2021年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

芳木麻里絵「fond de robe ─内にある装飾─」

会期:2020/02/07~2020/03/28

ワコールスタディホール京都 ギャラリー[京都府]

「光の繊細な陰影」や「触覚性を喚起する質感をもつ表層」に着目し、モチーフの表面をスキャンまたは接写して得た画像を元に、アクリル板の上にシルクスクリーンの技法を用いてインクの層を数百回刷り重ねることで、イメージを「インクの積層」として再物質化する芳木麻里絵。その作品は、2次元と3次元、イメージと物質、表面と奥行きといった二項対立を攪乱的に往還しながら、「版」と複製・再現、3Dプリンターによる造形、そしてデジタル化された画像データに日常的に取り囲まれた私たちの知覚環境について問いかける。

芳木はこれまで、光の陰影や透過性、襞がもたらす2次元性と3次元性の共存といった点から、「レース」を主要なモチーフのひとつとして制作してきた。下着メーカーのワコールが運営するギャラリーで開催された本展では、1920年代と現代の「女性の下着」に使用されたレースをモチーフとすることで、これまでの関心を引き継ぎつつ、ジェンダーや社会史との接続によって作品の枠組みがより広がった。



[撮影:表恒匡]

参照されたのは、公益財団法人 京都服飾文化研究財団(KCI)が所蔵する、現代の下着の原型とも言われる1920年代のフランスのブラジャーやスリップと、ワコールの2020年春夏の最新の下着である。第一次世界大戦期に労働力として女性の社会進出が進み、身体を締め付ける窮屈なコルセットに代わってブラジャーやスリップが生み出され、戦後、機械織りによるレースの製造普及や女性の社会的地位の変遷とともに普及していった。100年前の下着も現代の下着も、華やかで繊細なレースの装飾が付されている点では変わらない。一方、100年前の下着は、(財団の所蔵資料ということもあり)表面に直接接触して文字どおり引き剥がすようなスキャニングではなく、接写による浅い被写界深度によってピントのボケを伴った画像に置換されている。そこに、現代の下着の源流という「近くて遠い」対象にどう接近するのかという眼差しを重ね合わせることもできる。



[photo: YOSHIKI Marie]

「外からは見えない」存在であるのに「装飾」が付されている下着の両義性はまた、「ファッションの一部として楽しむ」という女性自身の歓びの能動的側面と、「なぜ美や装飾性が求められているのか」という問いの双方と関連する。下着は、「服の土台(fond de robe)」として身体を支えつつ、「第二の皮膚」としての衣服とさらに皮膚の表面とのあいだの親密な領域で、自他の欲望が入り混じった複雑な領域を形成している。

(ヘテロセクシュアルの)男性作家が「女性の下着」をモチーフや被写体に取り上げた場合、「性的に眺める視線」を完全に排除することは難しいだろう。(ヘテロ)男性にとって「女性の下着」は、オブジェとして客体化された性的な視線の対象だが、日常的に身につける女性にとっては(上述のような複雑な欲望の領域を形成しながら)皮膚の表面に触れる、触覚性を伴ったものだ。ここで、2次元化された画像をインクの層の物理的堆積として3次元化して再出力する芳木の制作プロセスにおける問題意識を、よりジェンダー的な解釈へと開くことも可能だろう。「(性的な)眼差しの対象」として皮膚から引き剥がされたものを、触覚性を帯びたものとして取り戻す。そこで、インクの層が帯びる歪みや不連続な断層は、「自然」で「完全」な物質としての回復ではなく、他者によって一度異物化されたことの痕跡を宿すものとして立ち上がるのだ。



[photo: YOSHIKI Marie]


本展では、「1920年代のフランスの女性下着」が参照されていたが、日本の場合、「コルセット=規範的な美と身体の矯正からの解放」ではなく、「和装から洋装へ」という別の文脈が関わってくる。デジタル画像、イメージと知覚、シルクスクリーンという版画メディアへの自己言及性をキーワードに制作してきた芳木にとって、本展は、転機と新たな展開の第一歩となるだろう。

関連レビュー

芳木麻里絵「触知の重さ Living room 」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年02月15日号)

2020/03/28(土)(高嶋慈)

地点『罪と罰』

会期:2020/03/20~2020/03/22

京都芸術劇場 春秋座[京都府]

原作小説の舞台、ロシアのサンクトペテルブルクにある国立ボリショイ・ドラマ劇場(BDT)から、劇場の所属俳優が上演するレパートリー作品として『罪と罰』の演出依頼を受けた地点の三浦基。2020年6月のロシア公演に先立ち、地点の俳優を中心とした日本人キャスト版が上演された。

長編小説の骨子を約2時間に抽出し、高利貸しの老婆とその妹を斧で殺害した青年ラスコーリニコフを中心に、彼の妹、金で結婚を買おうと言い寄る男、神への信心を説く母親、身代わりに罪を被ろうとする男、刑の軽減と引き換えに自首を勧める予審判事、そしてラスコーリニコフの自白を受け止める娼婦ソーニャらが織りなす人間関係のドラマが、ポリフォニックな発声と運動量によって紡がれていく。(ロシア語公演への引き継ぎということもあり)言葉遊びによるテクストへの介入と意味の脱臼は薄く、ダイジェスト的な要素が強く感じられたが、本作では俳優の身体運動と「階段」の舞台装置が特に目をひいた。俳優たちは台詞を発話しながら、あるいは無言のままで、ひたすら「歩行」に従事し、階段を昇降し続けるのであり、そこでは「ラスコーリニコフ」「ソーニャ」といった固有名詞は都市の匿名的な雑踏のなかにかき消されていく。「尾行」するように相手のあとをつけ、銃口の形をとった指を相手の頭に突きつける仕草や、「見てましたよ」「あなたですよ」という台詞の反復は、19世紀後半のロシアの裏さびれた街角を、匿名性と監視社会という現代に接続させていく。



[撮影:松見拓也]



[撮影:松見拓也]

「シラミを殺したって罪にはならない」と言いながら、ゴキブリを叩くように掌を床に打ち付けて転げ回るラスコーリニコフの姿は、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」での殺害事件の被告に死刑判決が下されたタイミングと重なったこともあり、独善的な優生思想と肥大したエゴを戯画として突きつける。川への投身自殺を思いとどまった彼が、ソーニャの厳しい弾劾を浴びながら、「自分は特別で、劣った存在とは違うことを証明するために殺害した」ことを認め、のたうちながら自らの頭に「斧を振り下ろす」動作を繰り返すラストの告白は圧巻だ。彼の告白が欺瞞から真実へと近づくにつれ、「背後の街」は彼から切り離されて奥へと遠ざかり、建物に面した「街路」は「川に架かる橋」に変貌し、何もない空虚な空間が出現していく。その空白を埋めるように執拗に鳴り響き続ける鐘の音。そして、強固な存在に見えた「街」は真ん中で二つに割れ、彼の論理と世界の崩壊を告げる。



[撮影:松見拓也]

また、終盤で語られる、彼が見た「夢」の挿話は、コロナ禍とのあまりにも偶然の一致を見せ、預言的ですらある。「アジアの奥地で発生した恐ろしい疫病が、ヨーロッパ全土へと広がってやがて全世界を侵蝕し、大地を浄化する使命を帯びた選ばれた人々だけが生き残る」という夢だ。ラストシーンで彼は、「誰かいませんか!」と虚空に呼びかけるが、応答する者はいない。それは、選別思想によって淘汰が行なわれたあとの死の沈黙なのだろうか。それとも、コロナ禍による「自粛要請」によってもたらされた「文化的な死」の黙示録的な沈黙の光景なのだろうか。

関連レビュー

地点『罪と罰』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年05月15日号)

2020/03/21(土)(高嶋慈)

福井裕孝『インテリア』

会期:2020/03/12~2020/03/15

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

「部屋」という空間単位において、ものとそれが置かれた環境と人(俳優)との相互作用として演劇の上演を捉え直す試み「#部屋と演劇」を行なっている、福井裕孝。「#部屋と演劇」には同世代の演出家、中村大地と野村眞人も参加し、1年間コンセプトを共有しながら各自の作品を上演した。

福井裕孝『インテリア』では、観客は自分の部屋にある「インテリア」をひとつ会場に持ち込み、「部屋」に見立てられた上演空間に配置し、上演を「ものと観る」ことができる。会場に入ると、舞台中央にサイドテーブルと円形ラグ、ティッシュボックスなどの小物が置かれ、ここが「リビング」であるらしいことがわかる。だがその手前の床には色鮮やかなパプリカ、マグカップ数個、ポット、ティーバッグが几帳面に一列に並べられ、黄色い靴下が丁寧に広げて3組並べられている。その光景は「何らかの一定の秩序」に従って几帳面に幾何学的な配置を施されていることがわかるが、「普段の生活空間における配置」の完全な再現ではなく、どこかズレている。また、家具や雑貨、日用品たちはいずれも量販店で買えるような没個性的なもので、「持ち主の強い個性や愛着」を声高に主張するわけでもない。この「リビング」の奥には、大きなビーズクッション、収納シェルフ、加湿器、トイレットペーパーのパックなどが置かれ、壁にハンガーと時計の架けられた空間があり、手前/奥で緩やかに二つの空間が境界画定されている。また、上手側には手前と奥に二つのドアがあり(実際に劇場の「外」に出られる)、ドア付近にはアルコール消毒液や傘が置かれていることから、ここが「玄関」であり、「隣接した二つのワンルーム」の設定が見てとれる。



[撮影:中谷利明]

手前のドアが開き、「ただいま」の声とともにビニール袋を下げた男が入ってくる。鍵を玄関脇に置き、靴と上着を脱ぎ、サイドテーブルの上にある(はずの)電球の紐を引っ張り、リモコンでTVをつけ(るフリをし)、手洗いとトイレを同様にマイムで行ない、ポットで湯を沸かし、マグカップを1個取ってティーバッグのお茶を(実際に)淹れる。ビニール袋からペットボトルを出し、丁寧に折りたたんだ袋の上に置き、脱いだ靴下や淹れたあとのティーバッグも丁寧にティッシュペーパーの上に置く。一連の動作は、毎日の帰宅後の彼のルーティンなのだろう。

男性が部屋を出ていくと、奥のドアからリュックを背負った女性が「帰宅」する。上着をハンガーにかけ、加湿器をセットし、ビーズクッションに座ってスチームを顔にあて、ヘッドホンで音楽を聴いてくつろぐ。同様に帰宅後のルーティンが再現されるが、彼女は手前の空間に侵入し、サイドテーブルのガラス天板を外して奥へ運び、ビーズクッションの横に置き直してしまう。彼女が出ていくと、3人目の女性が客席の通路を通って登場する。この女性(美術作家の西原彩香)は、開演前にロビーに展示してあった自身の作品を舞台=部屋に持ち込み、配置のバランスを考えながら壁や床に「展示」していく。彼女にとってここは「生活空間」ではなく「作品の展示空間」であり、「部屋を構成するさまざまな物体」は存在していないかのようだ。彼女が退場すると、再び手前のドアから男が「帰宅」し、同じルーティンを繰り返す。男、女1、女2の順で、「部屋での行動の再現」が3セット繰り返されるのが本作の基本構造である。



[撮影:中谷利明]

本作の面白さは、女1による「サイドテーブルの移動」、すなわち「もの」の再配置が、同じ動作を反復しようとする男の行動に作用を及ぼす点だ。男の動作は「もの」に規定されるため、基準点となる「サイドテーブル」の位置変更に伴い、電球のあるべき場所もTVをつけるリモコン操作の向きもトイレの位置も変化し、鍵は置かれる場所を喪失して床に落下する。一方、脱いだ靴下やペットボトル、ティーバッグを「並べる秩序」もまた「サイドテーブルを起点とする座標的な位置関係」を順守して遂行されるため、「1セット目」で並べて放置された痕跡を残したまま、新たな場所に「同じ空間秩序」がインストールされ、秩序の(再)構築と痕跡の同時進行が、「生活空間の疑似的再現の場」をカオティックに崩壊させていく。



[撮影:中谷利明]

ここで三者の様態を整理すると、男=「秩序の順守」および「もの」の空間配置による動作の規定、女1=「もの」の移動による空間秩序の再配置、女2=外部から新たな「もの」を持ち込み、別レイヤーの重なり合いの形成と規定することができる。また、この「レイヤーの多重化」は空間だけではなく、時間の圧縮と考えることも可能だ。例えば、「ワンルームの2室の壁が取り払われ、ホワイトキューブのギャラリーに改装された」、その「かつての生活空間」と「現在の展示スペース」が交錯する時空を私たちは見ているのだ、というように。


このように、「ルールの読み解き」や生態観察的な面白さとして楽しめる本作だが、それだけにとどまらない。例えばチェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』(2019)など近年の「ものの演劇」の潮流、代理表象の制度、脱人間・俳優中心的な演劇観に位置づけられるとともに、「ものの配置と秩序の(再)構築による、私的領域の主張(と排除)」という政治性についても考えることができる。「手前と奥の2部屋」に分かれていた空間が、「もの」の移動によって境界線が融解し始め、「私的領域」「テリトリー」が流動化し、「もの」が移動した新たな場所に「元の秩序」を持ち込む男は、「もの」を介した空間の私有地化・再領土化を行なう存在でもある。「室内の私的なインテリア」という「穏当な見かけの物体」はそのとき、インフラや制度のインストールによって地図を書き換え、奪取していく植民地的暴力、あるいは新たな移動先に自身の生活秩序を持ち込んで私有地化の権利を主張する移民的生、その双方のメタファーとして屹立するのである。ここに、演劇論的な実験を超えた本作の射程がある。

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2020/03/15(日)(高嶋慈)

若だんさんと御いんきょさん『鞄』

会期:2020/03/06~2020/03/08

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

安部公房の戯曲『棒になった男』(1969)の第1景『鞄』に対して、3人の演出家がそれぞれ演出した3本を一挙上演する企画。演劇ユニット「若だんさんと御いんきょさん」によるシリーズ企画第2弾であり、昨年は第2景『時の崖』が上演されている。演出違いの3バージョンを見比べることで、戯曲に対するアプローチや解釈の振れ幅が浮き彫りになり、ひとつの戯曲の多角的な鑑賞を通して、多様な読みや上演可能性に開かれた創造的な器としての戯曲のあり方が立ち現われる。


『鞄』は、夫が家の中に置いている鍵のかかった不審な旅行鞄をめぐって、気味悪がる「女」(妻)と「客」(女友達)が交わす会話劇。不審な物音や呟き声を立てる鞄の中身について、女は虫かミイラかもしれないと妄想し、「何をしていてもこの音がまとわりつく」と嫌悪する。女友達がヘヤピンで鍵をこじ開けようとするが、生きているかのように奇妙な物音がして二人は飛び退く。行動の決断力も責任も持とうとしない女は、友人の自尊心を刺激して開けさせようとしたり、どこかに捨ててきてほしいと頼み、心理的な駆け引きが展開されるなか、錠前の外れる音がする。「あとは、あなたの心の錠前だけね」と言い残して友人は去るが、女は鞄に鍵をかけ、夫の帰りを待つあいだ、ラーメンの出前を注文する。


リアルな手触りの会話劇から、「鞄」のもつ不条理性を立ち上げるにあたり、「鞄」をどう解釈し、どこまで具現化/抽象化するか。この最大のポイントをめぐり、三者三様のアプローチが分かれたことが興味深い。実物の「旅行鞄」を舞台上に持ち込んだのは、合田団地(努力クラブ)。エスカレートする苛立ちとディスコミュニケーションの閉塞感が出口を求めて暴走していく回路が、「会話劇」だが対話相手と向き合わず、二人の女優それぞれが客席に向けて放つモノローグ的な発話の掛け違いとして提示された。感情を喪失したような平坦な棒読みやひきつった笑いの肥大化は生理的嫌悪感をかき立て、対人的な感情の出力がコントロールできない、非人間的な狂気へ近づいていく。「ほかにも苛立たせる物音はあるのに」と言う友人が列挙する「飛行機や車の轟音、風の音」は効果音として流れるのだが、「食事は毎日あげているの?」「家の中で来る日も来る日もこの音に悩まされている」といった台詞は、「具現化されていない音」、すなわち赤ん坊の泣き声を想起させ、妻に一方的にのしかかる育児の負担を暗示する。二人の女の背後で所在なさげにテーブルに座っていた男は、「ヘヤピン」を腹に刺され、女たちの感情の暴発が乗り移ったかのようにうめき声を発し続け、遂に自壊して「鞄」に変容を遂げる。女たちもまた、座っていた椅子にそれぞれ旅行鞄を置いて立ち去り、「鞄」からはなおも機械的な発声の声が聞こえ続ける(ように見える)。自分自身が「怖れや不安」の対象と同一化し、非人間性の塊と化す戦慄的なラストであると同時に、「本来そうではないもの」が「そうであるフリ」をする齟齬を最大化して提示することで、「演劇」へのメタ的な身振りともとれる。



合田団地演出『鞄』 [撮影:manami tanaka]


一方、「主導権を奪おうと互いに牽制し合う二人の女の駆け引きに、実効的な支配力を及ぼし続ける男」という構図を採用したのが、河井朗(ルサンチカ)。河井演出では、俳優の身体性や動きの抽象化により重きを置き、静かな緊張感のなかに粘着質の生理的な体感の生々しさがじわじわと迫ってくる。対面して左右対称やユニゾンで動く2人の女は、自己の鏡像か分身のようにも見え、「彼女たちにはその存在が見えない」男は、異物として疎外されている/侵入してくる。押さえた発話や身振りの浮遊感のなかに、引力と斥力、磁力のような見えない力の作用や流れを可視化する手つきが洗練されていた。



河井朗演出『鞄』 [撮影:manami tanaka]

田村哲男による演出は、3本の中では最も戯曲に忠実でありつつ、ジェンダー転倒という変化球を投げてきた。だが、その仕掛けによって新たな解釈の端緒を開きつつ、最終的に自ら閉じてしまっていた点が惜しまれる。田村演出では、「妻」役をあえて男優が演じることで、関係性は定位せずにつねに揺らぎ続ける。彼らはゲイカップルなのか? あるいは「私たち、昔はうまくいってたじゃない」と言うシーンでは、バイセクシュアルとして女友達とかつて恋人関係だった可能性が浮上する。さらに、「女言葉でしゃべるが外見は男性」を字義どおり受け取るならば、この「妻」はMale to Femaleのトランスジェンダーという見方も成立する。そこでは、彼/彼女を悩ませ脅かす「鞄から聞こえる異音」は、ホモフォビアあるいはトランスフォビアの謂いとなる。



田村哲男演出『鞄』 [撮影:manami tanaka]

「仕事の帰りが遅い夫」を待ちながら女友達とおしゃべりして抑鬱を晴らそうとする、「家庭内で夫を待つ妻」。それをあえて男優が演じることで、(50年前という時代差に埋め込まれた)ジェンダー描写の偏向が露わとなる。その偏向は、「ゲイカップル」がヘテロセクシュアルのカップルを前提とした性別役割分業を踏襲していることや、トランスジェンダーがどこまでジェンダー規範や性別役割分業を内面化するのかといった問いの喚起によって、より浮き彫りとなる。

だが、ラストシーンでは、背後のスクリーンに「森友・加計学園」「マイクロプラスチック」「CO2排出量」「グレタ・トゥーンベリ」「非正規雇用」「子供の貧困」「原発再稼働」といった単語が次々と投影され、「鞄」の中身が「現代社会の時事問題」に短絡的に限定されてしまう(そこには「LGBTQ」に関する単語は不在である)。関係性の揺らぎ=想像力を投企できる演劇的余白や、セクシュアリティ・ジェンダーをめぐる問題圏、クィアな読解につながる萌芽はあったものの、掘り下げられないまま、「大きな事象」の羅列の中に拡散してしまったことが惜しまれる。



田村哲男演出『鞄』 [撮影:manami tanaka]


関連レビュー

若だんさんと御いんきょさん『時の崖』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年05月15日号)

2020/03/08(日)(高嶋慈)

リーディングパフォーマンス 市原佐都子/ジャコモ・プッチーニ『蝶々夫人』

会期:2020/02/29~2020/03/08

新型コロナウイルス感染症対策を受け、「観客も含めた少人数でのリーディング」という上演形態が、「オンラインによる戯曲配信」と「参加者の自主的なリーディング」に変更となった本作。合わせて公開された動画では、前半で市原佐都子自身が登場し、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』(1904)の元となったピエール・ロティの小説『お菊さん』(1887~88)を紹介し、美しいが受動的存在として人形に例えられる「ステレオタイプな日本人女性」について解説したあと、後半では、実際のリーディング風景の抜粋が「お手本」として収録されている。筆者はグループでの自主的なリーディング会に参加する機会が得られなかったため、以下の本評は「戯曲の黙読」に基づくものである。

本作の構成は明快で、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』と、市原が書き下ろしたオリジナルの台本が交互に登場する。アメリカから長崎に赴任した軍人ピンカートンの「現地妻」となった15歳の元芸者「蝶々さん」は、3年間夫を信じて帰りを待ち続けるが、彼がアメリカ人の妻を伴って帰還したことを知り、「青い目の息子」を遺して自害する。このメロドラマ『蝶々夫人』のダイジェストの合間に挿入される市原のテクストは、舞台を現代日本に置き換え、オリエンタリズムの眼差しに一方的に晒されてきた「蝶々さん」の側に「私もまた欲望の主体である」という「声」を与えて取り戻しつつ、被抑圧者が「正しい糾弾」を繰り出すのではなく、そうしたPC的な態度に潜む欺瞞に対しても反省的に自覚し、私たちが無意識に抱え込んでいる「差別意識」を突きつける。


市原の書き下ろしは3パートあり、①オペラ『蝶々夫人』をベースにした新作『超蝶々』をドイツの劇場と共同制作中の、女性アーティスト4名から成る劇団「ザ・イエローバタフライズ」の稽古場、②六本木で不倫したビジネスマンのアメリカ人男性による懺悔、③「外人」と結婚した「蝶々ちゃん」の結婚式で祝辞を述べる友人代表、というものだ。このうち、①では、「蝶々さんは、現代では『外人ハンター』(西洋人男性の気を惹くため、ステレオタイプな容姿で六本木に集まる日本人女性)ではないか」という会話に始まり、「容姿を唯一の基準とする女性の優劣化」「見られる対象として相手(西洋人男性/日本人男性)の欲望に容姿を従わせる理不尽さ」に対してルッキズム批判が繰り出されるとともに、「西洋人」への憧れと(コンプレックスの「克服」としての)差別感情があぶり出される。また、ドイツの国際フェスティバルを例に、「非西洋」が文化的植民地として搾取される構造への批判や、「でもフェスから資金が出るから創作できる」=資本主義のマーケットに取り込まれることへの批判が自己言及される。

②では、「不倫を牧師に懺悔するアメリカ人ビジネスマン」の言葉が、「外人」の金とステータスシンボルが目当ての日本人女性を「知性のないサル」と見なす侮蔑と嫌悪に塗り替えられていく。一方、これと対応関係にある③では、「六本木のバーで出会ったピンカートンと結婚した蝶々ちゃん」への祝辞であるはずの言葉が、「外人」(おそらく②のビジネスマンと同一人物)と自身の性行為の赤裸々な描写にすり替わり、「3万円もらった」という言葉が(メロドラマの陰に隠された)「売春」という『蝶々夫人』との共通項を浮かび上がらせる。

形式面を見れば、「牧師への懺悔」「結婚式の祝辞」という形式を借りて、長大なモノローグの「不自然さ」を回避・クリアする手法は、「落語」「歌謡ショー」「セミナー」の形式を借りた『妖精の問題』における問題意識の延長線上に位置づけられる。本作では、この「懺悔」と「祝辞」の双方がお互いへの差別的感情と動物的欲望を赤裸々に吐露するのだが、①の「稽古場シーン」も(市原自身が投影されたと思しき)1人の人物の分裂的な会話にも見える。そのなかで、前作『バッコスの信女―ホルスタインの雌』の海外公演にあたっての経験を自己言及的に引きつつ、「ドイツ人側に対話相手と見られていない」「対等の関係ではない」という台詞が登場する。モノローグの閉塞感の密度をこのまま高めていくのか、あるいはそれを突破してどうダイアローグへと移行するのかが、今後のポイントのひとつになるだろう。


戯曲の段階ではあるが、本作は、これまでの作品との共通項の上に、これからの方向性が見えるものだった。形式的には、オペラすなわち「音楽劇」の要素を含むこと。内容的には、「女性が(見られる・語られる対象ではなく)自身の性や欲望を語ることの肯定」「人種差別」「ハーフ」「ルッキズム批判」に加え、西洋・男性から非西洋・女性に対する「オリエンタリズム」の一方的な眼差しとその反転が加わり、より立体的な拡がりが獲得された。


公式サイト:シアターコモンズ'20 https://theatercommons.tokyo/

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あいちトリエンナーレ2019 情の時代|市原佐都子(Q)『バッコスの信女―ホルスタインの雌』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年11月15日号)

2020/03/07(土)(高嶋慈)

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