artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
ディミトリス・パパイオアヌー『TRANSVERSE ORIENTATION』
会期:2022/08/10~2022/08/11
ロームシアター京都 サウスホール[京都府]
2019年の初来日で反響を呼んだ『THE GREAT TAMER』に続く、ギリシャ人演出家ディミトリス・パパイオアヌーの最新作の日本ツアー。台詞が一切ないまま、ギリシャ彫刻のように鍛え上げられたダンサーの身体美により、西洋美術や聖書、ギリシャ神話を思わせるイメージが次々と「活人画」として美しくもナンセンスに展開する魔術的なトリックは本作でも健在で、(後述する「開口部」の存在も含め)続編的といえる。タイトルの「TRANSVERSE ORIENTATION」とは、「蛾などの昆虫が、月などの遠方の光源に対して一定の角度を保ちながら飛ぶ感覚反応」を指し、光源が近距離の人工の光に替わると、角度が狂うという。
本作は2種類の「光(源)」の演出が印象的だ。舞台装置は一見シンプルで、上手側にドアと水道の蛇口、下手側の高所に1本の蛍光灯が付けられた横長の「壁」が設置されている。無機質な青白い光を放つ蛍光灯は、警告を発するようにバチバチと音を立てて明滅を繰り返し、何度も「修理」される。一方、オレンジ色の光で舞台を満たす投光機が台車に載せて運び込まれ、ダンサーたちのシルエットを動く「影絵劇」として変容させ、何度も観客席に向けて投射され、見る者の目をまばゆく眩ませる。光/影の対比、無意識の闇に対する理性としての光、その危機的失調、イリュージョンを生み出す光(源)など、本作のテーマが凝縮される。
[© Julian Mommert]
『THE GREAT TAMER』では、ベニヤ板を張り重ねた「舞台」の上で西洋美術史や聖書、神話から抽出したイメージが「白人の身体(ヌード)」によって演じられる一方、その「ヨーロッパの歴史的地層」のあちこちに開けられた「穴」「開口部」から、バラバラ死体や骸骨などグロテスクなイメージが噴き上がり、「ヨーロッパの抑圧された下部」を示唆していた。本作でも、「壁のドア」の向こう側から、「極端に小さい頭とひょろりと長い腕をもつ真っ黒な人間(?)たち」「スーツ姿に牛の頭部をもつミノタウロス」といった奇妙な者たちが「光の照らすこちら側」にやって来る。あるいは、ドアを開けると、向こう側は巨大な白い石を積み上げた壁で塞がれ、その「石」がこちら側に人間もろとも延々と吐き出され、奔流となって飲み込んでしまう。垂直から水平に置き換わったこの「ドア」は、「ヨーロッパ」という「理性の世界(光)」が抑圧してきた「無意識」「暗部」「異界的狂気」への通路なのだ。
また、『THE GREAT TAMER』と同様、上半身+下半身、右半身+左半身を「合体」させたダンサーによる「両性具有者」「半人半馬のケンタウロス」や「男性の人魚」といったジェンダーや種の境界を撹乱する身体が跋扈する。牛頭人身のミノタウロスは剣を持った男(テセウス)に「断首」(=去勢)されるが、後半でテセウスは、腕に抱えた牛頭から舌の愛撫を受けて悶絶する。
[© Julian Mommert]
ただ、前作以上に強く感じたのは、「ヨーロッパの精神文化が(真に)抑圧してきた二項対立かつ非対照的なジェンダー構造」はむしろ温存され、男性中心主義的視線がより強化されている点だ。ブラックスーツに身を包み、匿名化・均質化された男たちと、癒しであり欲望の源泉でもある「水」を与える神聖化された(唯一の)女性。男たちの集団は「巨大な黒牛」のシルエットと同化し、脚や尻尾を本物の牛のように操りながら、「闘牛」「野生の調教」に従事する。一方、荒ぶる牛の背に全裸でまたがり、股間の果実を裸の男に与える女は、エウロペかつエヴァであり、「男に略奪される女/男を誘惑する女」という両極に定型化されたイメージを二重に身にまとう。老いて太った全裸の女が杖をつきながらゆっくり舞台上を横切り、ドアの向こうに姿を消した一瞬後、ドアが開くと「均整の取れた肢体の若い女」に入れ替わっているシーンはマジカルだが、なぜ、女性のみ、「老/若」「醜/美」の対で眼差されるのか。
母乳か精液か判然としない白い濃密な液体を滴らせる聖母。「生きた噴水彫刻」として男たちのグラスに水を与える女性像。「水と女性」という定型化されたテーマは終盤、アングルの《泉》のように水を床に落下させ続ける女に変奏され、やがて水もろとも「床の下」に姿を消してしまう。スーツの男たちが床板を剥がすと、島影の映る美しい海景が現われる。照明が星のまたたく夕凪ぎの海を出現させ、スーツを脱いだ裸の男がその光景を見つめ続ける。舞台を文字通り支える物理的基盤であると同時に、イリュージョンを支える透明化された基盤が剥がされるが、その「イリュージョンの崩壊」自体が「幻想的な夕暮れの海景」という別のイリュージョンをつくりだす。だがそれさえも、「壁のドア」を開けて去っていく裸の男によって、文字通り亀裂を入れられる。上演中、常に「こちら側」に向けて開けられていたドアは、ラストで初めて「向こう側」の暗闇に向かって開かれた。(危険な)ドアは開け放たれたままだ。だが、(強固に蘇る)イリュージョンを自己破壊し、通路を自らの手で開いた「彼」は、「向こう側の抑圧された世界」とは何であるかに本当に気づいていただろうか。
[© Julian Mommert]
[© Julian Mommert]
関連レビュー
ディミトリス・パパイオアヌー『THE GREAT TAMER』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年08月01日号)
2022/08/10(高嶋慈)
井上裕加里「Women atone for their sins with death.」
会期:2022/07/30~2022/08/07
KUNST ARZT[京都府]
戦前に広島に渡り被爆した在韓被爆者、終戦による「国境線」の引き直しによって故郷から分断された日韓の女性たちの個人史、ルールの服従と排除による「集団」形成のプロセスの可視化。井上裕加里はこれまで、東アジアの近現代史や共同体の境界線を批評的に問い直す作品を発表してきた。
「死をもって罪を償う女性たち」というタイトルの本展では、イランおよび隣接するパキスタンで起きた「名誉殺人」をテーマとする写真作品を発表した。ともにイスラム共和国である両国では、女性の人権に対するさまざまな制限に加え、「貞節」を守るべしという性規範に抵触したと見なされた女性が、「家族の名誉を守る」という理由で父や兄弟によって殺害(惨殺)される「名誉殺人」がしばしば起きている。
日本とイラン。地域的・宗教的な隔たりを架橋する仕掛けが、ギャラリーの扉の表/裏にそれぞれ掲示された両国の「女性専用車両」のサインだ。公共空間において男女を厳格に分ける宗教的要請に基づき法制化されているイランとは異なり、日本では「女性専用車両」に乗車するかどうかは個人の選択だが、設置の背景には痴漢の性被害に合う「公共空間」の非安全性がある。井上は、「女性専用車両」のサインを「公共に開かれた安全な空間」であるべき展示空間にインストールすることで、表現の現場調査団による『「表現の現場」ハラスメント白書2021』が明らかにしたように、ギャラリーや美術館もまた、「性差別的発言」「男性観客による執拗なつきまとい」といった性被害に脅かされる「安全ではない」空間であることを突きつける。
ギャラリーの扉(表側)の展示風景
ギャラリーの扉(裏側)の展示風景
そして、扉の内側には、「名誉殺人」の事例を人形で再現した写真作品計7点が並ぶ。被写体に用いられたのは、「Fulla(フッラ)」という名前の中東・イスラム版のバービー風着せ替え人形。褐色がかった肌、黒い目、ヒジャーブ(スカーフ)の下は黒髪だが、目鼻立ちやスレンダーな体型はバービーを思わせ、「アラブ美人」のステレオタイプ化という点でも興味深い。井上は、衣装の何着かを手作りしたフッラ人形とともにイランに渡航し、現地の路上で「再現シーン」を撮影した。添えられたテクストには、各事件の経緯が記される。女性性をアピールする写真やリベラルな発言をSNS上で公開し、パキスタン初のソーシャルメディア・スターと呼ばれたモデルのカンディール・バローチは少し異色だが、彼女以外は10代の少女で、「父親の反対する男性とつきあった」「親族ではない男性と通話した」「出席した結婚式で異性の前で歌い踊った」「バイクの少年を二度振り返って見た」といった行為を理由に殺害された。
井上裕加里《Case Pakistan -3 “named as Bazeegha, Sereen Jan, Begum Jan and Amina”》
井上裕加里《Case Pakistan -5 “Anusha”》
これらはいずれも、実の父親や(義理)兄弟による「家庭内殺人」である。ここに、単に「イスラム教の怖い国」「人権意識の遅れた地域」と切り捨てられない、DVとの構造的類似性がある。すなわち、妻や娘、姉妹は家長(男性)に従属する所有物であり、(性の)管理の対象と見なす家父長制的支配構造だ。自分の意のままに従う、意志も声も持たない受動的な人形。男たちには、娘や妹がまさにこのように見えていた。井上による「再現シーン」は、「殺害現場」そのものの再現ではないが、「男たち自身が見ていたビジョン」の再現という意味で恐るべきイメージである。そこでは、「理想美の造形化」に加えて、「家父長的支配者である男性にとっての規範的女性像」として、女性たちの身体は二重にモノ化されているのだ。
展示風景
公式サイト:http://www.kunstarzt.com/Artist/INOUEyukari/iy.htm
関連レビュー
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2022/08/06(高嶋慈)
表現の不自由展・京都 KYOTO 2022
会期:2022/08/06~2022/08/07
京都市内[京都府]
「あいちトリエンナーレ2019」にてSNSでの炎上、電凸、脅迫を受けて開催3日で中止に追い込まれた「表現の不自由展・その後」。会期終盤の一週間、抽選制で再開したが、文化庁の補助金不交付問題における政治家の圧力、歴史修正主義や性差別主義に支えられたナショナリズム、社会的分断などさまざまな傷痕と課題を示した。
一方、「表現の不自由展・その後」の「その後」といえる動きが、あいトリ以降も国内外で展開している。2019年12月~翌年1月には韓国・済州島の済州4.3平和記念館で、2020年4月~6月には台湾の台北當代芸術館にて開催された。また、2021年には、東京展に加え、名古屋・京都・大阪の有志によるグループが、東京展の実行委員会の協力の下、各地での展示を計画した。だが、右翼の妨害や郵便物破裂のため、予定通りに開催できたのは大阪展のみだった。
2022年は4月に東京、8月に京都と名古屋、9月に神戸で開催された。筆者は、あいトリでの鑑賞予定日が中止決定と重なり、再開時は抽選に外れ、昨年の大阪展では整理券配布終了のため、実見するのは今回の京都展が初となる。事前申し込みで50分毎の入れ替え制がとられた。一ヶ月前の安倍元首相銃撃事件もあり、会場入り口や周辺は警察が厳重に警戒し、封鎖された道路周辺では右翼の街宣車が「不自由展を粉砕せよ」と怒号を上げ続けた。
京都展の参加作家数はあいトリとほぼ同じだが、半数が入れ替わっている。「平和の少女像」は彩色された等身大のFRP製の像のみでブロンズ製ミニチュアは出品されず(実際に東京都美術館で展示拒否されたのは「ブロンズ製ミニチュア」の方)、大浦信行の出品作は版画の《遠近を抱えて》のみで映像作品はない。また、あいトリからの継続組の小泉明郎と岡本光博は新作を出品。小泉は、天皇の報道写真をキャンバスにプリントし、SNSの投稿写真の「背景補正」のレタッチのように、天皇の写った部分に「仮想の背景」を描き重ねて透明化させ、空気のように見えづらく内面化された天皇制を可視化する「空気」シリーズの新作を展示した。
会場風景
小泉明郎《空気 #20》(2022)
岡本は、あいトリでの不自由展中止の新聞記事と、昨年の大阪展で抗議活動した街宣車をミニカーで「再現」したものを組み合わせるなど、自作を含む展示拒否の事例をドキュメントとミニチュア化で提示する「表現の自由の机」シリーズを展示した。ろくでなし子の有罪確定を報じる記事と「まんこちゃん」人形のコピーを組み合わせた作品や、済州島に設置された「平和の少女像」の肩にとまる鳥を3Dスキャンで複製して鳥かごに閉じ込めた作品は、「著作権」と「わいせつ」という不自由展では扱われてこなかった検閲トピックを示す。これら小泉と岡本の新作は、「実際に展示拒否された作品」ではないが、同展の継続性を「バージョンアップ」として示す意義を持つ。
岡本光博《r#304表現の自由の机6》(2022)
一方、もう一つの「バージョンアップ」が、丸木位里・赤松俊子(丸木俊)、赤瀬川原平、山下菊二、新潟の前衛美術グループ「GUN」の中心メンバーだった前山忠という戦後美術史を召喚し、「検閲」「規制」を歴史的文脈の広がりのなかで捉える視点の提出である。「千円札裁判」での有罪判決を受けて赤瀬川が制作した、批判精神とウィットに富む《大日本零円札》(1967)。軍服姿の昭和天皇の写真や背広姿の似顔絵を砲弾やチャップリンの写真とコラージュした山下菊二の《弾乗りNo.1》(1972)。「カンパ箱」が美術館側の撤去の対象となった前山忠の反戦旗は、字体とあいまってベトナム戦争の時代感を伝えるが、2022年のいま、ウクライナ侵攻への抗議として回帰するように見える。そして、丸木夫妻が占領期に制作した絵本『ピカドン』(1950)は、GHQによる事後検閲で発行禁止となった。現在も読み継がれる絵本だが、占領軍による検閲の事例は、検閲主体の多様性とともに、「何がだめと判断されるのか」が恣意的であることを示す。
前山忠《反戦》シリーズ 反戦旗、「反戦」(当時の展示写真)、「カンパ箱」(1971)
丸木位里・赤松俊子(丸木俊)『ピカドン』(1950)
「美術館や公的施設における検閲や規制について実作品とともに考える」というのが不自由展の当初のコンセプトだが、会場の「外」から見ている限りでは、「右翼の攻撃VSカウンター」というネット上での攻防をリアルの場に可視化する事態へと変質したように映る。だが、妨害による延期や中止を乗り越えて開催された本展は、時代や判断主体による検閲事例の多様性と恣意性を示し、継続による深化を示していた。
表現の不自由展 公式サイト:https://fujiyuten.com/
2022/08/06(高嶋慈)
あごうさとし×中西義照『建築/家』
会期:2022/07/29~2022/07/31
THEATRE E9 KYOTO[京都府]
個人住宅の設計を手がける建築士の夫(中西義照)と、住まい方アドバイザーとして家づくりのソフト面を担当する妻(中西千恵)。公私ともにパートナーである二人が出演し、「もし自分たちの理想の家を建てるとしたら」というプロセスを会話で構築していく演劇作品。クレジットに「作|中西義照、中西千恵」、「演出|あごうさとし」とあるように、実在する更地を二人が見に行き、「この土地に家を立てるとしたら」という仮定の下で交わした会話がベースとなっている。出発点はフィクションだが、「家」を起点に、普段のそれぞれの仕事内容、互いを尊重し合う二人の距離感、「何を大切に生きるか」という人生観、子どもの成長や親の認知症など「家族」を取り巻く時間の流れを垣間見せる点ではドキュメンタリー演劇ともいえる。また、省エネ住宅の設計の基準値からは、個人の住宅というミクロな視点を通して、地球環境という大きな射程が見えてくる。
演出家のあごうは、実際のフリーアナウンサーが出演する前作『フリー/アナウンサー』において、個人史と「日本におけるアナウンス史」を交差させつつ、「個人の自由な意見を封じられたフリーアナウンサー」をどう抑圧から「解放」し、「個人の声」を回復できるかという希求を提示していた。「建築家」という単語がスラッシュによって「建築」と「家」に分断されつつ結合するタイトルに加え、実際の職業人が本人として出演する本作は、『フリー/アナウンサー』の延長線上にあり、続編ともいえる。
[撮影:金サジ]
上演は、何もない舞台空間=文字通りの「更地」から始まる。約60坪のこの更地は、比叡山の中腹に広がる住宅地にある。二人の発想が独創的なのは、「家」の設計にあたり、「好きな木をどこに植えたいか」という植栽計画の妄想から始まる点だ。紅葉が楽しめ、夏は日よけ/冬は日差しを室内に取り込む落葉樹に、実のなる木。「森に包まれた家」というコンセプトから、敷地の四隅に木を植え、ガラス壁を多用した十字架型の間取りになった。生活導線、それぞれの仕事場の確保と居心地良さのバランス。「ソフト面」を決めるプロセスでは、妻の投げかけが会話を主導していく。
一方、中盤では、夫が建築士の視点から、「パッシブハウス」(太陽光や通風を利用して温度調節し、住み心地の良さを追求した省エネ住宅)の設計思想と、外壁から逃げる熱や気密性の数値の基準について解説し、「計画中の家」についても数値をシミュレーションする。その傍らでは、舞台スタッフによって平台や箱馬が積み上げられ、「家」が着々と建てられていく。
[撮影:金サジ]
[撮影:金サジ]
そして終盤では、この「家=舞台」の上で、営まれるであろう「二人の暮らし」が再現される。起床、家事、複数の案件を進める在宅ワーク、必ず一緒にとる夕食、「一人の時間」を大切にする食後の趣味の時間。合間を縫って、個室が多く暗くて寒かった「前の家」の記憶、「もっと気持ちのよい家で子育てしたかった」という後悔が語られ、季節の巡りとともに、子どもの独立や田舎の親の認知症など「不在の家族に流れる時間」が会話からのぞく。「家」は抑圧の装置ともなりうるが、ここに希望しか感じられないのは、(辛い)記憶のない「未来の架空の家」に向けられているからだろう。本作はその「建設プロセス」を、まさに舞台上にフィクションを立ち上げていく時間として提示する。
[撮影:金サジ]
「家」の設計とは、「どのように生きたいか」「何を人生で重視するのか」という自身の価値観や気持ちの言語化であり、そのプロセスを「対話」として提示した本作。「家づくりの顧客には、あまり話し合えていない夫婦もいる」という作中の発言は、本作の肝を逆照射する。そして、あごうの前作『フリー/アナウンサー』が、視聴者との一方通行の関係を解消し、「個人の声の回復」を「対話」へ向けて開くことを希求していたことを思い起こせば、本作は単に演出手法上の継続的発展にとどまらず、まさに「対話への希求」に応答していたといえる。
関連レビュー
あごうさとし×能政夕介『フリー/アナウンサー』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年07月15日号)
2022/07/30(高嶋慈)
岩坂佑史「Schism」
会期:2022/07/19~2022/07/24
KUNST ARZT[京都府]
自身の尿を和紙に塗り重ね、抽象的な濃淡の美しい絵画作品を制作している岩坂佑史。イメージが引き出されてくるまで30~50回ほど尿を塗り重ね、約2ヶ月かけて1枚を仕上げるという。逆に言うと、一枚の絵画の表面には、2ヶ月ぶんの作家自身の生が凝縮されていると言える。
「神聖化されたアート」への反逆や挑発として、排泄物や体液をメディウムに使用した作品はいくつも制作されてきた。例えば、反芸術の文脈では、精液を用いたマルセル・デュシャンの絵画や、缶詰にした自身の大便を同じ重さの金と交換したピエロ・マンゾーニの《芸術家の糞》(1961)がある。銅の顔料を塗ったキャンヴァスに放尿したアンディ・ウォーホルの《ピス・ペインティング》(1961)は、化学反応により飛沫の跡が青緑色を帯び、抽象表現主義の崇高性や男性的な英雄性を脱構築する。また、マーク・クインは、自身の頭部を型取りし、自らの血液を流し込んで凍結させた彫刻《セルフ》(1991)や、少女像の表面に動物の血を塗布した作品を制作している。
一方、岩坂の絵画は、スキャンダラスな挑発性よりも、日々の生の証を淡々と塗り込めたストイックさが際立つ。「かつて私の身体の一部だったもの」を塗り重ねた絵画からは、生の残滓がゆらめくように立ち昇る。黄土色のトーンを保ちながら一枚ごとに微妙に色あいが異なる絵画は、生の連続性と反復不可能な一回性を提示する。その意味で連想されるのは、版画家の井田照一が1962年から2006年に亡くなるまで、闘病生活を続けながら継続的に制作した「タントラ」シリーズだろう。概念的な世界図や瞑想のマインドマップを思わせる幾何学構造の画面に、一般的な描画材に加え、砂や小枝、鳥の糞など収集した自然物、卵や果汁、そして自身の尿や体液、皮膚や髪なども用いられ、病と向き合う自己の記録とも言える。経年変化による変色・腐敗・臭気は、癌による体調の変化や死に向かう肉体のアナロジーでもある。
会場風景
血液ほどドラマティックではなく、涙や汗のように象徴的な意味ももたず、精液のようにエロスや生命力の含意も持たず、凡庸な体液でありながら「汚い」と忌避される尿。それを「美」に転化する岩坂の絵画は、静かな狂気とラディカルな政治性を秘めている。ここで視点を変えれば、岩坂の絵画は、「日本画」の基底を静かに揺さぶる批評性をもつ。岩絵具を支持体に定着させる膠は「煮皮」が語源であり、獣や魚の皮や骨を煮て作られる。動物の体内組織が「美」を支える透明な基盤となる一方で、人間の体液はなぜ使ってはいけないのか。そうした倫理的問いがここにはある。
前回の個展では作品をアクリルで完全密封して展示したが、今回は剥き出しで展示。マスク越しでも作品に近づくと臭気が漂う。他者の身体と安全な距離を保ち、「異物」である他人の生理的身体や体臭を避けること。コロナ禍で私たちが慣れてしまった「安全性」「異物の排除」を侵犯する暴力性がまさに剥き出しで迫ってくる体験でもあった。
会場風景
2022/07/19(火)(高嶋慈)