2020年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

韓国国立現代美術館 清州館

[韓国 清州市]

日韓交流展「2019韓日藝術通信」のオープニングトークに招かれ、韓国中部の都市、清州を初めて訪れた。清州は地方都市だが、市立美術館は本館に加えて2つの分館があり(今回の日韓交流展の会場はそのうちの1つ)、レジデンス施設も別に設けられている。レジデンス施設は26名まで収容可能であり、スタジオの他に宿泊場所、ギャラリー、過去の滞在作家の資料のアーカイブスペースもあり、制作に集中できる環境が整備されている。手厚い文化予算の韓国と日本の差を強く感じた。



韓国国立現代美術館 清州館


また清州には、国立現代美術館の分館「清州館」もある。2018年に開館した清州館では、「Open Storage(見える収蔵庫)」というコンセプトの下、国立現代美術館や美術銀行の所蔵品を、収蔵した状態で公開している。コンテナや棚に置かれた彫刻や立体作品、収蔵棚に掛けられた平面作品を、直に、あるいはガラス越しに見ることができる。まず来場者を出迎えるメインの1階では、大型の立体や彫刻作品がずらりと並び、圧巻だ。ナムジュン・パイク、李禹煥、イ・ブル、ス・ドホ、ユン・ソクナム、イ・スギョンといった韓国人作家に加え、アンソニー・カロ、ニキ・ド・サンファル、トニー・クラッグ、キキ・スミスらが並ぶ。奥の収蔵棚には、より小振りのブロンズや石の彫刻が二段、三段で収蔵され、森のなかを彷徨うようだ。「サイズ」「素材」「具象/抽象」のゆるやかな分類はあるものの、雑然さを感じさせないのは、洗練された棚のデザインの力が大きい。また、3階では、韓国人作家の作品を、平面作品(建築/ポートレートの主題別)、工芸、彫刻、メディアアートのジャンル別に展示している。加えて、「修復」の紹介スペースもあり、修復に使うさまざまな道具や和紙などの素材、プロセスを実物や写真、映像で展示している。




「見える収蔵庫」というアイデアは、単に目新しさだけでなく、「普段は表に出にくい美術館の基幹部分を可視化する」という意味で意義深い。それは、「保存修復」とともに、コレクションが美術館の根幹的な機能であることに改めて光を当てる。また、「地方分館」というシステムは、「文化の(首都への)一極集中を防ぐ」という意義も合わせ持つ。こうした国立施設が無料で開放されている点も日本との大きな差だ。私が訪れた日は、社会見学と思われる児童の団体でにぎわっており、さまざまな面でうらやましく感じられた。



公式サイト:韓国国立現代美術館 清州館https://www.mmca.go.kr/jpn/contents.do?menuId=5050011541

2019/09/03(火)(高嶋慈)

プレビュー:KYOTO EXPERIMENT京都国際舞台芸術祭 2019

会期:2019/10/05~2019/10/27

ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、 京都府立府民ホール “ アルティ”、THEATRE E9 KYOTO ほか[京都府]

10回目を迎えるKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭(以下「KEX」)。公式プログラムでは、「世界の響き~エコロジカルな時代へ」をテーマに、計11の公演や展示が行なわれる。

フェスティバルの立ち上げからプログラムディレクターを務めてきた橋本裕介が、今回で最後ということもあり、集大成的なプログラムだと感じた。軸としては、1)これまでの参加アーティストとの新たな創作、2)「女性アーティストあるいは女性性をアイデンティティの核とするアーティスト/グループ」を打ち出した前回からの発展性、の2点が挙げられる。

1)では、チョイ・カファイ、チェルフィッチュ×金氏徹平、庭劇団ペニノ、神里雄大/岡崎藝術座、久門剛史が再び登場。チョイ・カファイは、大文字の「ダンス史」における西洋中心性の相対化と、アジアを拠点とする同時代のダンサーへのリサーチ、垂直軸と水平軸の交差領域にテクノロジーへの批評的視線を織り交ぜてきた。TPAM 2018でワーク・イン・プログレスとして発表された上演作品『存在の耐えられない暗黒』では、「イタコ/3Dアバター」によって「土方巽」の亡霊をダンサーの身体に憑依させる。また、チェルフィッチュは、近年舞台美術も手掛ける金氏徹平とコラボレーション。東日本大震災の被災地、陸前高田市において、津波被害を防ぐ高台の造成工事が人工的に風景をつくり変える様を目にした経験から、「人間的尺度」を問う新作『消しゴム山』を発表する。



チェルフィッチュ×金氏徹平 『消しゴム山』
[©Shota Yamauchi]


緻密に構築された舞台美術と濃密なフィクション世界によって魅了する庭劇団ペニノは、『蛸入道 忘却ノ儀』を上演予定。寺院を模した空間内で俳優が執り行なう儀式的パフォーマンスを、音響、視覚、香り、熱気の皮膚感覚など、五感を総動員する体験として観客に差し出す。緻密な強度をもつ文体によって、自身のルーツである南米、移民や人の移動についての物語を紡ぐ神里雄大/岡崎藝術座は、新作『ニオノウミにて』で「琵琶湖の生態系を脅かす外来種」をモチーフに、内/外、固有種/外来種、善/悪の線引きや対立について問う。また、KEX 2016 SPRINGでチェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』の舞台美術を担当した美術作家の久門剛史が、初めて手掛ける舞台作品『らせんの練習』も注目だ。



久門剛史『らせんの練習』
[©Tsuyoshi Hisakado]


2)「女性アーティスト、女性性やジェンダーについての問題提起」というテーマの継続と拡張性。前回のKEXはこのテーマが主軸だったが、地域的には、日本、韓国、北米、ヨーロッパ、南米で構成され、「日本を含む東アジア」と「欧米」の2軸感が強かった。一方、今回のラインナップを見ると、テーマを引き継ぎつつ、モロッコ、南アフリカ、イランと地域的にはより「周縁性」に焦点を当てていることが分かる。モロッコ出身のダンサー・振付家のブシュラ・ウィーズゲンは、黒服をまとった女性パフォーマーの群れがトランス状態の儀式のように叫び声と振動を続ける『Corbeaux(鴉)』を、二条城と平安神宮で上演する。南アフリカ出身の振付家・パフォーマーのネリシウェ・ザバは、グローバル社会における物質的支援についてのレクチャーパフォーマンス『Bang Bang Wo』と、プラスチックバッグと自身の身体の関わりを通して、身体がジェンダーや人種、階級をめぐる政治的闘争の場であることを浮き彫りにする『Plasticization』を2本立てで上演する。



ネリシウェ・ザバ『Bang Bang Wo / Plasticization』
[Photo by Candida Merwe]


アミール・レザ・コヘスタニ/メヘル・シアター・グループは、イランの男子禁制の女子寮で、ある女子学生が男の声を聞いたことから始まる告発と詰問のドラマに、相互監視社会への批評を織り交ぜた『Hearing』を上演する。今年のヴェネチア・ビエンナーレ韓国館で展示を行なったアーティスト、サイレン・チョン・ウニョンの『変則のファンタジー_韓国版』が主題化するのは、1940年代末の韓国で生まれ、60年代に衰退した「ヨソン・グック(女性国劇)」。全ての登場人物を女性が演じる音楽劇のリサーチを通して、ジェンダーを越境して演じる行為と政治や歴史との関わりに焦点を当てる。



サイレン・チョン・ウニョン 『変則のファンタジー韓国版』
[©Namsan Arts Center]


これらの上演プログラムに加え、2018年に文化駅ソウル284(日本統治時代に建設された旧ソウル駅舎)で開催されたグループ展「ケソン工業団地」が、京都にやってくる。「ケソン工業団地」は、北朝鮮と韓国の双方の人々が共に働く特異な場として、南北を分断する軍事境界線の北側に、2004-16年まで操業されていた。グループ展では、労働、コミュニティ、越境などをテーマとした韓国の美術作品が紹介される。



グループ展『ケソン工業団地』 イ・ブロク『Robo Cafe』


こうしたラインナップのなか、シューベルトの歌曲の歌唱に、アパルトヘイトについてのドローイングアニメーションをオーバーラップさせるウィリアム・ケントリッジの『冬の旅』はどう見えるだろうか?

KEX 2019は「西洋近代の原理(モダニティ)の先へ」というキーワードを掲げているが、それは男性中心主義からの脱却と地域的周縁性への視線の双方を含む。「劇場空間で上演される舞台芸術」すなわち西洋近代の制度を用いつつ、脱中心化をはかる。社会に対するアートの批評的応答の力への信念というフェスティバルの基本姿勢を再確認しつつ、開幕を楽しみに待ちたい。

公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2019/

2019/08/30(金)(高嶋慈)

akakilike『眠るのがもったいないくらいに楽しいことをたくさん持って、夏の海がキラキラ輝くように、緑の庭に光あふれるように、永遠に続く気が狂いそうな晴天のように』

会期:2019/08/17~2019/08/18

京都芸術センター[京都府]

舞台の専門的な訓練を受けていない人々、特に社会から周縁化された「マイノリティ」性を帯びた人々と協働して舞台作品を作り上げること。「出演者が自身の言葉で語る」ドキュメンタリー的手法に則りつつ、巧みな構成力により、現実/フィクションの境界が瓦解した先にある真実的瞬間を「いまここ」に立ち上げること。演出(家)の権力性や出演者の「搾取」に対して誠実に向き合いつつ、根底では倉田自身の抱える葛藤や問題を語ること。akakilikeを主宰する演出家、振付家、ダンサーの倉田翠の近年の関心は、この3点に集約される。

前作『はじめまして こんにちは、今私は誰ですか?』では、倉田は在日コリアンの多く住む京都の東九条にある老人ホーム「故郷の家」に通い、入所する高齢者や地域住民、京都市職員らと対話を重ね、共に過ごした時間を(映像の助けも借りつつ)舞台上で再構成した。そこでは、出演者がそれぞれの立場から、独白あるいは倉田との対話によって、「文化行政とまちづくり」「社会包摂」「在日」について語る。同時に、「圧力や無理解の罵声を浴びせる父親」の演劇的なシーンや、スクリーンに投影された幼少期の家族スナップを背景にもがき苦しむように踊るシーンでは、倉田自身の抱える「家族とダンス、双方に対する自虐的な愛憎」が吐露される。そこに、出演者/演出家、当事者自身の語り/安全地帯に身を置いたまま対話相手を務めること、という構造の非対称性を自覚しつつ、出演者各人に対して誠実に向き合い、かつ作り手として自分自身をさらけ出す誠実な態度がある。そして、ダンスは苦痛の記憶とつながっているが、目の前の「あなた」と「今この瞬間」を分かち合える悦ばしさの側面も持つことが、冒頭と終盤で二度登場する認知症の男性を前に踊るシーンで示される。


本作は、この『はじめまして~』の延長上にある姉妹編というべき作品であり、薬物依存症者の回復と社会復帰を支援するNPO法人「京都ダルク」に倉田が約1年半通って作り上げられた。出演者はダルクの利用者とスタッフ計13名と倉田。冒頭、彼らは全員、白いYシャツに黒いスラックスという同じ服装で登場し、長机に一列に座る。施設移転に伴う説明会でのやり取りが(「反対意見」と思われる質問者の発言を空白にした形で)再現される。続いて彼らは観客の目の前に一列に立ち、服を脱いで下着姿になる。頭上からバサリと落下した普段着に着替える出演者と倉田。没個性化されたユニフォームの匿名性から、「個人」への移行を印象づける導入であるとともに、「着替え」は彼らの何人かの体に入れ墨があることに否応なく意識を向けさせる。



[撮影:前谷開]


本作の大半は、ダルク利用者の独白を前景に、料理の共同作業、倉田の独り言のようなダンスが同時並行的に展開していく。反社会的組織に加わり、薬物で入所を繰り返し、断絶した父の死に目に立ち会えなかったが、やっと七回忌に参加でき、家族から「父は喜んでいると思う」と声をかけられたこと。刑務所に入ったが、出所後「クスリを一回止められたのだから、いつでも止められる」という気持ちでまた始め、依存から抜け出せなかったこと。自分を信頼して保証人になってくれたのに、再犯を犯してしまい、家族に迷惑をかけられないと、留置場で自殺を図ったこと。子どもが生まれてからは、「何でもできる」という前向きな気持ちになったこと。フードコートで食事中、子ども連れの他人に「クズ」と罵声を浴びせられたこと。バトンリレーのようにマイクを渡しながら、生い立ちや家族事情、日々の出来事、悔恨、苦悩、家族への感謝、希望が語られる。それは、ダルクで1日3回行なわれるグループセラピーを再構成したものだ。その背後では、他の出演者たちがテーブルを囲み、食事の用意を進めていく。ダルクの「日常」が淡々と再現される一方、倉田はその傍らで、独り言のように手足を動かし、空気を撹拌するように軽く走り回るが、両者は交差せず、倉田の反復的な所作は輪に入れない疎外感をぶつけるかのようだ。



[撮影:前谷開]


やがて後半、倉田は出演者のひとりと正面から対峙する。その手に包丁が握られていることに気づいた時、弛緩した空気は張り詰めた緊張感に変貌する。しかし握った包丁は、食材を切りに行くためのものだった。張り詰めた沈黙と緊張は、冷たい憎しみを燃やすためではなく、「仲間に受け入れてもらえるのか」という不安と逡巡のために費やされた時間だったのだ。そして一同は共に食卓を囲み、共有と承認の和やかな時間が流れる。終盤、出演者のひとりが「妻と社交ダンスを踊りたい」という叶わぬ願望を語り、倉田は彼の望みを代行するように、「不在の誰か」を相手に慈しむようなダンスを踊る。それは倉田ひとりで踊られるが、もはや独り言ではない。「輪の外にいる」疎外感から、「共に食卓を囲む」時間の共有を経て、他者の願望を内在的に生きること。そこには、倉田が出演者たちとの出会いから徐々に関係性を築いてきた、約1年半の時間が「圧縮」されている。



[撮影:前谷開]


このように本作は、表面的には「薬物依存」という社会問題を扱い、「薬物依存症者」として一括りにされがちな彼ら一人ひとりの固有性や人間性に丁寧にスポットを当てつつ、根底では、2種類の異なる「時間」と倉田自身の物語を語っている。「今ここで語り、踊っている瞬間」と圧縮された時間の厚み。両者が交差する地点には、「たとえ忘れられてしまっても、叶わぬ願いでも、今目の前にいるあなたと共にある稀有な瞬間のためにダンスがある、だから私はダンスを手放さない」という倉田の強い信念がある。

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2019/08/17(土)(高嶋慈)

梅田哲也『Composite』

会期:2019/08/12

神戸アートビレッジセンター KAVCホール[兵庫県]

「声と身体が立てる音」という最小限の要素で構成され、ルールの設定と即興、中心性の欠如、プログラムとエラーの介在、ミニマルな要素の反復とズレがもたらす多様性の生成、伝染や共鳴の現象といった問題群を提示しつつ、「個人と集団」「集団と集団」の調和とせめぎ合い、さらに「集団の崩壊と包摂/同調の浸透」へ。ワークショップに基づくパフォーマンスの実験性に社会構造への批判的視線を内在させた、恐るべき強度を持つのが梅田哲也の『Composite』である。2014年にフィリピン山岳地帯の村の子どもたちと制作され、日本ではKYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGでの発表以来の再演となる。今回の神戸公演では、小・中・高校生と教育に関わる大人を対象にしたワークショップを開催し、作品がつくり上げられた。

本作の構造は明快だ。輪をつくった6名の男女のグループAによる合唱(規範的な集団の発生)、子どもを含むもうひとつのグループBによる同様の合唱(相似的な別集団の形成)、そして異なる単旋律を唱える第三勢力Cの登場を経て、Cが有する「伝染」作用による集団の崩壊と全体的な包摂へと展開する。初めに登場したグループAは、円陣を組み、「アレアレウッ」という掛け声と足踏み、肩や腕を叩く音で一定のリズムを反復する。向かい合った2人ごとに微妙に異なるリズムが設定され、「掛け声、足踏み、身体部位を叩く音」という構成要素の共通性とそのパターンの違いにより、ミニマルな要素から複雑な合唱を立ち上げていく。リズムが途切れると輪が回転し、「前任者の担当パターン」が引き継がれていくようだ。目をぎゅっとつぶったパフォーマーたちは、互いの立てるリズムに妨害されずに自分に課せられたルールを遂行しようと、集中力を保つのに懸命だ。「手を繋いだ輪」が示唆する共同体とその閉鎖性、個人の声と集団の声のせめぎ合い、調和と不調和、「位置の交替」による役割の引継ぎなど、音響の生成を通した社会集団の抽象化が提示される。



最終リハーサルの様子 [写真提供:神戸アートビレッジセンター]


遅れて登場した相似的な別集団Bも、同様のリズムの生成に従事する。だが、AとBは完全に同期しないため、集団内の調和と不調和は、集団対集団のそれへと拡大される。そして、A・Bとは異なる単調な旋律を歌う第三勢力Cが、客席から一人、また一人と登場する。このCは「位置移動」と「接触による伝染」という能力を持っており、CとぶつかったA・Bの構成員はC化し、帰属していた集団を離れてバラバラの方向に歩き出し、移動先でさらに伝染を拡大させていく。そして暗転。集団の崩壊と、次第に大きくなる「ひとつの単旋律」への吸収が、暗闇のなか、音響の強度のみで想像され、震撼させる。その想像力の宛先は、極めて両義的だ。「他者」との接触によって閉じた共同体が解体され、解放された個人が他者への「共感」を通して、全員が包摂されるユートピアが広がっていくのか。それとも逆に、その過程は、次第に膨れ上がり大きくなる「単一の声」の伝染力に抗えず、個人の声が帰属を失って同化吸収され、「異なる小さな声」を排除していく全体主義的な過程なのか。



最終リハーサルの様子 [写真提供:神戸アートビレッジセンター]


『Composite』は、専門化されたダンサーやパフォーマーではなく、子どもや一般の人々とつくり上げるワークショップにより、「私たちの生きる社会構造がどう形成され、どこへ向かうのか」を美しくも不穏さを湛えた合唱作品として予見的にあぶり出す。民主的なプロセスによって社会形成そのものを問う、透徹した思考に支えられた作品だ。公演終了後は、梅田と出演者による振り返りのミーティングが行なわれていたが、一般非公開だったことが惜しまれる。参加者、特に子どもたちは、あの場で直感的に何を経験していただろうか。梅田がワークショップ対象者に子どもたちを含めていたことに、本作に込められた希望を見出したい。

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2019/08/12(月)(高嶋慈)

美術の中のかたち─手で見る造形 八田豊展─流れに触れる

会期:2019/07/06~2019/11/10

兵庫県立美術館[兵庫県]

兵庫県立美術館のアニュアル企画「美術の中のかたち─手で見る造形」展は、視覚障碍者にも美術鑑賞の機会を提供することを目的として、作品に触って鑑賞できる展覧会で、1989年度より始められ、今年で30回目となる。八田豊(1930-)は、油彩画や金属板に幾何学模様を刻む作品を制作していたが、1980年代前半に視力が低下し始めたことを機に聴覚や触覚を使った制作へと移行し、90年代以降は地元の福井県越前市の名産品である和紙やその原料の楮(こうぞ)を使った平面作品「流れ」シリーズを制作し続けている。本展では、90年代半ば~2000年代にかけての「流れ」シリーズ計12点が展示された。



会場風景


シリーズ初期では、和紙になる前のドロドロとしたペースト状の白い楮が用いられ、支持体に貼り付けた八田の指や掌の跡が生々しく残る。メレンゲか白い泥の塊が指で激しくかき回され、そのまま凝固したようだ。一方、以降の作品では、通常は除去される外皮(鬼皮)をそのまま残した状態の素材が用いられ、指でその黒い表面に触るとゴツゴツと硬い。また、和紙を染めて、まるめて棒状にしたものを敷き詰めた作品の表面は、丸みを帯びた陰影の連なりがさざ波の立つ水面を思わせ、触ると柔らかみを帯びている。左右や上下に分割された画面それぞれに、楮の色や鬼皮の残り具合が異なる素材を用いた作品もあり、幾何学的抽象絵画で色域を変えるように、「触覚」によって画面構成がなされていたことが実際に触るとよく分かる。

これらの作品群は「流れ」と名付けられているが、壁に垂直に掛けられた平面作品として向き合うと、波立つ水面や茫漠と広がる大地といった連想以上に、地層の堆積や積層構造を強く想起した。「水面」「砂漠の大地」といった(直に触れられない)「イメージ」ではなく、触覚によって惹起された、ザラッとした手触りと物質感を備えた、半ば実体的な層構造。それは、繊維の束をひとつずつ手探りで支持体に貼り付けていった八田の手の痕跡の連なりであり、和紙の原料である楮の木が成長した時間を含み、さらには繊維加工文化がもつ歴史的な時間の層でもある。「流れ」を指で辿ることで、そうした複数の時間の層を肌で感じるとともに、視覚偏重の美術鑑賞体験への批判的契機ともなっていた。



会場風景


2019/08/12(月)(高嶋慈)

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