artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
会期:2022/03/12~2022/06/05
京都市京セラ美術館 新館 東山キューブ[京都府]
京都では24年ぶりとなる森村泰昌の大規模な個展。ただし、展示されるのは、撮影現場でのテストや「ひとり遊び」としてポラロイド写真で撮られた、ほぼ未発表のセルフポートレイト823枚。森村は、2016年のデジタルカメラ導入以前はフィルムで撮影していたため、現場での確認や調整のためにポラロイド写真を用いていた。「完成作品」に至るまでのさまざまなプロセス──ときに「引用画像」を胸に貼り付けてのポーズや表情の確認、衣装や小道具、ライティングの調整、腕や上半身に及ぶメイクのテストなど──が提示される。そこには、背景スクリーンの後ろにのぞく舞台裏、撮影機材、アシスタントの手、メイク・衣装・カツラを着ける前の森村の素顔や身体、そして私秘的な欲望など、「作品から排除されるもの」がきわめて生々しく写りこんでいる。その「メイキング過程」は同時に、森村が1985年以来歩んできた作家活動の、もうひとつの記録でもある。また、ポラロイド写真はフィルムと異なり複製不可能であり、「一回性」が刻印されている。「作品未満」である存在が「唯一性を持つ」という逆説。普段は表に出ない作家活動の履歴、排除された「作品未満」の集積という意味で、いわば「回顧展のネガ」だ。
展示会場には5つの入り口が用意され、決まった順路はなく、劇場の幕のようにドレープを描いて垂れ下がる重厚な布が、迷路のように配置される。その布の壁の前に浮かぶように展示された写真群は、「作品」と「資料」のあいだの宙吊り状態を暗示する。あるいは、布の壁は、「作品」の上演を待つ、開演前の舞台に降ろされた幕でもある。だが、その「幕」の向こう側をスリットからのぞくと、使用された衣装と靴、愛読書が並ぶ舞台裏のような空間(《衣装の隠れ家》)が広がっており、仮面を剥いでもその下に別の仮面が現われるようで、見る者を煙に巻く。迷路、見世物小屋、劇場のハイブリッド。また、写真群の配置にはシリーズごとのゆるやかなまとまりはあるものの、年代順や順路といった秩序の放棄は、アーカイブという迷宮を空間的に実装する。
本展では、90年代の「女優シリーズ」に関連した写真が(インパクトの面でも)目につく。森村は、全裸のマリリン・モンローや緊縛シーンではあえて「つくりものの胸」を強調し、風ではためくマリリンのスカートの下に「勃起した偽のペニス」を装着するなど、「女性ではない身体」「男性の身体であること」を戦略的に露呈させていた。そこには、ヘテロセクシュアル男性の性的欲望に応えてつくられた女性像を、男性の身体で演じ直すことで、男性の性的消費の視線を無効化させ、返す刀で潜在的なトランスフォビアをあぶり出す批評性がある。さらに、「裸身や素顔のまま、女性の衣装やカツラをまとう」という「変身途中」のポラロイド写真の数々は、ジェンダーが「記号と演じられるもの」であることを示すと同時に、そうした批評の力を「作品」以上に有してもいる。
ここで、本展を別の角度から見るならば、「ポラロイド写真で撮影したセルフポートレイトの膨大な集積が作家自身の人生という時間の厚みを示す」例として、今井祝雄の「デイリーポートレイト」が想起される。今井が1979年5月30日からライフワークとして継続している「デイリーポートレイト」は、「前日に撮影した写真を手に持ち、1日1枚撮影する」というシンプルな行為の蓄積だ。だが、「手に持った前日の写真」には入れ子状に「その前の日に撮った写真」が写りこむため、(目視できなくとも)「撮影開始日から流れた時間」が1枚=1日ごとに加算されていくことになる。写真を列柱状に積み上げた展示では、「時間の層」が物理的に可視化されるとともに、列を追うごとに、次第に年齢を刻んでいく今井の顔の漸進的な変化がうかがえる。本展もまた、「複製不可能な一回性の蓄積により、作家の人生に流れた時間が『作品』を形成し、あるいは『作品』に飲み込まれ、不可分のものとなる」事態を指し示して圧巻だった。
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2022/05/06(金)(高嶋慈)
布の翼
会期:2022/04/15~2022/05/08
染・清流館[京都府]
染色作品を中心に展示する「染・清流館」では珍しい、社会性の強い現代美術作品のグループ展。「布と染色」という切り口から、沖縄・在日・日本国憲法第九条といった戦後日本社会の構造を問う好企画だ。展覧会タイトル「布の翼」には、空爆にも使われる「金属の翼」と対比させ、作家の創造力やメッセージをのせて運ぶ媒体という意味が込められている。
沖縄出身の照屋勇賢の代表作のひとつ《結い、You-I》(2002)は、紅型で鮮やかに染められた振袖だが、文様には花や鳥、ジュゴンに加え、戦闘機、落下傘で降下する兵士、オスプレイが混じり、伝統工芸と米軍基地が同居する。アメリカによる琉球文化の侵食、あるいはそれすらも飲み込んで融合しようとするしたたかさの表現ともとれるが、紅型がアジア太平洋戦争で壊滅的な打撃を受け、戦後は米軍兵士向けの商品をつくりながら復興を遂げたことを考えると、照屋の作品は「伝統文化と基地の共存」といった表層的な見方にとどまらず、紅型が辿った苦難の歴史を包含するものだと言える。また、日清戦争以降の戦前の日本では、日の丸や軍艦、戦闘機などの図案を配置した「戦争柄の着物」が流行したことを思い起こせば、「基地柄の着物」として「戦後の沖縄」に反転させた照屋の作品は、沖縄においてはまだ「戦争」が終わっていないこと、そして身に付ける人の意思表示を伝える装置としての「衣服」を示唆する。
「誰がその紅型を身にまとうのか」という照屋の問いかけと呼応するように、見る者の立ち位置を問うのが、染色の技法で絵画を制作する河田孝郎の《那覇1999》(2000)である。抽象化された家屋の壁を思わせる矩形に、「基地のフェンス越しにこちらを見つめる子ども」の像が染められ、その背後には、沖縄の家屋に使用される赤瓦の屋根がわずかに見える。フェンスで民家と区切られた「こちら側」すなわち「基地の中」に鑑賞者を強制的に転移させる仕掛けは、私たち観客こそ沖縄に一方的に基地を押し付けている共犯者であることを突きつける。
そして、戦争放棄をうたう日本国憲法第九条の条文を、日米の権力関係や視点のズレから問い直すのが、柳幸典のインスタレーションである。《The Forbidden Box》(1995)では、開くことを禁じられた玉手箱(あるいはパンドラの箱)を思わせる鉛の箱から飛び出した布に、原爆のキノコ雲がプリントされ、第九条の条文、その英訳、元になったマッカーサー草案の英文が裏表に重ねられ、日米の視点のズレとともに「読まれにくさ」を可視化する。床に置かれた《Article 9 2016》(2016)では、散らばった電光掲示板に第九条の条文が流れ、バラバラに分節化されて静止したのち、文字が一斉に消えて沈黙する。解体と機能不全のなかに、「公共に向けたメッセージ」として修復を待つ希求がわずかにのぞく。
一方、本展のなかで唯一、個人的な視点から問うのが、染織作家の呉夏枝(お・はぢ)の初期作品である。《三つの時間》(2004)では、祖母の出身地の済州島で、祖母・母・自身のチマチョゴリを着て撮影した写真が、祖母の遺品の麻布に転写される。白、赤、ピンクのチマチョゴリを着て一本の道に立つ呉は、奥へ遠ざかり、振り返り、正面を向き、再び手前へ近づく。祖母と母の記憶である衣服をまとい、「この道に祖母が立っていたかもしれない」と想像しながら記憶を演じなおす呉。その再演の舞台である「道」は、個々の人生の歩み、母から娘への血縁の連なり、民族が強いられた移住と、多義的なメタファーに満ちている。また、祖母の白いチマチョゴリに染めと刺繍を施した《三つの花》(2004)は、あえて皮膚に触れる内側に染めを施すことで、「これをまとった祖母の記憶に触れたい」という切実な思いが美しく昇華されている。そして、「身にまとう人への想像」を介してそれは、「布と染めに託された周縁化された声」として、再び、冒頭の照屋の紅型と出会い直すのだ。
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2022/05/06(金)(高嶋慈)
居留守『不快なものに触れる』
会期:2022/04/22~2022/04/24
THEATRE E9 KYOTO[京都府]
小劇場THEATRE E9 KYOTO、京都舞台芸術協会、大阪現代舞台芸術協会(DIVE)の協働事業として開催されたショーケース企画「Continue 2022」。京都と大阪の若手・中堅の3団体が上演を行なった。本稿ではそのうち、居留守『不快なものに触れる』に絞って取り上げる。
演出家・山崎恭子の個人ユニットである居留守は、小説や評論など戯曲以外のテクストの引用・コラージュをベースに、インスタレーション的な舞台美術と俳優の身体表現によって演劇を立ち上げる試みを行なってきた。本公演は、2021年3月に初演された『不快なものに触れる』のリクリエーションである。筆者は初演版を実見しているが、上演テクストと舞台美術が大きく変更された。コロナ禍が始まって数カ月後の初演版では、災害時などに身体の保温や防風・防水に用いられるエマージェンシーシートという素材で「家=シェルター」が作られ、中盤以降はパフォーマーがその中からモニター越しに発話する点が大きな特徴だった。リクリエーション版では、この「家=シェルター」をなくしてシンプルに削ぎ落とすことで、「両眼のアップを映し出すスマートフォン」という仕掛けの多義性がより鮮明に浮かび上がったと思う。
冒頭、3名のパフォーマーが登場し、三脚を組み立て、両眼の高さの位置にスマートフォンをセットする。観客に向けられた液晶画面には、3名それぞれの両眼のアップが映し出される。パフォーマーはちょうど眼の位置が重なるようにスマートフォンの後ろに立って発話するため、「両眼を隠された匿名性/凝視する眼差し」という奇妙な両義性が同居する。彼らが次々に口にするのは、美容、アンチエイジング、ダイエット、英会話アプリ、ゲームアプリで副業、不安を解消し成功に導くメンタルメソッドなど、さまざまなネット広告の謳い文句だ。「ズボラ女子の私が1カ月でマイナス20kg!」「大学生に間違われる48歳、浮気を疑う夫が続出!」「今すぐ友だち登録で無料!」……。次々と広告が表示され続けるスマートフォン画面を追うようにキョロキョロとせわしなく動く眼。それは、発話主体が曖昧であるにもかかわらず、私たちに強力に注がれる消費資本主義の監視の眼差しであり、「幸福度」「他者からの承認」を競い合うSNSの相互監視網であり、「目指すべき理想像」を演じようとする仮面的自己である。同時に、上演のメタレベルでは、この「観客を見つめ返す眼」が視線の非対称性を反転させ、私たちも監視網から逃れられない存在であることを居心地悪さとともに突きつける。
やがて発話内容は、溢れる広告やSNSに対する反省的思考へと移る。コンプレックスを刺激し自己嫌悪をあおる広告に自分の身体を明け渡してしまい、もはや身体が自分のものだと言えないこと。自分が食べたいからそのメニューを選んだのか、SNSに投稿したいから選んだのかわからなくなり、欲望をコントロールされないようにSNSの投稿を止めたこと。自己承認欲求を満たすためにSNSに書き込むのではなく、友人たちに直接会って人生の転機を伝えたいこと。パフォーマーたちは後ずさって「監視の眼=仮面的自己」から身を引き剥がし、スマートフォンに拘束された窮屈な身体を脱しようともがき、監視と支配に対する抵抗の身振りを示すが、何度も引力圏に引き戻されてしまう。
後半、パフォーマーたちが語る姿は、スマートフォンの動画撮影を介してスクリーンに入れ子状に映し出される。主体的な意志表示のためのツールに変えようという姿勢が示される一方、観客に直に向き合って言葉を届けるのではなく、スマートフォンが介在したままであり、「映像と生身の身体のズレ、分裂、多重化」を示して両義的だ。
そして、「質問回答を操作する認知バイアス」「自分の容姿の自信に対する内閣府の調査結果」についての言説を挟み、「女の子らしさ」の枠組みを押し付ける社会構造への疑問を経て、ラストシーンでは、パフォーマーそれぞれが、他者に押し付けられたものではない、「自分にとっての幸せ」を観客に対面して語る。さまざまなテクストのコラージュを経て、自分自身の言葉を取り戻そうとする道程。語り終えたあと、最後に1台残ったスマートフォンの画面をそっと消して「見開いたままの眼を閉じさせる」パフォーマーの仕草は、「消灯」とは裏腹に、小さな希求を灯すように見えた。
2022/04/23(土)(高嶋慈)
谷澤紗和子「Emotionally Sweet Mood─情緒本位な甘い気分─」
会期:2022/03/19~2022/04/09
studio J[大阪府]
「切り紙」という媒体を通して、美術史における女性作家の周縁化や規範化された女性表象に対して、どう問い直すことが可能か。切り紙による平面作品やインスタレーションを主に手がける谷澤紗和子は、本展において、高村智恵子とアンリ・マティスという、ともに病を得た晩年に切り絵を手がけた2人の作品を引用し、問題提起する。
ヒヤシンスの球根を漉き込んだ和紙に、ヒヤシンスの鉢植えの切り絵を配した《情緒本位な甘い気分》《Emotionally Sweet Mood》はともに、3点しか現存しない高村智恵子の油彩画のひとつを元にしている。タイトルは、智恵子の死後、夫の高村光太郎が綴ったエッセイ「智恵子の半生」の一文から取られている。智恵子は光太郎と出会う前の若い頃の油彩画をすべて処分したが、光太郎は実見していないそれらについて「幾分情調本位な甘い気分のものではなかったかと思われる」と憶測した。光太郎には搾取している意識はなかったかもしれないが、『智恵子抄』など「光太郎の眼を通した智恵子像」が浸透してしまっている。だが谷澤作品をよく見ると、ヒヤシンスの植木鉢に眼と口が切り抜かれており、「智恵子自身が語る言葉を聴きたい」という思いが伝わってくる。
また、晩年に精神を病んだ智恵子が手がけた「紙絵」作品をモチーフにした別の作品群では、「I am so sweet!」「NO」といった言葉が切り抜いて添えられ、他者からの一方的な規定を逆手に取り、肯定的なものとして自らの手に取り戻し、「NO」と声を上げる抵抗の身振りが示される。だが、作品を縁取るフレームをよく見ると、金具や引き戸の付いた古い木材であることに気づく。解体された家屋の廃材を再利用したものであり、「古い家制度の解体」を示すと同時に、なおも閉じ込められているようにも見え、両義的だ。
一方、マティスの晩年の切り絵作品「Blue nude」シリーズを引用した谷澤の「Pink nude」では、固有の顔貌を奪われて抽象化された裸婦に、眼と口を切り抜いて「顔」が回復されると同時に、全身にトゲのような「ムダ毛」が生えている。さらにもう一作では、マティスの切り絵に、アニメのセーラームーンの変身シーンが重ねられている。「男性キャラクターの添え物」ではなく、女の子自身が戦う姿を描いた点で画期的だった同作だが、見せ場の「変身シーン」では裸のシルエットが光り輝いたり、「10頭身の美少女」として描かれるなど、規範的なジェンダー観の強化や性的消費につながる側面も併せ持つ。谷澤の「Pink nude」は、「ブルー」に対して「ピンク」を対置する点では短絡的に映るかもしれないが、赤やピンクに加え、紫やどす黒い赤までが混ざり合った色彩は、「怒りの色」にも見える。怒りの色に全身を染め、ムダ毛=トゲで武装した彼女たちは、他者による一方的な身体の理想化や記号化、性的消費に対して戦っているのだ。
2022/04/09(土)(高嶋慈)
澤田華「避雷針と顛末」
会期:2022/04/02~2022/04/29
Gallery PARC[京都府]
若手作家の発表に力を入れてきたGallery PARC。コロナ禍を受け、2020年6月末に展示スペースを閉鎖し、外部での展示企画やオンラインでの作品販売などを手がけていたが、書店やギャラリー、カフェ、印刷工房が入居する複合施設「堀川新文化ビルヂング」に移転して活動再開した。移転後初となる本展では、「夏のオープンラボ:澤田華 360°の迂回」(2020年、広島市現代美術館)での発表作品《避雷針と顛末》が再構成して展示された。
印刷物や画像投稿サイトの写真のなかに「発見」した「正体不明の物体」が何であるかを検証するため、写真を引き伸ばし、輪郭線を抽出し、トリミングや解像度を変えて画像検索にかけ、3次元の物体として「復元」を試みる。だが「正解」は得られず、「誤読」の連鎖反応により、無数の近似値が増殖していく。澤田華の代表的シリーズ「Blow-up」(引き伸ばし)や「Gesture of Rally」(ラリーの身振り)は、「写真の明白な意味」を脱臼させ、「写真」の持つ不可解な力を取り戻すための試みであると同時に、印刷物やモニター画面のあいだをイメージが亡霊のように漂い続ける状況を指し示す。また、画像検索やスマートフォンの音声アシスタント機能を検証プロセスに介在させ、「エラー」「誤読」の加速化を呼び込む状況を作り出すことで、私たちが日常的にデジタルデバイスで行なっている情報収集の不確かさや受動性を批評的にあぶり出す。
本展では、こうした手法や問題意識を引き継ぎつつ、検証すべき「不明瞭な何か」が、写真という視覚情報から、「澤田自身が街中で偶然耳にした言葉の断片」という、より非実体的なものに置き換わった。展示会場には、「池田 Everybodyて知ってるか」「だってあの二人手つないだりしてんもん」「なにが終わったん? 人生?」といった、澤田がメモした断片的で脈絡のない言葉が羅列されている。これらをウェブ検索や音声アシスタント機能に入力した「検証結果」が提示される(が、何の役にも立たない)。さらに、「元の会話の文脈」を想像した台本の制作を複数の他者に依頼し、俳優が演じた9本の映像が上映される。「カップルの痴話ゲンカ」「下手な漫才の練習」といったありそうなものから、「地下アイドルの追っかけが高じて、交際相手に脅迫の手紙を送ろうとしたことを友人に告白する男性」といった凝ったシチュエーションや、メモの言葉をそのまま接合した「アンドロイド2人のちぐはぐな会話」に対して、人間が「会話になってない」とツッコむシュールなものまで、差異のバリエーションが発生する。
ここで、本作が写真の検証シリーズと大きく異なるのは、「復元プロセス」を「他者の想像力」に完全に委ねている点だ。「避雷針」として出来事を呼び込んだ澤田は、落雷がもたらした「綻び」を縫合するのではなく、潜在する複数の可能態へと開き、「唯一の現実」の強固さを解体していく。「ただひとつの正しい意味」に収斂しない想像力のためのレッスンは、演劇の持つ批評的な力とも通底しているのではないだろうか。
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2022/04/08(金)(高嶋慈)