artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

「わが町」アクセス 徘徊演劇『よみちにひはくれない』

会期:2021/11/27~2021/11/28

岡山市表町・京橋地区[岡山県]

「老いと演劇」をテーマに「OiBokkeShi」を主宰する劇作家・演出家であり、介護福祉士の菅原直樹が演出する市街上演作品。「徘徊演劇」と銘打たれているように、「街を徘徊する認知症の病妻を探す老人」という設定の下、商店街や河畔を俳優とともに移動しながら観劇する。「OiBokkeShi」の「看板俳優」である95歳の岡田忠雄は、自身も実際に認知症の妻を在宅で介護する当事者でもある。また、本作は、NPO法人アートファームが企画・主催し、2023年秋にオープン予定の岡山芸術創造劇場のプレ事業「わが町」シリーズの一環として実施。建設予定地に隣接する商店街での上演は、街と劇場の距離を架橋する試みであると言える。地域の協力をあおぎ、商店街の路上に加え、実店舗の内部も上演場所となった。さらに、演劇へのアクセシビリティは「バリアフリー上演」としても整備され、手話通訳者の同伴や盲導犬を連れた観客の受け入れなどの観劇サポートも充実していた。



公演風景


「老い、介護、認知症」と「市街劇」を掛け合わせた形態として、「徘徊演劇」というキャッチフレーズは新奇な期待を抱かせる。だが、本作を見終えて感じたのは、「徘徊」の内実が、「20年ぶりに岡山に帰郷した主人公が街を彷徨う自分探しの物語」にすり替わってしまったという失望感だった。物語は、帰郷した30代男性の「神崎」が、子供の頃に可愛がってくれた高齢男性と偶然再会するシーンから始まる。「認知症で行方不明になった老妻を捜してくれ」と頼まれた「神崎」が、商店街の中をひとり探し歩くうちに、父親との確執や好きだった幼馴染の病死といった「彼の過去」が次第に明らかになっていく展開だ。「かつて父の営む店舗があった」空き地で語られるのは、病に倒れた後、以前にも増して暴力を振るうようになった父から逃げるように上京した経緯だ。「幼馴染の実家」の洋品店に立ち寄ると、彼女が癌ですでに亡くなったことを告げられる。河畔で泣き崩れる「神崎」の前に立ち現われる、幼馴染と父親の霊。上京してミュージシャンとして成功する夢も叶えられず、失職中でおまけに自分の浮気が原因で離婚調停中という「仕事も家庭もダメな男、神崎」だが、ラストシーンで高齢男性に再会して「病妻への深い愛情」を知り、現状を叱咤され、過去の確執とも決別して(商店街の店舗の)「外」へと一歩踏み出す……というストーリーだった。



公演風景


このように、本作における「徘徊」とは、「夢も愛情も人生の道も見失った傷心の男が、帰郷すなわち自分の原点に立ち返り、『男としての先輩』である高齢男性に諭され、再び希望と道を見出だす」まで街を彷徨う道のりに変貌してしまっていた。また、「父との確執」が軸になる一方、圧倒的な「母の不在」が影を落とす。だが、「母」はドラマに巧妙に埋め込まれている。「公園で遊んでいたら幼馴染が蜂に襲われ、大声で大人に助けを呼んだ」という彼の子供時代のエピソードに留意したい。「あなたは、自分が思っている以上に優しくて頼れる人だよ」と語る幼馴染(の霊)こそ、「ダメな自分」を全肯定して自信を与え、優しく見守り、無償の愛を注いでくれる「母」の代替なのだ。本作で実質的に描かれるのは、男の自己慰撫の物語に過ぎず、「認知症による徘徊」は、主人公が街を彷徨うための「口実」でしかない。

だが、「老い、介護、認知症」と「パフォーミングアーツ」の交差には、もっと豊かな領域が広がっているのではないか。こうした交差領域にある試みとして、重度身体障害者や認知症高齢者の介護士が普段の介護労働を実演する村川拓也の演劇作品や、老人ホームの入所者とダンスを踊り言語化する砂連尾理、「老いと踊り」を生産的な批評の場に載せるダンスドラマトゥルクの中島那奈子などが挙げられる。菅原の「OiBokkeShi」の特異性は、「看板俳優」自身が老老介護の当事者である点だが、「実生活に近い高齢男性役」としての出演にとどまる点に限界を抱えていた。だが、例えば、実体験をドキュメンタリー演劇として取り込む手法も考えられるのではないか。

また、「徘徊演劇」の真のポテンシャルは、「現実の市街地の風景の上に、『演劇』という虚の世界を上書きする」市街劇の構造と、「今ここにある現実とは別の『現実』を生きている認知症者の知覚世界」を重ね合わせるメタ的な手法にあると言える。本作の後半では、「認知症で街を徘徊中の病妻」がすでに死亡しており、彼女を捜す高齢男性自身もじつは認知症を患っていることが明かされる。「病妻がまだ生きている世界」に暮らす彼の知覚世界を共有し、「実在しない彼女」の姿を求めて街を彷徨う私たちは、「演劇」の世界に身を置いているのか、「認知症者の知覚世界」をともに生きているのか。そこでは、両者の弁別や現実/虚構の不確かな境界が瓦解すると同時に、「他者を人格ある個人として尊重し、否定ではなく寄り添う」というケアの原理もまた浮上する。さらには、「男性とケア」というアクチュアルな問題をジェンダーの視点とともに主題化し、男性中心主義的な価値観や性別役割分業の問い直しへ結び付けることもなされるべきではないか。

2021/11/28(日)(高嶋慈)

はなもとゆか×マツキモエ『DAISY』

会期:2021/11/18~2021/11/20

京都芸術センター[京都府]

女性としての生きづらさや社会的抑圧を、ダンサブルな楽曲にのせてポップに昇華するダンスデュオ、はなもとゆか×マツキモエ。前作『VENUS』では、全編にわたり安室奈美恵の楽曲が流れ続ける多幸感に満ちた世界で、生殖や世間的圧力のメタファーであるピンポン球=卵が飛び交うなか、「ラケットで球を打ち返す」身振りが脅迫的に反復され、恋バナや合コンについて語るモノローグと、依存から自立への意志を示すダンスが展開された。

主題も構成も『VENUS』の続編と言える本作においても、はなもとゆかが実体験を元にモノローグを語りながら踊る。「愛されたい」一方、社会の要請する型にはめられた「女性らしさ」の強固さというジレンマは、本作でよりエグみを増した。「私、このたび、入、入……入会しました!」とはじける笑顔で語り出すはなもと。婚活サービスに「入会」後、容姿を唯一の基準とする一方的な査定の視線にさらされる。お見合い写真撮影で要求される、型通りの髪型や服装(白かパステルカラーのワンピース)、「控えめな」笑顔。それは「原色が好きで、Tシャツ、パンツ、ポニーテール、リュックにスニーカー、これが私です」と語るはなもと自身とは程遠い。また、会うことになった「42歳の美容外科医」の言葉は、外見や体型への批判的なコメントばかりであり、「女性を一方的に容姿で品評してよい」ルッキズムの典型だ。「こんなことを言われてまだ頑張らないといけないの?」と言い終えてからのソロは、「終始後ろ向きで観客に表情を見せない」仕掛けが効いていた。バレエをベースとした躍動感あふれるソロダンスだが、「一番自分らしいダンス」を踊る喜びを、誰かに見せるためではない笑顔で踊っているのか? それとも、抵抗として表情を硬く封印しているのか? と想像させる。



[撮影:shinz]


また、デュオの強度も増した。はなもとと男性ダンサーは、床を転がりながら密着度の高いコンタクトを繰り出し、次々と体勢を変化させていく。挑発的なアイコンタクトも交えながら、エロティックかつ動物的でしなやかな運動が惹きつける。また、(後述するように)「ドラァグクイーンの登場」が本作のひとつのポイントだが、終盤では、舞台奥にカツラやヒールを脱ぎ捨てたドラァグクイーンが後ろ向きに立ち、手前ではヌーディーな下着姿のマツキモエが硬質かつ高速のダンスを精密機械のような精巧さで繰り出す。直接的なコンタクトもなく、身体の向きも正反対だが、何かを探り、たぐるようにくねらせる腕の動きが共鳴する。そのデュオは、「力強さ=美」であり、「ただ私のために踊る。それがあなたと共鳴する」と雄弁に語っていた。



[撮影:shinz]


最後に、「ドラァグクイーン」に関して、前作からの発展的展開と今後の展望について述べたい。前作『VENUS』では、ダンサーたちと直接交わることなく、一段高い壇上に神のような超越的な存在が君臨し、見守っているのか支配しているのか不明なまま、不気味な存在感を放っていた。一方、本作では、この超越的な存在が「ドラァグクイーン」として明確に実体化され、ダンサーたちと同じ地平に降臨し、トランスジェンダーの女性歌手の楽曲でリップシンクを披露し、力強いメッセージを放つ。舞踏をやっていたという彼/彼女は、「ただ美しくなりたかった。美に性別は関係ない。精神の発露が絶対的な美となり、他人に何を言われても揺るがないその美しさが他人から言葉を奪う。それを認めようとしない世間に、私とあなたで抵抗と祝福を贈りましょう」と宣言する。だが、その傍らでは、はなもと、マツキ、もうひとりの男性ダンサーがスクワットやストレッチ、腕立て伏せやシャドウボクシングなど「美しく引き締まったカラダを作るためのエクササイズ」に従事し続け、「痩せたカラダ=美」という画一的な外見至上主義に囚われているように見えてしまう。

また、前作よりクリアな姿で降臨したドラァグクイーン=超越者と、特にはなもととの関係性が曖昧な点も気になった。直接交わらない両者は、いまはまだ別次元に身を置いているようだ。だが、自虐的なモノローグを繰り出しながらパワフルに踊るはなもとは、すでに力強さに満ち、美しい。美容外科医のつまらないルッキズムにまみれた女性蔑視など吹き飛ばすほどの説得力がダンスにすでに備わっているのだ。超越者=ドラァグクイーンとはなもと自身の関係性が今後どう交差するのか? 内在する神としてはなもと自身と一体化するのか? 期待したい。



[撮影:shinz]


関連レビュー

はなもとゆか×マツキモエ『VENUS』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年12月15日号)

2021/11/19(金)(高嶋慈)

ゲリー・デ・スメット「意図せぬ因果関係」

会期:2021/10/07~2021/11/27

HRDファインアート[京都府]

ベルギー人アーティスト、ゲリー・デ・スメットの、日本初紹介となる個展。写真コラージュ作品「意図せぬ因果関係」シリーズが展示された。かつてのナチスやナチズムの復興を掲げる現在の欧州の極右勢力が自らの正統性のシンボルとして用いる「ルーン文字」の形に台紙を切り抜き、同性や肌の色の違う人どうしの性行為のポルノ画像がその下からのぞく。それは、性的マイノリティや「民族の純潔の侵犯」という意味で、彼らが排斥の対象とするものだ。ドイツではハーケンクロイツ(鈎十字)に加えて、ナチスと関係のあるルーン文字の使用が禁止されており、ベルギーにおいてもルーン文字は、ナチスによる占領の記憶と強く結びつく禁忌的記号である。タブーとタブー、ポルノグラフィーという記号(的なもの)と記号の衝突。それは、自らを正統化しようとするシンボルを通して、排斥の対象そのものを眼差すという矛盾した裂け目でもある。



[写真提供:HRDファインアート]


だが、その裂け目のなかのポルノ画像の多くが、「男性向けにつくられた、女性どうしの濃密なプレイ」であることに注意しよう。さらに、「褐色の肌」がそこに加わることは、例えばアングルが描いた《トルコ風呂》のように、「非欧米圏の女性を『性的に奔放で魅力的な存在』として一方的に表象する」オリエンタリズムを想起させ、二重・三重に他者化されたエロティックなイメージの形成史へと連なっていく。そのとき、「ルーン文字の形に切り抜かれた窓」は、他者として領有されたイメージを「ハーレム」に象徴される密室に再び閉じ込める装置となり、同時に「西洋白人男性」の視線による性的イメージの形成史を批評的に見つめるための「のぞき穴」となる。

正統性の根拠と排斥対象、欲望の眼差しの主体と他者化されたイメージの領有。その両者の表裏一体的な構造こそを本作は指し示す。



[写真提供:HRDファインアート]


2021/11/19(金)(高嶋慈)

ALLNIGHT HAPS 2021「彼は誰の街に立つ」#3 村上慧《広告収入を消化する》

会期:2021/11/13~2021/12/18

東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)[京都府]

制度と共謀しつつ、その間隙を突いていかにクリティカルな制度批判を打ち出せるか。

「広告収入を消化する」と題された村上慧の個展は、肉体を資本とする賃金労働と広告装置が支える消費資本主義のシステムを、自らの身体を文字通り駆使して鋭く照射する。

本展は、夜間に路上からガラス越しに鑑賞する展覧会シリーズ「ALLNIGHT HAPS」の一環。スクリーンに映る村上の裸の上半身が「広告ウィンドウ」となり、もうひとつの映像が入れ子状に投影される。「提供」の2文字とともに、HAPS、京都のギャラリーショップや書店、アーティストの明和電機のロゴが表示。事業の紹介、通販サイトの宣伝、テレビショッピングのノリでグッズ販売を行なう広告映像が流れる。



[撮影:前端紗季]



[撮影:前端紗季]


生ける「広告ウィンドウ」となった村上は、同時に、協賛スポンサーから支払われた「広告収入」でデリバリー注文したフードやドリンクを次々と口に運んでいく。消費価値を作り出す広告を、食料に交換して文字通り「消費・消化」する転倒の操作であり、自身の身体を広告媒体にして報酬を得る行為は、労働と資本の本質的関係をシンプルかつ鮮やかに可視化する。私たちは、自らの肉体を資本とする賃金労働に従事し、報酬として得た金銭で生命維持、すなわち資本としての身体を維持し続けているからだ。そして広告産業とは、消費資本主義を駆動させ続ける動力源にほかならない。

村上は、自作した発泡スチロール製の「家」を背負って国内外を歩いて旅するプロジェクト「移住を生活する」においても、都市の路上に身体を開きながら、不動産(家)の所有の観念、定住/移住や公/私の境界線をめぐり、既存の社会経済の構造や管理社会の間隙をユーモラスかつ鋭く問い直してきた。CMのスポンサーがギャラリーやアーティストである本展では、アートと商品経済の皮肉な関係も露呈されている。



[撮影:前端紗季]


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個と公の狭間での実践と、終わらない問い──展示と本を通して見せる「村上慧 移住を生活する」|野中祐美子:キュレーターズノート(2021年06月15日号)
アーティストたちの客観性──高松コンテンポラリーアート・アニュアル vol.08/社会を解剖する|橘美貴:キュレーターズノート(2019年10月15日号)

2021/11/14(日)(高嶋慈)

ホー・ツーニェン「百鬼夜行」

会期:2021/10/23~2022/01/23

豊田市美術館[愛知県]

あいちトリエンナーレ2019で発表された《旅館アポリア》、YCAMとKYOTO EXPERIMENT 2021 AUTUMNで展示された《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》に続き、アジア太平洋戦争期の日本をシンガポールという「外部」から再批評するシリーズの第3弾。小津安二郎や海軍プロパガンダアニメ映画の引用、セル画アニメの層構造への言及、ロボットアニメが描く「虚構の戦争」やVRに対するメディア批評を織り交ぜ、強烈な身体経験とともに歴史の力学を緻密に再構築してきた。本展「百鬼夜行」でホー・ツーニェンが召還するのは、アニメや漫画でおなじみの「妖怪」である。

展示前半では、闇の中を練り歩く奇怪な妖怪たちが、恩田晃によるおどろおどろしい音楽を背景に、アニメーションによる絵巻仕立てで紹介される。平安末期や幕末、コロナ禍の「アマビエ」など戦乱や災禍の時代に流行した妖怪が世相批判も担っていたように、既存の妖怪が批評的に読み替えられていく。例えば、山や谷で反響音を引き起こす「山彦(やまびこ)」は、共鳴壁で包囲してイデオロギーを増幅させるプロパガンダ装置の謂いとなる。全身に無数の目を持つ「百目」や障子に無数の目が浮かび上がる「目目連(もくもくれん)」は監視網のメタファーだ。油を欲しがる「油すまし」や「化け猫」は「1942年から45年にかけて東南アジアで多く見られた妖怪」とされ、石油資源を求めた日本の侵略に重ねられる。「塗り壁」は過去への道を阻む障壁、経典を食い荒らす「鉄鼠(てっそ)」は歴史資料を食べる妖怪とされ、歴史の健忘症の要因として読み替えられる。魑魅魍魎が跋扈する奇形的空間としての戦時期日本が現在にまで接続され、「百物語」の灯が消えた瞬間に「妖怪が出現する」演劇的な仕掛けも痛烈だ。



ホー・ツーニェン《百鬼夜行》(2021)[©Ho Tzu Nyen, Photo: ToLoLo Studio]


展示後半では、百の妖怪のうち「のっぺらぼう」「偽坊主」、そして変幻自在な「虎」に焦点が当てられる。戦争末期、カモフラージュのため多くの日本兵が僧侶に化け、スパイ養成機関「陸軍中野学校」は、変幻自在で顔のないスパイ=のっぺらぼうを生み出した。戦争責任回避のため僧侶に変装した辻政信と、一方、戦友の慰霊のため僧侶として生きることを決意した小説『ビルマの竪琴』の水島上等兵。「マレーの虎」もまた多重的に分裂した像を見せる。シンガポール攻略の司令官の山下奉文と、中野学校出身のスパイから軍の諜報活動に勧誘された日本人の義賊、谷豊の2人である。作品中の映像は、記録画像/映画(フィクション)の引用/アニメが多重露光的に重なり合い、輪郭が曖昧にブレ、虚実の境界を揺るがせることで、「これが(隠された)真実だ」というプロパガンダとの同質化を回避する。彼らの「顔」は匿名的に消去されているが、僧侶姿の元水島上等兵が現地に残る決意を竪琴の演奏で戦友たちに伝えるシーンでは、顔の表情が回復され、「のっぺらぼう」が、戦争による人間性の抹消も示していたことに改めて気づく。



ホー・ツーニェン《百鬼夜行》(2021)[©Ho Tzu Nyen, Photo: ToLoLo Studio]



ホー・ツーニェン《百鬼夜行》(2021)[©Ho Tzu Nyen, Photo: ToLoLo Studio]


また、「虎」は、時代の要請を受けて変幻自在に何度でも蘇る。千人針に縫い込まれた「虎」。「マレーの虎」のひとり、谷豊は戦時中にプロパガンダ映画で英雄化され、1960年代のテレビドラマや、日本が経済的にアジアに進出した80年代には映画で、「怪傑ハリマオ」として蘇る。タイガーマスクや『うる星やつら』のラムちゃんなど、ヒーローや超自然的能力を持つ存在もこの列に加えられ、時代の無意識的な欲望とその亡霊性が示される。



ホー・ツーニェン《百鬼夜行》(2021)[©Ho Tzu Nyen, Photo: ToLoLo Studio]


展示全体を通して、「過去への遡行」としての妖怪像を提示する本展。ちなみに、百の妖怪のうち、家の障子を震わせる「家鳴(やなり)」は《旅館アポリア》で展示会場の日本家屋を暴風雨/空襲のように揺らす仕掛けも示唆し、「不可知の雲」のビジュアルは《未知なる雲》(2011)のセルフパロディであるというように、ホー自身の「過去作」も取り込まれている。

妖怪が見せる変幻自在なトランスフォームは、アニメが得意とするところであり、本展は、《旅館アポリア》と《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》の前2作に比べると、エンターテイメント色が強く楽しめる。だが、なぜそもそもホーは、戦時期日本を対象化するにあたり、「妖怪」を参照したのか。例えば、「道に迷った」を「狐に化かされた」と言い換える表現があるように、妖怪(姿が見えず、人智の及ばない存在)のせいにすり替えることで、主体や責任の在りかを曖昧化してしまう。「さまざまな妖怪が戦前の日本に取り憑き、現在も目を眩ませて健忘症を引き起こす」、すなわち「行為の主体性と責任」が見えないことこそが、本作の指し示す、真に恐るべき事態である。

関連レビュー

ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年09月15日号)
ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声(後編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年09月15日号)
あいちトリエンナーレ2019 情の時代|ホー・ツーニェン《旅館アポリア》 豊田市エリア(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年09月15日号)
ホー・ツーニェン『一頭あるいは数頭のトラ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年03月01日号)

2021/11/06(土)(高嶋慈)

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