見ると、ビデオフォーマット(MP4/MOV)、データ容量のサイズ、アスペクト比、ビデオコーデック、ビットレートなどの数値の違いが表記されている。加えて、防湿庫に保管されたハードディスクも保存の規定書とともに「展示」されており、管理湿度、3ヶ月ごとにハードディスクを通電させること、3年ごとにデータの入れ替えを行なうこと、などの旨が記されている。



FLAG studioでの展示風景 [撮影:麥生田兵吾]

このようにデジタルデータの映像には複数の形式があり、その保存や再生は物理的なハードディスクに依存せざるを得ない。また、古いデータ形式は、新しい動作環境では見られなくなる可能性があり、マスターデータを残しつつ、常に複数の保存形式を確保する必要がある。個展タイトルの「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」は、まさにこの事態を詩的な言い回しで言い当てている。それはまた、「オリジナル」「固有性」といった近代的な価値基準を、「複製・コピー」という従来的な観点からではなく、「データの保存形式の複数性」というデジタルデータに内在する条件から問い直す。作品を未来へと延命させるための「データの保存形式」が差異を生み出すのであり、それらは共通項とズレを孕みながら、分岐していく未来をつくり出すのだ。

関連レビュー

林勇気「times」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/12/01(土)(高嶋慈)

林勇気「times」

会期:2018/11/17~2018/12/01

ギャラリーほそかわ[大阪府]

自身で撮影した、あるいはインターネット上で収集した膨大な量の画像を切り貼りしたアニメーション映像を制作し、記憶(の断片化)、デジタル画像の共有と流通、消費について、時に宇宙の誕生から消滅を思わせる壮大な映像世界で言及してきた林勇気。近年は、プロジェクターや再生機の存在自体を作品に取り込む、デジタルデータとしての映像をピクセルの数値に還元するなど、映像メディアの成立条件に対して自己言及する作品に取り組んでいる。



林勇気「times」 ギャラリーほそかわでの展示風景 [撮影:麥生田兵吾]

本展もこの流れに位置するものであり、同時期にFLAG studioで開催された個展「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」とともに、「デジタルデータのアーカイブ」に焦点が当てられている。作品の素材として用いられたのは、2005年にYouTubeに初めて投稿された動画「Me at the zoo」である。YouTubeの創設者の1人が投稿した、わずか19秒の映像であり、動物園の象の前でコメントする映像だ。だが林は、この映像をピクセルに分割し、それぞれの色情報を3桁×3段の数字で数値化し、視認不可能な膨大な数値が目まぐるしく移り変わる、暗号の波のような映像に変換して映し出した。また、数値化されたデータは、紙、石、金属という伝統的な記録媒体に刻印された形でも提示された。デジタルデータはどのように保存され、未来へと継承可能なのか。ここには、「ポストメディウム」というよりは、メディウムなき非実体的なデータとなって憑依し続ける状況が差し出されている。さらには、「私たちは何を見ているのか?」という知覚論的な問いも横たわっていた。



林勇気「times」 ギャラリーほそかわでの展示風景 [撮影:麥生田兵吾]

関連レビュー

林勇気「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/12/01(土)(高嶋慈)

MuDA『立ち上がり続けること』

会期:2018/11/23~2018/11/25

京都芸術センター[京都府]

ダンサー、演出家のQUICKを中心に、2010年に京都で活動開始したパフォーマンスグループ、MuDA。これまでは野外やギャラリーの跡地など非劇場空間で、剥き出しの物質を配置したなかで肉体の衝突を繰り広げるパフォーマンス作品が特徴だったが、本作では、白い床だけのシンプルな舞台上で、「倒れる」という動作をミニマルにひたすら反復し、肉体と床面を衝突させ続ける過酷なパフォーマンスを行なった。

会場に入ると、プロレスのリングを思わせる白い正方形の床が観客と対峙する(「スタンディング」の鑑賞エリアも設けられている)。ほの暗い照明のなかで登場し、観客と相対したかと思うと、突如、前のめりに床に倒れ込むQUICK。激しい衝撃音。もがくように膝や足先を床に何度も打ち付け、のたうち回り、やっと立ち上がったかと思うと、再び激しく床に倒れ込む。その反復。舞台中央のQUICKを挟むように男女2人のパフォーマーも登場、同様の行為を反復し、衝突の衝撃が二重、三重に増幅されていく。彼らは立ち上がろうともがき苦しんでいるのか、それとも「立つ」ことに抗い続けているのか。外側から身体に加えられる暴力的な圧力なのか、あるいは体内で渦巻くエネルギーの内的状態が噴出しているのか。身体を制御しようとする苦しみなのか、それとも身体の制御への抵抗なのか。目の前でひたすら続く行為を見ているうちに、意味への求心ではなく、意味の決定を拒む両義的な隔たりが開けていく。山中透によるアンビエントなノイズサウンドが宗教的な儀式性を付加し、仏教徒が行なう「五体投地」のようにも見えてくる。



[撮影:井上嘉和]

「倒れ、腹ばいでもがき、立ち上がってはまた倒れる」動作の繰り返しは10分以上も続いただろうか。彼らの動作は少し変化し、「両足を大きく開いて立ち、ヘッドバンキングのように頭を振り回し、倒れる」動作を繰り返すようになった。衝突音に混じって、雄叫びのような唸り声も発される。この第2フェーズを10分ほど繰り返した後、「腕を大きく回してから倒れる」第3フェーズに至った。動きのペースは落ちないが、彼らの身体には疲労の色が次第に滲んでくる。音楽はいつしか止み、無音の静寂のなかに、ひたすら肉と物質のぶつかる音と荒い息づかいが響く。次第に照明は暗くなり、闇に包まれてもなお、衝突の音は響き渡り続けた。



[撮影:井上嘉和]

ここには一切のドラマが用意されていない。「身体的な負荷をかけ続けることで逆説的に輝き出す身体」とか、「倒れても倒れても立ち上がろうとする生命の力強さ」といったストーリーがないのだ。スポーツ観戦に「感動する」回路や「災害から立ち上がる人間の強さ」といった物語に回収されることを拒んでいる。彼らが床に我が身を打ち続ける過酷なパフォーマンスは、「身体」がそうした(資本や国家の)物語へと回収され、搾取されることへの「抵抗」としてなされたのではなかったか。

2018/11/23(金)(高嶋慈)

君は『菫色のモナムール、其の他』を見たか?─森村泰昌のもうひとつの1980年代─

会期:2018/11/03~2019/01/27

モリムラ@ミュージアム[大阪府]

大阪の北加賀屋にオープンした、森村泰昌の美術館「モリムラ@ミュージアム」の開館記念展。北加賀屋はかつて造船業で栄えた地域だが、近年は元造船所の広い空間や敷地を活かした展示や舞台公演の開催、アーティストの活動拠点化など、アートによる活性化が進む。森村は、家具店のショールームだった築40年の建物をリノベーションし、フロア面積400㎡の美術館として生まれ変わらせた。

外観は平凡な事務所だが、2つのホワイトキューブの展示室に加え、本格的な座席を備えたミニシアター、開放感のあるライブラリー、グッズや書籍を揃えたミュージアムショップを有し、美術館としての機能をコンパクトに備えている。古い商店のガラス戸や森村の実家の茶屋で使用されていた茶箱が什器として使われるなど、新旧が同居する空間だ。

本展の1室では、森村が扮装のセルフポートレート作品を制作するようになってから初めての個展「菫色のモナムール、其の他」(1986年、大阪のギャラリー白)を再現した。ロダンの彫刻に扮した、身体性の強い作品が並ぶ。またもう一室では、出世作となった《肖像(ゴッホ)》(1985/89)に加え、マネの描いたベルト・モリゾ、伝説的ダンサーのニジンスキー、道路標識(!)に扮したセルフポートレート作品が展示された。巨大な《男の誕生》は、ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》に倣い、画廊主や同世代の作家3名と共演した珍しい作品だ。これらのカラー写真作品とともに、80年代前半に手がけた作品(カトラリーや卓上のオブジェを構成主義風に写したモノクロ写真、抽象的なシルクスクリーン作品、デザイナーとして手掛けた美術館のポスターなど)が並び、「スタイル」を確立するまでの模索時期/確立初期の作品群が一堂に会している。

「80年代」が森村にとっては多様な方向性を試す模索時期であったとともに、ロダンの男性像やニジンスキーといった対象の選択には、「身体性」への関心もうかがえる。森村自身は、ミニシアターで上映された《モリムラガタリ・80’s》で、むしろ時代の雰囲気から齟齬やズレを感じていたこと、80年代に作った作品だがアンチ80年代であると語っている。だが、例えばニジンスキーに扮した彼が、金色に塗られた「コンバースのハイカットシューズ」を履くといった身振りのなかに、80年代における消費社会の到来や個人の嗜好のブランド化に対する批評性を見てとることができる。

関連レビュー

ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/11/11(日)(高嶋慈)

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