artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022 梅田哲也『リバーウォーク』
会期:2022/10/13~2022/10/16
京都中央信用金庫 旧厚生センター[京都府]
1930年に建てられた元銀行の重厚な建築の各階を、時間差で案内されながら、光や音、物体の回転運動を用いた梅田哲也による空間への介入とパフォーマンスを目撃する体験型作品。観客は各階ごとに受け取るマップを手がかりに、どの部屋で何が起こっているのか、探検さながら進んでいく。
例えば、ある部屋では、ブラインドの下りた窓の前に用意された椅子に座ると、パフォーマーがブラインドを上げ、賑やかな交差点を見下ろす光景が無音の映像として切り取られる。「音楽室」と「残響室」とマップに書かれた部屋に入ると、分厚い緩衝材の壁に沿ってパフォーマーが「ア~」と発声しながら行ったり来たりし、その倍音のような響きは、ストロボ光の残像効果により波形の運動を視覚化したキネティックなオブジェと呼応する。給湯室ではお湯が沸かされ、「暗室」と名づけられた真っ暗な部屋では、カメラ・オブスキュラの内部にいるように小さな「のぞき穴」から外の光景が見える。やはり暗闇の元金庫だった空間に入ると、厳重な扉がパフォーマーによって閉められ、独房のような空間に閉じ込められるが、再び扉が開くと、一気に開放的な広い空間が広がる。レコードと扇風機という「回転運動」の装置を改造したオブジェが散在し、ノイズがアンサンブルを奏でる。屋上に上がると、(先ほど沸いていたお湯で淹れた)お茶がふるまわれ、京都タワーが見える眺望を楽しんでいると、手鏡に集めた「光」をタワーの展望台に送っている人がいる。展望台からも「チカッ」という光が一瞬またたく。一転して地下に降りると、暗い各空間に、即席ミラーボールやライトのモビールが孤独な回転運動を繰り広げ、あるいはライトを持ったパフォーマーの歩みとともに光のさざ波がゆっくりと空間を浸食し、異空間に迷い込んだかのようだ。
梅田は、1カ月前の『9月0才』でも、元劇場の市民会館を舞台に同様の体験型パフォーマンス作品を発表している。大ホールのある劇場棟と、演奏会場、結婚式場、宴会場や厨房など市民利用者向けの設備を備えた別棟を複雑な導線のもと行き来し、バックヤード、楽屋、屋上、裏階段も含む多様な空間をガイド役のパフォーマーとともに迷宮のように巡りながら、元劇場に残る記憶に触れていく。
一方、より建築の規模が小さい本作では、各階をつなぐ階段がひとつのため、順路は必然的に一本道となる。金庫や「残響室」など特異な空間もあるが、「元銀行の記憶」への言及は希薄で、美術館や元劇場ほど空間の強弱やドラマチックな対照性はない。ここで本作の肝は、「パフォーマーが時間差で部屋の扉を開けていく」仕掛けにある。「解禁」にともない、「次の部屋では何が待ち受けているのか」とひとつずつびっくり箱を開けていくような体験だ。ここでは、「タイムライン」が「部屋」単位で空間化され、「舞台芸術」が持つ時間構造が空間的に自己言及されている。建物全体を「幕」とすると、各階を「場」、さらに各部屋を「景」という舞台作品の構成単位に置換したと言え、建物の構造と舞台作品の時間単位がメタ的にリンクする。特に本作では「光」の仕掛けが印象的だったが、それを引き立てる真っ暗な「暗室」は、「暗転」に相当する。
梅田は過去のパフォーマンス作品でも、「劇場」「上演」に対する批評性を常に潜在させてきた。例えば、観客が船に乗船し、大阪市内の水路を下りながら船内や対岸での出来事やラジオからの実況を聴くパフォーマンス・ツアー『入船』では、「川の流れ」がまさに舞台作品のタイムラインのメタファーになる。同時に、同時多発性による「見逃し」「聞き逃し」のリスク、どこまでが事前に仕組まれた「演出」でどこまでが「偶然の出来事」なのかの境界の曖昧さは、「船の乗客」という「共同体」が共有すべき経験の同質性に基づく舞台芸術への批判として機能していた。また、『インターンシップ』では、音響、照明、オーケストラピット、可動式の客席など劇場の物理的機構をフル稼働させつつ、「舞台上に見るべきものは何もない」という壮大なスペクタクル批判それ自体が上演されていた。
四角いキューブとして分割された空間を「時間の分節」として体感させる本作もまた、単に「タイムラインの可視化」にとどまらない批評性が胚胎する。受付を済ませ、手荷物を預けて「開演」を待つあいだと「終演後」の時間、観客は1階の広い空間(元銀行のロビー)で過ごすのだが、足場が組まれ、バスケットボールのゴールや作業台が置かれたこの空間では、パフォーマーたちや梅田自身が常に「運動」や「作業」を繰り広げているのだ。手作りの「楽器」が鳴らされ、足場の金属パイプが叩かれ、天井から吊られた拡声器が回転しながら時報やノイズを繰り出し、梅田は物販のオリジナルTシャツにシルクスクリーンプリントを刷っている。ここでは、「常に何かが進行中」であり、「ツアー作品を上演中のほかの階」に物音が突然響き渡り、線的な時間の流れが聴覚的侵入で撹乱される。分節化されたタイムラインと、それを内部から侵食する緩慢な持続の時間。その2つの「時間」の態を拮抗させながら扱う本作は、「劇場」「上演」に対する梅田の批評的意識の継続的な展開を示していた。
公式サイト:https://kyoto-ex.jp/shows/2022_tetsuyaumeda/
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2022/10/15(木)(高嶋慈)
KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022
ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』
会期:2022/10/15~2022/10/16
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
タイの俳優、劇作家、演出家、プロデューサーであるジャールナン・パンタチャートが、タイと隣国のミャンマーの俳優たちと作り上げた多言語の演劇作品。荒唐無稽でゆるい雰囲気で始まるが、国家が基盤として欲する神話や伝説の虚構性、「神格化された絶対的権威」としての演出家を通した王室プロパガンダ批判、国籍・民族・言語といったアイデンティティと「役」の着脱(不)可能性など、さまざまなメタ批判を重ねていく。タイとミャンマーの歴史を古代から近代の植民地支配、そして現在の軍事クーデターへと駆け抜けた先に、「日本人観客」の消費の眼差しの倫理性を突きつける。重層的で非常に秀逸な作品だ(なお、ミャンマー/ビルマの表記の使い分けについて、本稿では、KYOTO EXPERIMENTでの表記に従った)。
会場に入ると、舞台上には、お土産用のいかにもエキゾチックなフィギュアが並べられ、モニターには絢爛豪華な寺院や青い海など「魅力的な観光地」のアピール映像が旅行会社の広告のように流れ、観客はまず「観光客」として迎え入れられる。また、上演前、観客=観光客は、舞台上を回りながら俳優が英語や日本語で「ガイド」を務める「ツアー」に参加できる(もちろん、「観光客のふるまい」として、写真や動画撮影は推奨されている)。
前半で展開されるのは、ジャールナン自身の「伝説的な半生」だ。民族衣装風の服装と儀式的なダンスを交えて語られる、桃太郎のように人間を逸脱した生誕。「賞を総なめにしたスーパー演出家」「どんな役でもこなせるスゴい俳優」「踊るだけで雨を降らせる伝説のダンサー」……。ジャールナンを崇拝する俳優たちは、トランプ前大統領の信奉者のようにおそろいの顔写真Tシャツに着替え、背後のモニターやスクリーンにはジャールナンの「神格性」を表現するふざけたCG合成映像が映る。だが奇妙なことに、俳優たちは誰もジャールナン本人に会ったことがないという。
「神のような絶対的権威」であるジャールナンへの崇拝と忠誠度を競い合い、互いに牽制しあう俳優たちの語りは、「誰がジャールナンの役を演じるのにふさわしいか」をめぐって口論に発展する。「神聖な役をビルマ人が演じるなんて」と発言するタイ人男優。「(マイノリティに)チャンスを下さい」と反論するビルマ人女優。「タイの王子と少数民族の娘の悲恋」の配役をめぐる議論でも、「国籍や民族をめぐる帰属」とマジョリティ/マイノリティの微妙なパワーバランスや差別意識が露呈する。次第に浮き彫りになるのは、4人の俳優自身のバックグラウンドの差異や複雑な対立構造だ。タイ人(3人)/ビルマ人(1人)という非対称性。タイ人どうしでも、方言の強い地方出身者、先祖が中国出身の華僑という細分化された周縁性がある。女優のひとりは臨月に近い妊婦だ。「妊娠してなければジャールナンの役がやれたのに」という台詞は、マタハラを示唆する。ひとつのシーンを終えるたびに何度も衣装を着替える俳優たちは、国籍・民族・文化・言語的アイデンティティと「着脱可能なものとして役を演じること」との齟齬をメタレベルで上演している。さらに会話には、タイ語、ビルマ語、少数民族の言語、英語、フランス語が混じり合い、植民地支配の歴史が影を落とす多言語状況が浮かび上がる。このようにして、おそろいの顔写真Tシャツが可視化するように「ジャールナンへの崇拝と忠誠」によって形成される「共同体」の内部に分裂や亀裂が出現し、「近代国民国家の均質性」が揺さぶられていく。
後半では、写真や映像で繰り返し偶像化される「ジャールナン神話」はいつのまにか消えてしまう。代わりに語られるのは、男装して象に乗りビルマ軍と戦ったタイ王妃、植民統治下のビルマの不条理さを描いたジョージ・オーウェルの『象を撃つ』、独立後に繰り返される軍事クーデターという近現代史の断片だ。「村民の殺害を命じられた」という証言は時代や場所が曖昧化され、暴力や迫害の反復や遍在性を示す。2021年にミャンマーで起きた国軍によるクーデターに対し、2014年の軍事クーデターで成立したタイ政権は非難声明を出さなかったこと。
本作の特徴である、一見脈絡のない断片的な語りは、国民国家の統合手段である「整合的で一貫したナラティブとしての歴史」への抵抗でもある。そして、途中でどこかへ消え失せた「絶対的権威として君臨するジャールナンの偶像」は、演出家の権力性への自己批判であるとともに、「タイ国家が統治の手段として国民にばらまく国王の御真影」「軍事政権のトップ」へと姿を変えて回帰してくる。
そして、俳優自身が親族や知人が軍事政権の弾圧を受けた当事者であることが語られる終盤、「現実の政治」がフィクションの領域を突き破って、一気に観客席に侵入してくる。冒頭、「気楽な観光客」として歓待された私たちは、舞台上の当事者たちにどのように向き合えばよいのか。現実の弾圧状況も、あなたたちは観光客と同じ眼差しで「消費」してしまうのかという倫理的問いを本作は突きつける。この問いを補強するのが、一見、「催涙弾の煙の立ち込めるデモ現場」に見える映像をスクリーンに投影する仕掛けだ。この映像は、実は、舞台前面に置かれたアクリルボックスに、チープでキッチュなお土産のフィギュアを閉じ込め、中でスモークを焚きながら「中継」されている。あなたたち観客は「観光客と同質の消費の眼差し」を内在化しているのではないかという無言の非難。あるいは、「舞台上にあふれる演出家の偶像」を通して「王室プロパガンダ批判」を繰り広げる本作が投げかける、「いかにイメージが信用できないか」という視覚の制度への批判。
このように、重層的な仕掛けで、(観客を含む)アイデンティティの差異や分断、視線の政治性を鋭く問う本作だったが、それだけに、日本語タイトルには疑問が残った。邦題では『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』だが、原題は『I Say Mingalaba, You Say Goodbye』と異なる。「Mingalaba」はビルマ語で「こんにちは」にあたる挨拶の言葉だ。「Mingalaba」と挨拶する「I」とは誰で、「Goodbye」と英語で返す「You」とは誰か? ビルマ語で挨拶したビルマ人と、「支配者の言語」で返すイギリス人か。「支配者の言語」を身に付けた植民地エリートとの、ビルマ内部の分裂なのか。あるいは、「片言の相手の国の言葉」で挨拶して心理的距離を縮めようとする「よき観光客」に対し、「グローバルな言語」で応対するビルマ人なのか。「他者」との埋められない距離やすれ違いを原題は端的に提示するが、邦題はその複雑なニュアンスを捨象してしまった(あるいは、このカタカナの並列化には、あらゆる差異をフラットに均してしまう日本の均質性という暴力が表出しているともいえる)。「個人」として出会っても、既に背負ってしまった先入観やステレオタイプな他者イメージにより、私たちはそのつど出会い損ねてしまう。それでも、さまざまに帰属の異なる者どうしが舞台上に集う本作には、やはり演出家の希求が込められている。
公式サイト:https://kyoto-ex.jp/shows/2022_jarunun_phantachat/
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2022/10/15(土)(高嶋慈)
KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022
フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』
松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ『女人四股ダンス』
ロームシアター京都 サウスホール、THEATRE E9 KYOTO[京都府]
「美」という絶対的権威の下に女性の身体を搾取・消費してきたバレエの制度に対し、ポルノ・サーカス・フリークショー・スタントの猥雑さやキッチュさを総動員して過激なアンチを突きつけるフロレンティナ・ホルツィンガーの『TANZ(タンツ)』。月経の理不尽さや痛みをコントロールするために、相撲の四股を参照した新たな「儀式」を開発する松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロの『女人四股ダンス』。本稿では、「女性の身体の表象/不可視化されるもの」「身体の鍛錬・改造」「“痛み”をどう肯定的に取り戻すか」という共通項から、この2作品を取り上げる。
ウィーン出身の気鋭の振付家、フロレンティナ・ホルツィンガーは、KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭2021 SPRINGで映像上映された『Apollon』においても、バレエとフリークショー、ボディビル、マシン・トレーニング、スプラッター、SMプレイ、スカトロを接続させ、全裸の女性パフォーマーによる血みどろの饗宴を通して、「規範的な美」「男性のポルノ的欲望の視線」の拘束からの解放を提示した。『Apollon』というタイトルは、1928年に同名のバレエ作品を振付け、バレエ界に父として君臨するジョージ・バランシンを示唆する。作中で『スター・ウォーズ』のパロディが示すように、「悪役かつ絶対的存在である父(=ダース・ベイダー/バランシン)」を女性たちが倒すというストーリーが、さまざまな身体鍛錬や「逸脱的」な快楽のプレイを通して描かれる。
一方、三部作の最後を飾る『TANZ』が下敷きにするのは、19世紀ヨーロッパのロマンティック・バレエ。儚く美しくこの世のものではない「妖精」を表現するために、トゥシューズを履く苦痛を女性だけに与え、ポワント(爪先立ち)で重力を感じさせない軽やかさを求め、実際に吊り物の使用で「飛翔シーン」が演じられた。ロマンティック・バレエの構成を踏襲し、二部構成の本作では、第一幕で「老いた女性教師が指導するバレエのバーレッスン」が展開する。ただし、女性教師は全裸。「暑いでしょ」と言われた生徒たちも次々と服を脱ぎ、全裸でのバーレッスンが淡々と続く。脱衣の指示にも「型の習得」にも従順に従う生徒たち。「教師による生徒の支配」を通じての、「(バレエのポジションという)規範的身体の獲得」という二重の身体の支配があぶり出される。だがそこに、サーカスの曲芸、マジック、スタント、フリークショーなど「ハイアートの領域外」が召喚され、スペクタクルとしての同質性を暴くと同時に、生徒たちは、トゥシューズとポワントに依存しない「超人的な飛翔能力」を試み始める。お団子に縛った髪で身体を吊るワイヤーアクション。回転する宙吊りのオートバイにまたがり、脚や腕だけで身体を支えるパフォーマーは、「危険なアクションをこなすスタントマン」というジェンダー規範を転倒させつつ、「バイクにまたがり腰を振る美女」というポルノの定番を示し、崇高さもまとう。
生徒たちが魔女やオオカミに姿を変え、血みどろの饗宴と惨劇を繰り広げる第二幕のハイライトは、肩甲骨辺りの肉に巨大な鉤針を貫通させてワイヤーで吊る、衝撃的な「空中浮遊」だ。ただし、女性たちの「勝利のポーズ」で終わる『Apollon』と比べ、ラストは皮肉。狂乱の末、魔女もオオカミも老教師も血糊まみれで死ぬが、何事もなかったかのように再びバーレッスンが開始される。「規範的身体の鍛錬」はそれほどまでに深く内面化されているのだ。
一方、リサーチを元に、レクチャー・パフォーマンスとダンスを融合させる松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロの『女人四股ダンス』が扱うのは月経。近年、「生理の貧困」が構造的問題として指摘され、自治体や学校でのナプキンの無料配布や、女性の心身の不調をテクノロジーで解決を目指す「フェムテック」の商品開発が進み、月経についてオープンに語られる機会が増えてきた。だが、「舞台公演と月経」の関係は「ない」ことにされてきたのではないか。本作の出発点は、松本自身が、昨年のKEXでの公演を月経中の身体で踊った体験だ。月経=血の持つエネルギーを想像し、集めたエネルギーで大地を踏みしめ、増幅させる。かつて月経中の女性を隔離した「月経小屋」の目的が「月経で失われる霊的エネルギーの回復」でもあったことと、古来より邪気をはらう「足踏み」の儀式性を融合させた。もちろんここには、「月経」というまだ社会に根強いタブーと、「女性が大相撲の土俵に上がる禁忌」という、2つのタブーが重ねられている。
月経についての知識の問い、松本とゲスト出演者(内田結花)の「月経日記」を交えながら、股を開き、力強く地面を踏みしめる四股のムーブメントがひたすら繰り返される。もう一人の男性出演者(美術家の前田耕平)の参加に加え、2人の「月経日記」の朗読は月経の個人差や時期による症状差を示す。言語化の作業と同時に、「理不尽で共有も困難な痛みをどう想像するか」を徹底して身体化して落とし込んだ。
舞台上で不在化されてきた「月経中の身体」に対し、「女性の身体美の規範化」「制度化された大文字の芸術」の背後で不可視化されてきたものとして『TANZ』が暴くのが、男性のポルノ的な欲望の視線だ。チュチュという覆いを取り去り、開脚や脚を高く上げる全裸のダンサーたちは、「美しい」とされるポジションがポルノと同質であることを突きつける。四つん這いで開脚し、一列に並ぶダンサーたちの「ヴァギナの品評会」を老教師が行なうシーンは、その真骨頂だ。「男性不在」の本作だが、「教室」という舞台設定は、「教師と生徒」というヒエラルキーによる規範の再生産構造を提示する。
そして両作とも、「身体の鍛錬」を通して、ジェンダーの不均衡な構造下でこれまで声を与えられず、「ない」ことにされてきた「理不尽な痛み」にどう向き合い、どう肯定的に自身の手に取り戻すかという強い意志に貫かれている。特に『TANZ』における「肉に貫通させた鉤針で身体を吊る空中浮遊」のシーンが象徴的だ。纏足やコルセットにも通じる、「美」という大義名分に奉仕させられた、トゥシューズで足を痛めつける苦痛。一方的な消費の眼差しで搾取されてきた「痛み」。その両方の痛みを、現実に血を流す肉体の「痛み」でもって自分自身の手に取り戻すこと。「空中浮遊」を支えるワイヤーは、ほかの女性パフォーマーたちの手で支えられている。物理的なリフトも、「男性の視線」にもよらずとも、自分たち自身の力でこんなにも優雅に力強く「翔べる」ことを宣言していた。
公式サイト:https://kyoto-ex.jp
フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』
会期:2022年10月1日(土)~10月2日(日)
会場:ロームシアター京都 サウスホール(京都府京都市左京区岡崎最勝寺町13-13)
松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ『女人四股ダンス』
会期:2022年10月8日(土)~10月10日(月・祝)
会場:THEATRE E9 KYOTO(京都府京都市南区東九条南河原町9-1)
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フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』上映会|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年04月15日号)
2022/10/10(月)(高嶋慈)
手話裁判劇『テロ』
会期:2022/10/05~2022/10/10
神戸アートビレッジセンター[兵庫県]
ドイツの小説家/弁護士のフェルディナント・フォン・シーラッハによる観客参加型の裁判劇『テロ』を、「ろう俳優(手話)と聴者の俳優(発話)による2人1役で演じる」という意欲作。『テロ』は2015年の発表直後からドイツで大きな反響を呼び、翻訳も刊行されている(東京創元社、2016)。この裁判劇が描くのは、「乗客164人を乗せた旅客機をテロリストがハイジャックし、観客7万人で満員のサッカースタジアムに墜落させようと目論んだが、緊急発進した空軍少佐が独断で旅客機を撃墜した。乗客164人を殺して7万人を救った彼は有罪か? 無罪か?」という難問だ。さらに、「判決」は観客の投票によって決定され、有罪と無罪、2通りの結末が用意されている。この問題提起的な戯曲を、字幕や「舞台端に立った手話通訳者」という従来の補助的な情報保障ではなく、「手話と発話のペアで一つの役を演じる」という形でバリアフリー上演のあり方そのものの大きな更新を試みた(なお、字幕も併用されている)。演出は、「ももちの世界」主宰の劇作家・演出家のピンク地底人3号。
『テロ』が提示するのは、「大量殺人を未然に防ぐためなら、“より少数の命”の犠牲は認められるのか?」という倫理の問題だけにとどまらない。裁判長、検察官、弁護人、被告人、証人のやり取りを通して、さまざまな問題提起が浮かび上がってくる。作中では、9.11のテロを受け、緊急事態には国防大臣の判断による武力行使を容認し、ハイジャック機の撃墜もやむなしとする「航空安全法」が制定されたが、ドイツの最高裁判所で違憲判決が出されたことが描かれる。この判決に対し、元国防大臣は、ハイジャック機の撃墜を命じる超法規的措置の必要性を発言した。国家による殺人の正当化、法の遵守と人命の尊厳。ハイジャック発覚からスタジアムへの墜落予定時刻まで52分と、避難には十分な時間があったにもかかわらず、誰もスタジアムからの観客の避難指示を出さなかった空軍幹部の無責任さや無能さ。「飛行機の乗客は自分がテロに遭う可能性に承諾している」と主張する被告の自己責任論。
そもそも、裁判と演劇は親和的で、「裁判劇」はメタ演劇でもある。法廷=舞台、傍聴席=観客席という二重性。過去の事件の「言葉による再現」。さらに本作では、観客が「参審員」(ドイツの裁判では一般市民が任期制で審理に参加する)となって評決に一票を投じる。観客を傍観者ではなく、裁判の当事者に巻き込むこの仕掛けは、メタ演劇性を強調すると同時に、「上演」の結末自体を決める力を委ねることで、より大きな意味を持つ。法廷での審理=社会の縮図とすると、投票という仕組みを上演に組み込むことは、民主主義の機能に対する信頼と希求でもある。「この社会がどうあってほしいか」方向性を決めて変えることができる力を一人ひとりが有していること。同時に、「自分とは異なる(真っ向から対立する)意見をもつ他者が同じ場にいること」を否応なく可視化させる。
では、この戯曲を「ろう俳優による手話劇」として上演する必然性とは何だろうか。演出のピンク地底人3号は、ろうの母親とコーダ(聴覚障害者の親を持つ聴者の子ども)の息子を軸に描いた『華指1832』(2021)で初めて手話劇に挑戦した。『華指1832』では、基本的に、聴覚障害者の役をろう俳優が手話で演じ、聴者の役を聴者の俳優が手話と発話の併用で演じていた。一方、本作では、「ひとつの役を、ろう俳優(手話)と聴者の俳優(発話)のペアで演じる」という実験的な形式を試みた。この形式の採用は、「字幕や舞台端の手話通訳だと、舞台上の俳優の動きを同時に追いにくい」という技術的な問題の解決にとどまらず、戯曲そのものに対して、以下の2方向の批評を加えていたといえる。
ひとつめは、検察官の台詞が端的に示すように、「より多くの人の命が救える場合、もう一方の命を放棄することは許されるのですか?」という問いに関わる。この問いは、「有罪の判決文」で裁判長が判例として挙げる、難破船での殺害事件に変奏される。船長と水夫の3人は、より立場が弱く、孤児で、脱水症状で余命わずかと思われる給仕係の少年を殺害し、人肉を食べることで生き残った。ここに圧縮されるのは、「より多くの成員を生かすために、コミュニティで最も弱い者を殺すことは正当化されるのか」「社会的弱者は全体の犠牲になってよいのか」という戯曲の核心だ。だが、健常者の俳優だけで上演すれば、「結局、マジョリティだけで言っている正論」になってしまう。本作では、ろう俳優に加え、全盲の俳優などさまざまなマイノリティが出演することで、戯曲の核と意義がよりクリアに浮かび上がった。
また、「2人1役」は、1人の人物の二面性や複雑な両面性を示唆するという演出的効果ももたらした。例えば、同じ役を、感情を露にする片方の俳優と、押し殺した表情で演じる俳優は、「理性と感情」の相克を示す。また、筆者の観劇回は「有罪判決」だったが、判決が言い渡されたラストシーンで、被告のひとりはがっくりとうなだれ、もうひとりがその肩にそっと手を置く。理性と感情、俯瞰的に冷静視しているもうひとりの自分、あるいは良心。「2人の演技」に微妙な、時に劇的な差を出すことで、内面の複雑さや奥行きを伝える。それはさらに、「無罪か有罪か」「正義か犯罪か」「英雄か殺人か」という二項対立を突きつける戯曲世界に対する批評でもある。
このように、本作では、「2人1役の手話劇」という実験的な試みは成功していたといえる。ろう俳優の表情の豊かさは魅力的で見入ってしまう。また、「ろう者にとっての音楽」を映像化した映画『LISTEN リッスン』でも手の表現の繊細さが際立っていたが、本作では、上空を行き交う飛行機の群れや空を飛ぶかもめを俳優たちが身体的に表現するアンサンブルのシーンで活かされていた。ただ、「2人1役の手話劇」には戯曲との相性もある。本作のような「裁判劇」では、「裁判長」「弁護人」「検察官」「証人」といったポジション(役およびどこに着席するか)は固定的で明快で、混乱なく見ることができた。「バリアフリー上演の更新」という点でも、ピンク地底人3号には今後も手話劇の可能性に挑戦してほしいと願う。
公式サイト:https://www.kavc.or.jp/kp2022/
ももちの世界:https://momochinosekai.tumblr.com/
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LISTEN リッスン|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年09月15日号)
2022/10/09(日)(高嶋慈)
国際芸術祭「あいち2022」 百瀬文《Jokanaan》、『クローラー』
会期:2022/07/30~2022/10/10
愛知芸術文化センターでの展示作品《Jokanaan》(2019)と、1対1の体験型パフォーマンス作品『クローラー』。本稿では、百瀬文の秀逸な2作品を、「女性が欲望の主体であることの回復」「見る/見られるという視線の構造」「他者の欲望の代演」という繋がりの糸から取り上げる。
2チャンネルの映像作品《Jokanaan》では、オペラ『サロメ』でヨカナーン(預言者ヨハネ)への狂信的な愛を歌い上げるサロメの歌が流れるなか、左画面ではモーションキャプチャースーツを着て口パクで踊る男性パフォーマーが映され、右画面では、男性の動きのデータを元につくられた3DCGの女性像が映る。ユダヤ王の娘サロメは、幽閉されたヨカナーンに恋焦がれるが、愛を拒絶されたため、踊りの褒美に彼の生首を所望し、銀の皿に載せられた生首の唇に恍惚状態で接吻する。独占欲、プライド、絶望、歓喜がない交ぜになった倒錯的な愛のアリア。同期する二人の男女は、激情をぶつけ合う恋人どうしの二重唱のように見えるが、「なぜ私を見つめてくれないの」というサロメの台詞を文字通り遂行するように、両者の視線は同じ方向を向き、いっさい交わらない。
一方、映像の後半では、(カメラワークの妙もあり)二人の動きは次第にズレをはらみ、男性がモーションキャプチャースーツを脱いで動きを止めても、CGの女性は歌い踊り続ける。女性の足元には(CGの)血だけがついた空の皿が置かれ、男性の足元には実物の銀色の皿が置かれている。ラストシーンでは、男性が身を横たえて皿の上に首を載せ、「ヨカナーンの生首」を演じる一方、右側の画面は血のついた皿だけを映し、女性の姿は映らない。
これは、「視線」と密接に結び付いた、「欲望の主体の回復」についての秀逸な逆転劇だ。前半では、「性に奔放で、男を破滅に導くファム・ファタール」という性幻想が、まさに男性の身体を通して生産され、CGであるサロメは他者の描く欲望を忠実に代演し続けるしかない。だがこの従属関係は次第に歪み始め、男性がスーツを脱ぐことでサロメはコントロールから解放され、最終的には画面から「消失」する。すなわち「見られる対象」ではなくなり、「サロメ自身の視線」が捉えたイメージ(だけ)が映し出される。しかもそこには、それまで欲望の主体の側だった「左画面」に投影され、上書きし、奪い返して占拠するという二重の転倒が仕掛けられているのだ。
一方、パフォーミングアーツのプログラムで上演された『クローラー』では、観客はたった一人で暗闇のなか、車椅子に座り、肩にかけたウェアラブルスピーカーから聴こえる、極めて親密な女性の語りに耳を傾ける。脳性麻痺のため、車椅子に乗っている硬直した身体。うまく開かない股の割れ目に差し入れる不器用な手。遠くに小さな灯がともる。声の指示に従い、車椅子に座る私は、その灯に向かってゆっくりと車輪をこぐ。慣れない車椅子の操作、暗闇と静寂に包まれる不安と緊張感。そのぎこちない道のりは、声が語る「遠くの灯台へ向かって漕ぎ出すような、オルガズムへのゆるやかな到達」と同時に、「障害者女性の性」という遠く隔たった存在へ向かっていく二重のメタ性を帯びている。誰の姿も見えない暗闇は、「社会の中で不可視化されていること」を文字通り指し示す。その暗闇はまた、絶対的な孤独と同時に、「誰からも見られていない」という安全の保証でもあり、多義性を帯びている。
灯に近づくにつれ、車椅子をこぐ指が冷たくなり、2つに見えた灯が実は水面に映る影で、浅く水の張られた水面を進んでいたのだと分かる。そして灯の向こうに、おぼろげな白い人影が揺らめく。声が語る、お気に入りのアダルトビデオ。障害者専門のセックスワークに従事した経験。絶頂を感じる瞬間、身体の日常的な痛みから解放される、それが自慰行為の目的であること。人影はちゃぷちゃぷと水音を立ててこちらに歩み、車椅子の隣にかがんでともに灯を見つめる。オルガズムへの接近を告げるように明るさを増す灯。対峙の恐怖から、「誰かが傍にいて寄り添ってくれる」安心感へ。ゆっくりと車椅子を押して灯の周囲を一周してくれるその人は、メタレベルでは、オルガズムへの到達に導いてくれる存在だ。ちゃぷ、ちゃぷというリズミカルな水音は、濡れる粘膜が立てる音へと想像のなかで変換される。だが私の身体、特に下半身は水の冷気で冷たくこわばっていく。15分という短くも長い上演時間は、語り手とともに想像のオルガズムを共有するために必要な時間だったのだ。
百瀬は、障害者専門のセックスワークの経験がある障害者女性への取材を元にテキストを書き、その女性自身が朗読を担当した。「舞台上の障害者を一方的に眼差す」という非対称な関係性ではなく、(「誰にも姿が見られていない」ことも含めて)観客自身が当事者に近い状況に置かれたとき、身体感覚と想像力をどこまで接近させられるのか(あるいは、どのように接近できないのか)。「障害者女性の性とケア」という社会的に不可視化された領域を、車椅子、灯、水を用いた緻密な構築により、まさに暗闇の中でこそ(擬似)体験可能なものとして身体的にインストールさせる本作は、VRとは別の形で、「抑圧され、共有困難な他者の欲望をどのように代演・想像できるか?」という困難な問いに応えていた。
*『クローラー』の上演日は2022年10月6日(木)〜10月10日(月・祝)。
公式サイト:https://aichitriennale.jp/artists/momose-aya.html
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2022/10/06(高嶋慈)