2020年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

ダムタイプ 新作ワークインプログレス 2019

会期:2019/03/24

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

2002年発表の『Voyage』以来、18年ぶりに予定されているダムタイプの新作公演(2020年春)に向けての公開リハーサル。10~15分ほどの3つのシーンが公開された後、メンバーによるトークが行なわれた(今回のメンバーは、大鹿展明、尾﨑聡、白木良、砂山典子、高谷史郎、高谷桜子、田中真由美、泊博雅、濱哲史、原摩利彦、平井優子、藤本隆行、藤原マンナ、古舘健、薮内美佐子、吉本有輝子)。

ひとつめは「まばたきによるコミュニケーション」のシーン。冒頭、暗がりに、ダウンコートを着た女性パフォーマー2人が現われる。コートを脱いで水着姿になった彼女たちが横たわると、ライブカメラで捉えた顔のアップが頭上のスクリーンに投影される。無表情な彼女たちのまばたきに合わせ、機械音声のようなブツ切りの声による会話が流れ、スクリーンには無数の単語が星空のように浮遊する。全身不随の障害者がまばたきだけで行なう意思疎通を思わせるこのシーンは、コミュニケーションすなわち他者とつながりたいという欲望や、機械による身体機能の拡張を提示する。



[撮影:井上嘉和]


一方、2つめのシーンは、ボイスパフォーマーとして活動する田中真由美が登場。ホーミーのように高音と低音を自在に操り、声以前の欲動を表出し、吹き渡る風のうねりや動物の咆哮へと擬態する声は、機械的に増幅されるエコーと次第に境目が無くなり、人間の有機的な声と機械の領域の境界が融解していく。この2つのシーンは、「身体パフォーマンスとテクノロジーの拮抗」という、いわゆるダムタイプらしさへの期待に応えるものだった。


3つめは、ダンサーの砂山典子と薮内美佐子による、スウィングジャズのダンスシーン。陽気な音楽にノったショー的な要素の強いダンスだが、しばしばスローで引き伸ばされ、ノイズが混入し、頭上から段ボールが落下するなど、多幸症的な夢が反復によって不穏さへと反転していく。突き飛ばされ、倒れ、狂ったような笑い声を上げながらもがくシーンもあり、明るく乾いた嵐に晒されているような印象を受けた。



[撮影:井上嘉和]


上記三つのシーンは断片的で、シーンどうしの直接的な繋がりはない。そのことを示すのが、シーンの合間に客電が点き、「転換入りまーす」「暗転しまーす」「リハ再開しまーす」というスタッフの声が意図的に発せられることだ。「これは完成形態ではない」というメタメッセージを発する効果とともに、「観客の集中力を削ぐ」という両面があったことは否めない。また、トークでは個別シーンの説明にとどまり、特に全体的なテーマやコンセプトについては触れられていなかった(新作のタイトルも未発表)。

なお、18年ぶりの新作公演の背後には、2020年春に開催が予定されている大型フェスティバル「KYOTO STEAM─世界文化交流祭─2020」の存在があり、今回の公開リハはそのプロローグ事業の一環として行なわれた。杞憂かもしれないが、新作の制作の動機には、プロデューサー主導の流れが背後にある危うさも透けて見える。「京都のレジェンドの復活」として、「新フェスの目玉」として期待/消費されることにはならないか。フェスティバルのための単発の打ち上げ花火ではなく、その後の持続的な活動につながるかどうか。11月には東京都現代美術館での大規模な個展も控えており、回顧と再始動の年と言える。来年の本公演を楽しみに待ちたい。

2019/03/24(日)(高嶋慈)

さよなら三角、またきて四角

会期:2019/02/16~2019/03/17

ARTZONE[京都府]

ARTZONEは京都造形芸術大学が運営するスペースとして2004年に開館し、2009年以降は、同大学アートプロデュース学科が中心となり、学生が授業の一環としてスペースの運営や企画を担ってきた。残念ながら3月末に閉館となり、約14年間の歴史が幕を閉じる。

クロージング展となる本展では、捨てられたおもちゃを素材に造形物やインスタレーションをつくる藤浩志の作品を1階に展示。観客が自由に参加できるワークスペースも設けられ、カラフルで祝祭的、かつ仮設的な場が出現した。また2階では、過去の企画の資料(フライヤー、企画書、配布物、アンケート集計、ミーティング議事録など)を閲覧できるアーカイブ・スペースが設けられた。かつて他人が所有していたモノや記憶をどう共有し、引き継ぎ、別のかたちに再生させることができるかを、美術作品/資料において問う試みだ。また、壁には、ARTZONEの新旧2つのロゴを、ペンキの層を削って刻印。過去の数々の展覧会を支えてきた「壁」の記憶の断層が、生々しい触覚的なものとして現われる。


[撮影:守屋友樹]


[撮影:守屋友樹]


[撮影:守屋友樹]

長年、同スペースに足を運んできた筆者にとって、忘れがたい展示はいくつもある。特に今年度は、「ゴットを、信じる方法。」展と山田弘幸個展「写真になった男」の2本が、いずれもアートプロデュース学科4回生の企画による実験的な試みとして印象に残る。前者は、エキソニモのメディア・アート作品《ゴットは、存在する。》(2009-)を、約10年間のメディア環境やネット操作の身体感覚の変化を踏まえて、「ゴットを信じる会」という匿名的集団が二次創作的につくり直すという試み。後者は、「写真のなかに入りたい」という言葉を残して失踪した写真家、山田弘幸の近作を、彼の願望を共犯的に成就させるようなかたちで再展示する試みだ。いずれも、没後の回顧展ではなく、「作家は存命であるにもかかわらず、作家不在を前提条件として成立する個展」である点が共通する。そこでは「キュレーター」の存在が前景化するとともに、「作家」の役割にどこまで抵触・介入するか、すなわちキュレーションにおける作家性の代行、権力性や倫理性、共犯関係への問いが浮上していた。美術館では実現が難しい、リスキーかつ実験性の高い企画であり、ARTZONEという場所だからこそ可能だったと言える。

両展の成果を踏まえ、最後に、ARTZONEの担っていた教育的役割と今後の課題について述べたい。学生が主体的に企画を実現するまでに要するサイクルを考えると、「1~2回生時に現場での設営、広報、編集などさまざまな経験値を積む→3回生時に企画を出し、来年度の予算組み→4回生で展覧会を実施」という段階が必要だろう。人材育成には長期的な視野や時間が必要だが、恒常的なスペースがあるからこそ可能になる。「ギャラリー・スペースとしての閉廊後も、引き続きプロジェクトとしてのARTZONEは特定の場所にとらわれず、アートと社会をつなぐ実践を行なっていく」とウェブサイトや本展フライヤーには書かれている。非恒常的で不定期なスペースや活動形態で、どこまで教育的質を支えられるかが、今後の課題だと言えるだろう。

関連レビュー

ゴットを、信じる方法。|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年06月15日号)
山田弘幸個展「写真になった男」|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年08月01日号)

2019/03/17(日)(高嶋慈)

カメラが写した80年前の中国──京都大学人文科学研究所所蔵 華北交通写真

会期:2019/02/13~2019/04/14

京都大学総合博物館[京都府]

「華北交通」とは、日中戦争勃発直後の1937年8月に南満州鉄道株式会社(満鉄)の北支事務局として天津で発足し、日本軍による華北の軍事占領と鉄道接収後、39年4月に設立された交通・運輸会社である。傀儡政権として樹立された中華民国臨時政府の特殊会社で、満鉄と同じく日本の国策会社であり、北京、天津、青島などの大都市を含む華北占領地と内モンゴルの一部を営業範囲としていた。旅客や資源の輸送のほか、経済調査、学校や病院経営、警護組織の訓練なども担っていた。また満鉄と同様、弘報(広報)活動にも力を入れ、内地に向けて「平和」「融和」をアピールし、日本人技術者や労働者を中国北部に誘致するため、日本語のグラフ雑誌『北支』『華北』の編集や弘報写真の配信を行ない、線路開発、沿線の資源や産業、遺跡や仏閣、風土や生活風景、年中行事、学校教育などを撮影し、膨大にストックしていた。日本の敗戦後、華北交通は解散するが、35,000点あまりの写真が京都大学人文科学研究所に保管されており、近年、調査や研究が進められ、2019年2月にはデジタル・アーカイブも公開された。本展は、2016年の東京展に続き、2回目の展示となる。

展示構成は、写真を保存・整理するために作成された「旧分類表」に基づき、「華北交通(会社)」「資源」「産業」「生活・文化」「各路線」のテーマ別のほか、京大人文科学研究所の前身である東方文化研究所が行なった雲岡石窟調査の写真も含む(調査費の半額を華北交通が援助した)。また、旧分類とは別に設定された「鉄道・列車」「民族」「教育」「日本人社会」「娯楽」「検閲印付写真」のテーマによる紹介は、華北交通写真のプロパガンダとしての性格に迫るものであり、興味深い。鉄道へのゲリラ攻撃を防ぐために、インフラの警備組織を沿線住民に担わせようとした「愛路」工作。一方、検閲で不許可とされた写真には、列車事故現場が生々しく写る。ロシアからの移住者、モンゴル人の各部族、ユダヤ教徒や回教徒(イスラム教徒)など、沿線範囲に住む民族の多様性。イスラム教徒の子どもにアラビア文字を教える教育場面や、「愛路婦女隊」のたすき掛けをした農村の女性に日本語や料理、看護を教える授業風景。「新民体操」と呼ばれたラジオ体操にはげむ子どもたち。グラフ雑誌『北支』の表紙には、優雅な民族衣装に身を包んだ若い女性、無邪気に笑う子ども、雄大な遺跡や仏閣の写真が並ぶ。これらは「帝国によって守られるべき」かつエキゾチシズムの対象であり、山岳に残る史跡を背に煙を上げて進む機関車を写した写真は、「前近代的時間」/「進歩・技術・近代」の対比を視覚的に切り取ってみせる。いずれも典型的な植民地プロパガンダの表象だ。


会場風景


会場風景

ほぼ同時期に、「満洲」で展開された写真表現を検証する展覧会として、2017年に名古屋市美術館で開催された「異郷のモダニズム─満洲写真全史─」展がある。同展で紹介された、満鉄が発行したグラフ雑誌『満洲グラフ』の写真は、モダニズム写真の実験性とプロパガンダとしての質が危うい拮抗を保って展開されていたことが分かる。本展もまた、写真とプロパガンダの関係のみならず、中国現代史、植民地教育史、民俗学、仏教美術研究など幅広い射程の研究に資する内容をもつ。

ただ惜しむらくは、展示の大半が引き伸ばした複製パネルで構成されており、現物のプリントはガラスケース内にわずかしか展示されていなかったことだ。元のプリントの鮮明さに引き込まれる体験に加え、70年以上の時間を経た紙焼き写真の質感、台紙の紙質や反り具合、キャプション情報や撮影メモの手書き文字、スタンプの刻印や打ち消し線などの情報のレイヤーといった、アーカイブのもつ「感覚的体験」「触覚的な質」が削がれた「資料展」然だったことが惜しまれる。


会場風景

また、展示構成のなかで、ウェブ上で全写真データが公開されている「華北交通アーカイブ」に触れられていても良かったのではないか。「華北交通アーカイブ」では、膨大な写真を撮影年や駅名別に検索できるほか、「機械タグ」のワードリストも載っている。ただ、画像自動認識による即物的なタグ付けで、アーカイブの潜在的な豊かさを開くことにどこまで貢献できるだろうかという疑問が残る。中立性の担保よりも、むしろ個別的な眼差しの痕跡を積み上げて可視化していくような試みが、ウェブ上のデジタル・アーカイブという場でできないだろうか。例えば、ユーザーがそれぞれの関心に従って「検索タグ」を多言語で追加できたり、その検索結果であるイメージの集合体を公開履歴として蓄積できるような機能。とりわけ、民族衣装をまとった中国人・モンゴル人女性や「愛路婦女隊」、「大日本国防婦人会」のたすき掛けをした和装の日本人女性など、ジェンダーやエスニシティの表象は、撮影者である「日本人男性」すなわち帝国の眼差しの反映であり、それらを多言語かつ複数の眼差しで読み解き、積み重ねていくことで、支配者の眼差しをズラし、相対化していくことにつながる。その時アーカイブは、複眼的かつ生産的な批評の営みの場となる。

華北交通アーカイブ:http://codh.rois.ac.jp/north-china-railway/

関連レビュー

異郷のモダニズム─満洲写真全史─|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年07月15日号)

2019/03/02(土)(高嶋慈)

増山士郎「Self Sufficient Life」

会期:2019/02/15~2019/03/10

京都場[京都府]

アイルランド、ペルー、モンゴルの3ヵ国にて、現地の人々の協力と家畜から毛の提供を受け、伝統的な技術を用いて動物繊維加工品をつくる増山士郎のプロジェクトを集大成的に見せる個展。資本主義の発達したアイルランドで失われつつある伝統的な羊毛産業に着目した《毛を刈った羊のために、その羊の羊毛でセーターを編む》(2012)、ペルーの高山地帯で放牧を営む家族の協力のもと制作された続編《毛を刈ったアルパカのために、そのアルパカの毛でマフラーを織る》(2014)、そしてモンゴルの遊牧民の協力のもと制作した完結編《毛を刈ったフタコブラクダのために、そのラクダの毛で鞍をつくる》(2015)の3作品が展示された。毛を刈り、梳き、糸車で紡ぎ、紡いだ糸を手編みや織機で布に仕立てるまでを現地の人々に教わる様子を記録した映像と、すべて手作業でつくられたセーターやマフラー、鞍、そしてそれらを身に着けた動物たちの写真でそれぞれ構成されている。セーターやマフラーは野趣あふれる佇まいながら、化学染料で染められていない優しく繊細な色合いが魅力的だ。


[撮影:曽我高明]


増山の3つのプロジェクトは、飄々としたユーモアをはらみつつ、資本主義社会や産業化と「コミュニティ・アート」、双方への批評的なアプローチを含む点に意義がある。牧畜や遊牧を営む「遠い」土地に赴き、家畜の毛を刈り、貨幣で代価を支払う代わりに、セーターやマフラーを編んでプレゼントする。伝統的なスローな技術を用い、生産と加工を同じ場で連続的に行なう振る舞いは、近代産業化や大量生産に対する批判的応答である。

また、生産物を相手に「贈与」する振る舞いは、「アーティストがコミュニティに入り、現地の素材や技術を用いて、現地の人々とともに作品をつくる」昨今の流行に対し、「アートによる一方的な搾取ではないか」という批判がなされることへの応答でもある。さらに増山の「贈与」の相手が、現地の人々ですらなく「(毛の提供者すなわち二重の「搾取」の対象である)動物」である点に、ユーモアに秘められたラディカルさがある。


[撮影:曽我高明]

2019/03/02(土)(高嶋慈)

「仮留(かす)める、仮想(かさ)ねる 津波に流された写真の行方」展

会期:2019/02/23~2019/02/24

ららぽーとEXPOCITY 光の広場[大阪府]

宮城県亘理郡山元町において、東日本大震災による津波に流された写真約80万枚を洗浄、デジタル・データベース化し、持ち主に返していくプロジェクト「思い出サルベージ」。被災写真救済活動のひとつのモデルをつくったこの活動から派生的に展開している「LOST&FOUND」プロジェクトは、損傷が激しく持ち主の判別が難しいと判断された写真を譲り受け、国内外の美術館やギャラリーでの展示を行なってきた。

「思い出サルベージ」と大阪大学の共同主催による本展では、持ち主への返却が難しい被災写真約8,000枚が展示された。企画者は、「関西災害アーカイブ研究会」のメンバーである3人の研究者(岡部美香(大阪大学人間科学研究科准教授)、溝口佑爾(関西大学社会学部助教)、高森順子(愛知淑徳大学コミュニティ・コラボレーションセンター助教))。これまでの「LOST&FOUND」の展示活動と異なり、本展の最大の特徴かつ挑発的な点は、開催場所がホワイトキューブではなく、あえて「ショッピングモール」という商業空間を選択したことだ。それは、いくつもの矛盾や裂け目がせめぎ合い、反発し合いながら、無数の意味の層と問いを連鎖的に生み出していくような場をつくり出していた。



会場風景

休日の買い物客でにぎわうショッピングモール。通路の交差する中央の吹き抜け空間。通常はライブやトークショーなどの華やかなイベントが開催されているであろうその広い空間に、約1m四方の正方形の低い台が並べられ、50枚ほどの写真がびっしりと敷き詰められている。そのほとんどはL判の家庭用プリントだが、激しい引っ掻き傷のように、あるいは焼け焦げた跡のように、画像は白く消え失せ、マーブル状に混じり合ったインクが画面を覆っている。一枚一枚に目を凝らすと、旅行先や結婚式、宴会、子どものスナップ、卒業式や運動会などの行事を写したと分かる写真もあれば、ほとんど真っ白に消失し、何が写っていたのか定かではない写真もある。

これらは「二重の痕跡」を刻印された写真である。被写体の人々の(多くは人生のかけがえのない瞬間の)記憶の断片であり、かつ津波を受けた痕跡を有すること。そして第二の「痕跡」が第一の「痕跡」を上書きし、かき消そうとしていくさまは、(被写体の多くが「人物」であるからこそ)彼らの身体に無残にも付けられた「傷」を否応なく想起させる。それは、「写真」であると理解しつつも、悪寒のように襲ってくる直感的な想像である。

ここに、写真(紙焼き写真)が写真であることの本質的な矛盾が顔を出す。それは、誰かの記憶が焼き付けられたイメージであり、時に本人の存在と等価にまで近づき、同時に物質でもある。ほぼ真っ白になった写真であっても、洗浄と保管の対象となる。被写体が何か/誰であるかにかかわらず、ただ「写真である(あった)」という一点のみが、これら無数の被災写真の「救済」を等しく支えている。

また、一枚一枚の写真に目を通していくうちに、「被写体の人物の顔が消去されている」という共通点に気づく。「持ち主への返却が難しい」理由のひとつはここにある。それは、「固有の顔貌の消去」という暴力的な事態を想起させる一方で、「写真を見る者が自身の記憶をそこに投影し、代入できる想像的余白」としても働く。



会場風景

同時にそこには、「傷、トラウマ、時制(の混乱)」をめぐるメタフォリカルな事態を読み込むこともできる。写真の表面を覆う津波の痕跡は、過去に起きた出来事の傷痕でありつつ、写された人々は今も渦巻く水に飲み込まれ、炎に包まれているように見える。それは、「受難の瞬間を凍結された現在」という矛盾した時制を生き続ける。

一方で、これらの被災写真が美の観想のための場ではなく、「ショッピングモール」という空間に置かれることで、さらなる意味の層が輻輳的に発生する。ポジティブな側面としては、展示目的でない通りがかりの来場者も巻き込み、ホワイトキューブにおける「展示」が暗黙のうちに要請する「厳粛な気持ちで見なければならない」という倫理的要請や心理的バリアを解除し、あるいは「美的なものとして眼差してしまう」罪悪感を和らげるだろう(例えばホワイトキューブでの展示は、絵具の飛沫が飛び散ったような被災写真を、ゲルハルト・リヒターの《オーバー・ペインテッド・フォト》に重ねる視線を誘発しうる)。その一方、「ショッピングモール」という消費資本主義の象徴空間に異物として置かれることで、これらの写真は、「消費の快楽と忘却、不快なものの排除」という消費資本主義空間の暴力性に晒されてもいる。館内アナウンス、各店舗から流れる大音量のBGM、買い物客のざわめき、子どもの歓声……。周囲のノイズが絶えず観想を妨げ、音響が剥き出しの暴力として襲ってくる。それは、「ショッピングモール」という具体的な場のみならず、東京オリンピックと大阪万博へと向かう日本社会全体を覆い尽くそうとする明るくも暴力的な力であり、その意味でこれらの写真は「津波」に続く「二度目の暴力」に今まさに晒されているのだ。

「写真を元の持ち主に返す」目的で出発し、個人の宛先を想定した活動の過程で、持ち主不明となった写真が次第に集合体を形成し、保管や展示の対象となり、一種の公共財として次第にアーカイブ的な性質を帯びること。「個人的な思い出」として完結していた存在が、公共空間での展示により、上述のような複数の意味の層を発生させ、問題提起し始めること。アーカイブは静的な場ではなく、読み取る視線によってこそ活性化し、内部で変容を遂げていくのだ。

この点において本展は、通行人をも注視する眼差しに変える、いくつかの秀逸な仕掛けを用意していた。まず、壁によって境界画定された場ではなく、出入り自由なオープンな場に、水平の平台を仮設的に設置したこと。台の「低さ」も意図的な選択だ。近づいてよく見ようとする者は、必然的に屈みこまねばならない。「屈みこむ」という身体的なアクションが、注視の姿勢へと誘う。「低さ、見にくさ」というハードルは、むしろ見る者の能動的な関与を引き出す触媒として作用する。そして、鑑賞者は、「気に入った(気になった)写真を1枚だけ選び、ポラロイドカメラで撮影し、現像を待つ間、スケッチブックにコメントを書き込む」ように勧められる。ポラロイドカメラの手軽さ、記念撮影的な楽しさ、写真を貼るマスキングテープやカラフルなペンも用意され、参加する人も多かった。それぞれの視線で切り取られた展示の記録と言葉が、スケッチブックに蓄積されていく。


「1枚だけ選んでよい」という仕掛けも秀逸だ。自分の記憶と重なるような写真、感情的に揺さぶられた写真、色合いが「美しい」と感じられた写真……。自分にとって何かを訴えかける写真を選ぼうと一枚一枚に目を凝らす鑑賞者は、「流された写真を探す」被災者の目線を擬似的にトレースし、追体験するようになる。それは、「他人の撮ったアマチュア写真を見る」という経験につきまとうバリア(無関心や退屈さ、他人のプライベートを覗き見する気まずさ、倫理性、被災者/非当事者という距離)をゆるやかに解除し、元のアルバムから引き剥がされて「津波の被害を被った写真」としていったん一般化・集合化されたものを、再び個別的な唯一無二の存在へと回帰させていくのだ。また、「ポラロイドカメラで複写する」行為は、「記憶に留めたいものを写真に撮ることで、イメージの世界に結晶化させる」、すなわち自らの手中に留められないものを永遠化するために写真を撮るというささやかな欲望が、これらの膨大な写真を撮った人々と同様、自身の内にも内在することを再確認するだろう。

「災害の記憶の保存と継承」から出発し、写真論的な観点(写真の抱え込む複数の矛盾の開示)、アーカイブの機能、展示装置、社会批判、記憶の分有の可能性といった幅広いトピックスについて示唆的な問いを投げかける、極めて意義深い企画だった。

2019/02/24(日)(高嶋慈)

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