2020年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

主戦場

慰安婦問題を扱ったドキュメンタリー映画で、日系米国人のミキ・デザキ監督はこれがデビュー作となる。日韓米の3ヵ国にまたがる論客が、歴史修正主義者・保守主義者・ナショナリストの右派とリベラルの左派に分かれ、「20万人」という数字の根拠、「強制連行」「性奴隷」という言葉の妥当性、歴史教育のあり方などの論点をめぐり、主張や反証の応酬を繰り広げる。インタビュイーは約30人にのぼるが、論点の交通整理と映像編集の巧みさにより、両陣営が一堂に会する架空の討論会の聴衆として、白熱する論戦を目撃しているようなスリリングな知的興奮を味わう。

強く心に残る言葉がいくつも登場する。「慰安婦を表現した少女像の前に韓国国旗を持ってきた人がいたら、『国旗ではなく、運動のシンボルの蝶の旗を持ってきて』と言う。国と国の問題ではなく、人権と人権の問題だから」と語るユン・ミヒャン(韓国挺身隊問題対策協議会)。「沖縄のように信頼性の高い数字が出る場所以外は、検証のしようがないため、数という形では出さない」と言う渡辺美奈(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」事務局長)。数字のインパクトや「分かりやすさ」が、意図に反して利用されてきたことへの警戒が滲む。「櫻井よしこの後継者」と言われた、元修正主義者の日砂恵ケネディは「ナショナリストには事実を認めてほしい。敵がいなくなって、自由になれた」と明かす。いずれも女性たちの言葉だ。

とりわけ後半から終盤にかけて、ナショナリストや修正主義者の詭弁に対して、左派・リベラルの陣営が冷静に検証し、論拠を一つひとつ切り崩し、背後に根づくレイシズムと女性差別を暴いていく展開はスリリングで爽快感さえ覚える。

「重い」テーマのはずなのに、見終えた後のこの軽やかな爽快さはなぜだろう。それは、(この映画の特徴/戦略のひとつでもあるのだが)あえて元慰安婦の証言を(ラストシーン以外)使用せず、人権と尊厳を蹂躙された生々しい傷と苦渋に満ちた言葉が出てこないことも起因する。だが、この意図的な「証言の封印」は、(修正主義者が言うように)「彼女たちの証言が二転三転し、信憑性に欠ける」からでは決してない。そうではなく、「言語化できないこと」「語りようのない苦痛」「共有不可能性」がまさにトラウマ体験の本質をなすことへの示唆もあるのではないか。

したがって本作における「当事者の証言の欠如」は、「歴史の空白地帯」ではなく、「空白でしか指し示しえない暴力の痕跡」こそを指し示す。そして、その深く穿たれた空洞を言葉で充填する代わりに、「慰安婦」という主題の周囲を旋回しながら、「レイシズムと女性差別とナショナリズム、そして植民地期の暴力の忘却」という日本の病巣の深淵を暴き出す。

公式サイト:http://shusenjo.jp

関連レビュー

主戦場|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2019年07月15日号)

2019/08/01(木)(高嶋慈)

井上裕加里「線が引かれたあと」

会期:2019/07/27~2019/08/04

KUNST ARZT[京都府]

東アジアの近現代史、出身地の広島への原爆投下、それらをめぐる歴史認識のズレや境界線の存在について作品化してきた井上裕加里。本展は、「線」すなわち第二次世界大戦後に引き直された「国境線」によって分断された日韓の女性たちに焦点を当てた2つの作品をメインに構成されている。

《marginal woman─境界人─》では、戦時中に故郷を離れ、70年以上を異国の地で暮らす女性たちが、自らの半生や故郷への想いを詩や歌に託して語る。被写体となったのは、戦前に朝鮮人男性と結婚して朝鮮半島へ渡った日本人女性たちが暮らす「慶州ナザレ園」と、在日コリアンの高齢者が入所する京都の福祉施設「故郷の家」の入所者である。2面の映像の片面に映る海は、日本(舞鶴)から見た視点と韓国(釜山)から見た視点をオーバーラップさせたものだ。また、韓国にある日本人共同墓地や防空壕のショットも挿入される。



会場風景


一方、《幾度も滅せられる人々》は、戦時中に広島で被爆した在韓被爆者のポートレートに感光塗料を塗り、太陽光に当てることで黒く変色させていく作品。「太陽の光による感光」は「原爆の熱線」をパラレルに想起させ、黒い染みが滴ったように変色していく過程は「黒い雨」を連想させるなど、肉体への物理的暴力を示唆する。また、ポートレートが黒く塗りつぶされていく様は、韓国国内では差別から「沈黙」を余儀なくされ、終戦後の日本国籍消失とともに日本政府に被爆者として認定されず、救済措置から排除され、不可視化された事態をメタフォリカルに示す。



会場風景


日本から朝鮮半島へ、反対に朝鮮半島から日本へ。2作品は、その対称性とともに、植民地支配と地続きの女性たちの生、(とりわけ結婚や出産といった契機により)女性が受けた苦痛に焦点を当てている。だが両者のあいだには、「国境」「国籍」「民族」といった「線」だけでなく、「ドキュメンタリー」と「作家の介入的表現」をめぐるせめぎ合いが噴出しているのではないか。被写体の女性たちの声や関連風景を淡々と捉える《marginal woman─境界人─》に対して、《幾度も滅せられる人々》は、より作家の介入度が高い。後者は、「太陽光による感光でポートレートが黒く変色していく」仕掛けにより、物理的/政治的暴力が多重化された事態へと連想させる働きを持つが、「表象の操作により、同じ暴力をメタフォリカルに反復してしまう」というジレンマに陥ってもいる。(可視化されにくい)暴力への想起と、「暴力への言及それ自体が暴力を反復してしまう」パラドキシカルな構造への批判的想像力を同時に持つこと。今要請されているのは、そうした困難だが必須の態度である。



会場風景


関連レビュー

井上裕加里展|高嶋慈:artscapeレビュー(2015年04月15日号)

2019/07/28(日)(高嶋慈)

澤登恭子「Rondo」

会期:2019/07/13~2019/08/03

CAS[大阪府]

パフォーマンス、映像、インスタレーションを通して、女性性の問題や、記憶や夢といった無意識の領域を扱ってきた澤登恭子。本展では、代表作と言えるパフォーマンス作品《Honey, Beauty and Tasty》の再演と、近作の映像インスタレーションが展示された。

《Honey, Beauty and Tasty》は2000年に大学院修了制作として発表された後、国内外で再演を重ねてきた。作品の核は澤登自身が行なうパフォーマンスにあり、本展でも初日にパフォーマンスが行なわれ、会期中は、使用されたDJブースの背後に記録映像が投影されている。回転するLPレコードの上に滴り落ちる蜂蜜を舌で舐め続ける、キャミソール姿の女性。DJのスクラッチの代わりに、舌の動きと堆積していく蜂蜜の重みによって、高揚感を誘うトランステクノには、次第にノイズや歪みが混じっていく。淡々と行為に従事し続ける澤登は無表情だが、辛そうにも気だるげにも見える。時折、髪をかき上げる仕草や、顔や髪の上にも滴り落ちる蜂蜜は、エロティックな含みを増幅させる。「レコードの上の蜂蜜を舌で舐める」というシンプルな行為だが、それが含意する問題提起は明らかだ。つまり、「(男性の)性的快楽のために奉仕させられる女性」への強烈なアンチである。

「Honey」は、体液の代替物であり、恋人への甘い呼びかけであり、ご褒美としての甘い蜜でもあり、多義的な意味を担う。赤いマニキュア、口紅、キャミソールといった記号としての「女性」を身にまとった澤登は、ビートの効いたダンスミュージックの高揚感や陶酔が暗示する、性的快楽の高まりに従事し続ける。だが、高揚感や快感をもたらすはずのダンスミュージックは、舌の動きと蜂蜜の重みによって次第に鈍く不穏なものへと変容し、引き伸ばされた快楽は絶頂に達しないまま、ただ回転し続ける。ここでは、不在で不可視の「踊り手」こそが問われている。《Honey, Beauty and Tasty》は、極めて戦略的な選択により、「(男性の)性的快楽のために従事する女性」を一種の記号化されたパロディとして演じ直すことで、問題提起を突きつける。



[撮影:笹岡敬]


「回転」は、もうひとつの出品作品《Träumerei-夕べの夢想》にも共通する要素だ。この作品では、夜の遊園地で撮影されたメリーゴーランドと観覧車の映像が、重なり合った薄いオーガンジーの幕に投影され、夢のなかの光景のような浮遊感をもたらす。煌めくイルミネーションや夜景の夢幻的な儚さ、オルゴールの音が増幅させる懐かしさ。だが、夜間の無人の遊園地はどこか不穏さをたたえ、回転する木馬も観覧車もどこへも行き着けない。「幸福な幼年期の夢」に閉じ込められた出口のない世界、という悪夢的な状況がここでは差し出されている。



[撮影:笹岡敬]


2019/07/20(土)(高嶋慈)

ディミトリス・パパイオアヌー『THE GREAT TAMER』

会期:2019/07/05~2019/07/06

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

2004年アテネオリンピック開閉会式の演出を手がけたことでも知られる、ギリシャの演出家、振付家のディミトリス・パパイオアヌーの初来日公演。

舞台上には、黒く塗ったベニヤ板を重ねて敷き詰めたスロープが闇を背に設えられ、客入れの段階から、スーツ姿の男性パフォーマーがひとり、佇んでいる。幕が上がると男性は服を脱いで全裸になり、揃えた両脚を観客に向けて横たわる。別の男性パフォーマーが登場し、遺骸を覆うように白い布をかけて立ち去る。しばらくすると、もうひとりの男性パフォーマーが登場し、床から一枚のベニヤ板を剥がすと、手から離してパタンと落下させる。その風圧で、布は軽やかに宙を舞い、覆われていた裸体の全身が露わになる。すると再び、布をかけた最初の男性が登場し、床に落ちた布を拾って横たわる裸体を覆うが、2番目の男性が戻ってきて同じ行為を繰り返し、風で煽られた布はあっけなく「全裸の死体」をさらけ出してしまう。このシュールなやり取りが、無言のまま、次第に間隔を狭めて執拗に繰り返される。「足の裏をこちらに向けて横たわる、白布をかけられた男の裸体」は、短縮法を駆使してキリストの遺骸を描いたマンテーニャの《死せるキリスト》を想起させる。西洋古典絵画への参照、「死(体)」を超越しようとする欲望が駆動させる芸術という営み、露わにすることと隠すこと、行為の執拗な反復が生み出す時間感覚の変調やナンセンス、宙に浮遊する布が示唆する「重力との戯れ」など、本作のテーマが凝縮したシーンだ。

上述したマンテーニャのように、本作には、西洋美術史から抽出・引用した身体イメージが、次々と舞台上に召喚されていく。例えば、墓から復活したキリストの身体と、それを見守る3人のマリア。レンブラントの描いた《テュルプ博士の解剖学講義》。だが、キリストの輝かしい身体は、マリアたちが代わるがわる吹きかける「息」を受けてグニャリと歪み、解剖台の上の「死体」からは内臓が次々と取り出され、解剖台はカニバリズムさながらの狂乱の食卓へと変貌する。完璧にコントロールされた美とナンセンス、グロテスクと脱力したユーモアの共存。また、しばしば登場するのが、「頭部、上半身、左右の腕、脚」をそれぞれ異なるパフォーマーが担当し、露出以外の部分は黒子のように隠すことで、バラバラのパーツが接続されたキメラ的身体である。裸体を組み合わせてだまし絵的にドクロを形作るダリの写真作品を連想させるとともに、女性の身体に男性の身体が接合されたイメージは、錬金術やギリシャ神話における雌雄同体や両性具有を想起させる。あるいは、頭部、胴体、手足がバラバラに切断された遺体や双頭のシャム双生児を思わせるシーンは、ゴヤの版画「戦争の惨禍」の凄惨な戦場や、「フリークス」を見世物にしてきたサーカスやショーの歴史への言及を匂わせ、連想の輪は広がっていく。

地球儀のボールを抱えて虚空に浮遊させる男は、死の静寂で満たされた宇宙空間や重力への示唆とともに、アトラスを体現する。アダムとイヴ、キリストの磔刑、ピエタなどの図像群を経て、ラストシーンでは開かれた書物の上に頭蓋骨が置かれ、この世の儚さを説く「ヴァニタス画」が完成するなど、キリスト教美術や神話に基づく「死や(再)生」をめぐるイメージ群が散りばめられる。



[photograph by Julian Mommert]


パフォーマーの卓越した身体を使って、西洋美術やSF映画などから引用した「身体イメージ」を3次元化し、緻密な計算による構築と解体が次々に展開する──ワンアイデアだが、レファランスの多彩さ、次々と繰り出される小道具や衣装の仕掛け、スピーディーな展開により、約90分間、緊張感に満ちたテンションを維持し、飽きさせない。

パフォーマーたちはしばしば、サーカスの曲芸のように重力と戯れ、イリュージョニスティックな運動を繰り広げる。支えが無いかのように宙に浮く身体、無重力状態で浮遊するかのような石ころ、根の生えた靴底を天に向けて逆立ちで歩き、上下感覚や重力を失効させる男。ラストシーンでは、男が薄い紙に息を吹きかけ、宙に浮遊させ続ける。パフォーマーたちが戯れる「重力」は、物理的重力であると同時に、(ギリシャが起源のひとつである)西洋文化の重みというもうひとつの重力圏でもある。そこから逃れることはできず、優美に戯れ続けるしかないのだ。

なだらかな丘を形成する「積み重なった板」という舞台装置はまた、堆積した歴史的地層のメタファーでもある。パフォーマーたちは、その地盤に自在に空けられる「穴」や「開口部」から出入りし、落下し、あるいは巨大な子宮の割れ目から生命が誕生し、穴から死体の手足が掘り出される。だが、その地盤の下にある「抑圧された下部」は、観客の目には見えず、隠されており、時折、バラバラ死体のような悪夢的なイメージが噴き上がるのみだ。

「創世から死までの、時空を超えた人類の歴史」をコラージュ的に紡ぐ本作だが、それは西洋文化中心主義や偏重であり、その重力圏の重みと地層的厚み、そして抑圧構造を示唆しつつも、内実には深く踏み込まない。台詞が一切なく、レファランスは多いが広く流布したイメージであり、「既視感」に安心して寄りかかれること。その「わかりやすさ」からは、本作が世界ツアーの巡業を前提にしていることが明白である。



[photograph by Julian Mommert]


公式サイト:https://rohmtheatrekyoto.jp/lp/thegreattamer_saitama_kyoto/

2019/07/06(土)(高嶋慈)

木村悠介演出作品 サミュエル・ベケット『わたしじゃない』

会期:2019/06/27~2019/06/30

Lumen Gallery[京都府]

暗闇に浮かぶ「口」が「彼女」と呼ばれる者について断片的に語り続ける、サミュエル・ベケットの戯曲『わたしじゃない』を、独自の映像技術「Boxless Camera Obscura」を用いて演出した公演。木村演出の要はこの映像技術の使用にあり、『わたしじゃない』の上演史における革新性と映像メディアへの自己言及性、双方にまたがる射程を兼ね備えていた。異なる4人の俳優による4バージョンが上演され、(スタンダードな上演の)女優/男優、日本語/英語など、演出方法がそれぞれ異なる。私は伊藤彩里によるAバージョンを観劇した。

上演空間には、白いスクリーンが貼られた壁と相対して椅子が置かれ、口元の高さにはマイクとルーペ(凸レンズ)が、足元にはスポットライトが設置されている。黒いジェラバ(フード付きロングコート)で全身を覆われた俳優が椅子に座ると、暗転し、スポットライトが俳優の口元を照らす。その光はレンズを通して集められ、対面した壁に、倒立した「口」の映像が浮かび上がる。通常の「カメラ・オブスキュラ」の場合は、「暗い箱」の名の通り、ピンホールやレンズを通して、密閉された箱のなかに対象物の像が映し出される。一方、「Boxless Camera Obscura(箱なしカメラ・オブスキュラ)」では、対象物、レンズ、投影像が隔たりのない同一空間に存在し、「光源とレンズと焦点距離」という極めてシンプルな装置により、映像の原理的構造を体感することができる(凸レンズとロウソクを使った中学校の理科の実験を思い出してほしい)。木村は、映画前史の映像デバイスについてリサーチと実験を行なう過程で、この技術を発見したという。



SCOOLでの東京公演 [撮影:脇田友]


スクリーンに映る「口」は、拡大された倒立像であることもあいまって、グロテスクに蠢く不可解な生き物であるかのように、自律性を帯びて見えてくる。唾で濡れた唇、その奇妙に生々しい肉感、間からのぞく白い歯、洞窟のような口腔。普段は凝視しない、「発声器官」としての「口」の即物的な動きが強烈に意識される。時折映る鼻の穴は、暗い眼窩のようにも見える。俳優の身体が少し動くだけで映像はボケて不鮮明になる。発話する俳優の身体と映像の「口」は、光を通して繋がってはいるのだが、同時に別個の独立した存在として知覚される。生身の身体から「分離」されつつ光の紐帯によって繋がっている―この繊細な感覚は、ビデオカメラによるライブ投影では得られないだろう。純粋な光学現象によって得られる映像の美しさ、魔術性、危うい繊細さが体感される。

そして、こうした即物的な物質性や分裂/同一性を揺れ動く曖昧さは、戯曲の構造とクリティカルに結びつく。「口」が語り続ける内容は断片的で整合性を欠き、しばしば中断や否定を含み、意味内容の正確な把握は困難だ。だが、一見破綻した言葉の羅列を聞き続けているうちに、「口」の語る「彼女」とは、「口」自身のことではないかという疑念が頭をもたげてくる(以下の引用は、木村自身の翻訳による)。例えば、「……彼女は自分が暗闇の中にいるんだって気付いた……」「……彼女が何を言ってるんだかさっぱり!……」「彼女は思い込もうとした……(中略)全然自分の声じゃない……」「……そしたら彼女突然感じた……(中略)自分の唇が動いてるって……」「……体全部がまるでなくなったみたい……口だけ……狂ったみたいに……」といった台詞群は、「口」の語る「彼女」=「口」自身の置かれた状況との一致を示唆する。だがその一致の可能性は、「…なに?‥だれ?‥ちがう!……彼女!……」という、「口」自身が繰り返す激しい否定によって決定不可能な領域に置かれる。

また、生身の身体から切り離され、非人称化された「口」の映像は、「……それに唇だけじゃなくて……ほっぺた……あご……顔中……(中略)口の中の舌……そういう全部のゆがみがないと……喋ることはできない……でも普通なら……感じることなんてない……気を取られていて……何を話してるかってことに……」といった台詞とリンクし、発声器官としての即物性を強調する。

さらに戯曲中には、「……気付いた……言葉が聞こえるって…」「じっと動かず……空(くう)を見つめて……」といった台詞が示唆するように、ト書きに書かれた「聴き手」=「彼女」の一致の可能性も書き込まれている。ここで、俳優の衣装に改めて目を向けると、もうひとつの仕掛けがあることに気づく。木村は、「聴き手」の衣装として指定された「黒いジェラバ」を俳優にまとわせることで、「発話主体であり、同時に聴き手でもある」二重性をクリアしてみせた。



SCOOLでの東京公演 [撮影:脇田友]


三人称で語ることへの固執、何かの役を演じること(代理表象)と俳優自身の身体の二重写しとズレ、発声器官としての即物性、「自らの声」の聴き手でもある二重性。「口」=「彼女」=「聴き手」の一致と分裂。ここから照射されるのは、語る主体の問題、「わたしじゃない」存在を演じる俳優という演劇の原理的構造である。木村は、「Boxless Camera Obscura」という装置を秀逸にもベケットの戯曲に適用することで、語る俳優の身体を複数のレイヤーへとラディカルに解体しつつ、多重化してみせる。それは、「親の愛情を受けずに育ち、コミュニケーションから疎外された人生を送ってきた、70歳の孤独な老婆の分裂的なモノローグ」という表層のレベルを超えて、メタ演劇論としての戯曲の深層を照らし出す。「俳優の『口』以外を黒い幕で覆う」「ビデオカメラで『口』だけを映像化する」といった従来の演出ではなしえなかった境地に到達した。

演劇の原理的構造への応答という点では、ある意味「最適解」である解像度の高い演出ではあるが、本作の試みには、まだ未踏査の領域が残されている。それは、カメラ・オブスキュラ(及びその延長上にある映像)と窃視的な欲望との共犯関係、そこに内包されるジェンダーの問題である。ピンホール=覗き穴から見た光景を(内/外を逆転させて)拡大投影したような「口」の蠢きは、女性器のメタファーとしても機能し、エロティックな含意を帯びている。本作の「彼女」同様、例えば『しあわせな日々』のウィニーのように、女性の身体が被る拘束や抑圧的状況とどう結びつくのか。本公演の到達点の先には、さらなるクリティカルな可能性が広がっている。

2019/06/29(土)(高嶋慈)

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