2020年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

プレビュー:『緑のテーブル 2017』公開リハーサル

会期:2019/06/01

デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)1階KIITOホール[兵庫県]

神戸を拠点とするダンスカンパニー、アンサンブル・ゾネ(Ensemble Sonne)主宰の岡登志子が、第7回KOBE ART AWARD大賞と平成30年度神戸市文化賞をダブル受賞した記念公演が、6月1日に開催される。上演される『緑のテーブル 2017』は、ドイツ表現主義舞踊の巨匠クルト・ヨースの『緑のテーブル』(1932)に想を得て、岡の振付により新たに創作されたダンス作品。2017年に神戸で初演されたあと、愛知、東京で再演を重ねてきた代表作である。本公演に先駆けて、公開リハーサルと記者発表が行なわれた。

岡は、ヨースが創立したドイツのフォルクヴァンク芸術大学に学び、ヨースの流れを汲む身体訓練技法を基礎としてきた。初演のきっかけは、大野一雄舞踏研究所を母体とする特定非営利活動法人「ダンスアーカイヴ構想」から、「ダンス作品の継承」という観点でヨースの『緑のテーブル』に想を得た作品制作の依頼を受けたことにある。パリの国際振付コンクールで最優秀賞を受賞した『緑のテーブル』は、振付の譜面である「舞踊譜」に記録され、現在まで上演され続けている。だが岡は、「譜面通りに伝えていくことだけが「作品の継承」か?」と問題提起。また、『緑のテーブル』は、ナチスが台頭する当時の世相を反映した「反戦バレエ」と解されているが、「根底には人間の生命への尊重があるのでは」という思いから、まったく新しい作品として創作したという。 モダンダンス=抽象的と思われがちだが、『緑のテーブル』には「政治家」「パルチザン」「兵士」「難民」「死神」といった「配役」があってタンツテアター色が強く、岡の振付でも配役はほぼ踏襲されている。一部のシーンを除いて通し稽古が行なわれた公開リハーサルでは、ユーモア、内に秘めた強い感情の表出、爛熟した享楽、現代社会への風刺など、シーンごとにガラリと変わる構成の妙がそれぞれのソロや群舞を通して感じられた。

また、この『緑のテーブル 2017』には、岡、垣尾優、佐藤健大郎など関西を代表するダンサーのほか、舞踏家の大野慶人が特別出演し、アンサンブル・ゾネのメンバー、バレエ団のダンサー、公募ダンサーなどさまざまなバックグラウンドを持つダンサーが参加している。大野の出演の背景には、ドイツ表現主義舞踊に影響を受けた1930年代の日本のモダンダンスの流れが、舞踏につながっていることがあるという。また、上演会場のKIITOは、旧生糸検査所を改修した文化施設だが、建物の建築年は『緑のテーブル』初演の1932年と奇しくも重なる。ダンス史、「ダンス作品の継承」という問題、アーカイヴと創造の関係に加え、ヨーロッパと日本、時代差、ダンサーの身体的バックグラウンドといった差異など、さまざまな問題を考えさせる機会になるだろう。


『緑のテーブル2017』愛知公演 2018
[撮影:阿波根治 © Osamu Awane]

公式サイト:http://ensemblesonne.com/

2019/05/09(木)(高嶋慈)

若だんさんと御いんきょさん『時の崖』

会期:2019/04/19~2019/04/21

studio seedbox[京都府]

安部公房の『時の崖』という同じ戯曲に対して、3人の演出家がそれぞれ演出した一人芝居×3本を連続上演する好企画。シンプルに提示した合田団地(努力クラブ)、抽象的かつ俳優の身体性に比重を置いた和田ながら(したため)、競争社会への批判的メッセージを読み込んで具現化した田村哲男、という対照的な3本が並んだ。

「負けちゃいられねえよなあ……」という台詞で始まる『時の崖』は、「試合前、プレッシャーをはねのけるようにしゃべり続けるボクサーのモノローグ」として始まる。減量の辛さをぼやき、おみくじの結果に一喜一憂し、赤い靴下を新調して縁起をかつぎ、早朝のロードワークに始まる毎日のトレーニングメニューの詳細を述べ立てる。試合に負けることへの不安と自意識過剰気味の自信、ハイとロウの両極を不安定に揺れ動く、人格が分裂したかのようなモノローグ。だが、「こんど負けたら、ランキング落ちだからなあ」という台詞に続く試合場面では、「一つランクを上がるたびに5人の相手をつぶしているわけだから、チャンピオンは50人のボクサーをつぶした勘定になる。やりきれんな、つぶされる50人のほうになるのは」「1人でも他人を追い越そうと思えば、これくらいのこと(きついトレーニングと自己管理の徹底)はしなくっちゃね」といった独白が続き、「落ち目のランキング・ボクサーのぼやき」のかたちを借りた競争原理社会への批判が根底にあることがわかってくる。


1本目を演出した合田団地は、解釈や手を極力加えず、素舞台に俳優の身体のみでシンプルに提示。だが、自暴自棄になった叫びは、自意識過剰気味のダメさや退行性を露呈させ、紙一重の笑いを誘う点に持ち味が光る。一方、2本目を演出した和田は、「おれ」という一人称でしゃべるボクサーにあえて女優を起用。畳みかけるようなモノローグの饒舌さとは裏腹に立ったその場から動けない、発話内容と無関係に突発的に前のめりにつんのめる、といった拘束性や負荷によって俳優の身体性を前景化し、戯曲内容から距離を取って提示した。その手つきは、戯曲を抽象化しつつ、身体運動によって補強する。例えば、「7位から8位……8位から9位……」とランキング落ちを数える場面では、俳優の身体は壁際へと後退していく。4ラウンドでダウンされ、「変だな……自分が2人になったみたいだな」と呟く場面では、照明が壁に影=分身を投げかける。その輪郭をそっと撫でながら、「食事制限も、酒もタバコも、やりそこなったことを、すっかり取り返してやるんだ」と言うラストシーンは、犠牲にして葬ってきたもうひとりの自分への慰撫や和解を思わせ、試合に負けてボクサーは辞めるかもしれないが、「これからの人生は自分自身と向き合って生きていくのでは」というポジティブな余韻を感じさせた。



合田団地演出『時の崖』



和田ながら演出『時の崖』

一方、3本目を演出した田村哲男は、戯曲に込められたメッセージを抽出してリテラルに具現化。俳優はビジネススーツを着込んだ中年男性であり、「勝負の世界に生きるボクサー」の独白は、「激しい競争社会のなかで疲弊するサラリーマン」のそれと二重写しになる。ここで重要な役割を果たすのが「字幕」の存在だ。冒頭、「正社員のポストを用意しました。即戦力として期待しています」と背後で告げる字幕は、派遣もしくは契約社員から「這い上がった」彼が、より過酷な競争に晒される状況を示唆する。また、試合場面では、「右から行け」「もたもたするな」「ジャブが大きすぎるぞ」といったセコンドの指示が響くのだが、背後の字幕は「もっと数字を上げろ」と言う上司の叱責にパラフレーズされる。「正社員」という単語や字幕が女性口調であることは、正規/非正規の格差競争や女性の社会進出など、50年前に書かれた戯曲との時代差を示唆する。また、床に白いテープで引かれた四角い境界線は、シンプルながら四重、五重の意味を担って秀逸だ。それは、文字通りにはボクシングのリングであり、会社の仕事机の領域であり、舞台/客席を分ける境界線であり、鼓舞と自嘲を行き来するモノローグ=彼の内的世界の領域であり、同時にそこから出られない檻や結界でもある。ダウンされてマットに沈み、「4年と6カ月か……結局、元のところへ逆戻りだ」と呟き、「頭が痛くて破裂しそうだ」とうめくラストは、「正社員」からの転落、さらには過労死を暗示して終わる、苦い幕切れとなった。



田村哲男演出『時の崖』

戯曲のシンプルな提示に始まり、抽象化して距離を取る手続きによって解釈の幅を広げて作品世界に膨らみをもたせたあと、ひとつの方向に凝縮させて明確に具現化する。3本の上演順も効いていた。安部公房の作品は著作権が切れていないため、上演に際して一切カットできない。そうした制約にもかかわらず、いや編集や改変ができないからこそかえって、ひとつの戯曲が演出次第で可塑的に変形することが如実に示され、演出家の指向性とともに、戯曲の持つ潜在的な多面性を引き出すことに貢献していた。改変の禁止に加えて、「一人芝居」という形式のシンプルさも大きい。


だが最後に、『時の崖』は「メタ演劇論」としても読める戯曲であることを指摘したい。台詞にはシャドウボクシングの言及が多いが、相手が「いる」と仮定し、仮想の相手の動きを予測しつつ、ひとりでパンチを繰り出すシャドウボクシングは、「モノローグ」という形式と合致する。また試合中に聞こえる動きの指示は、戯曲では「セコンド」とは明記されず、ただ「声」とのみ記されている。姿は見せず、声だけで動きを指示し、強制し、束縛し続ける存在は、絶対的な声として振る舞う演出家を想起させる。したがって『時の崖』は、ボクサー=俳優、「声」=演出家という解釈も可能だ。「演出家」という存在にスポットを当て、「演出とは何か」を問う企画だからこそ、メタ演劇として『時の崖』を上演する演出も見たかったし、あってしかるべきではなかっただろうか。

2019/04/21(日)(高嶋慈)

KG+ 前谷開「KAPSEL」

会期:2019/04/05~2019/04/30

FINCH ARTS[京都府]

カプセルホテルの壁に描いたドローイングとともに、全裸のセルフポートレートを撮影した「KAPSEL」を2012年から継続的に制作している前谷開。「六本木クロッシング2019展:つないでみる」にも出品された同シリーズが、KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019の同時開催イベントの個展で展示された。

白くクリーンだが無機質なカプセルホテルの個室内に座り、こちらを見据える全裸の前谷。その手には遠隔でシャッターを切るレリーズが握られ、個室の入り口の前に据えられたカメラが、四角い窓の向こう側に開いた異空間のような光景を切り取る。個室内の壁を接写したカットには、女性のヌードや男根的な突起などエロティックなドローイングや、謎めいたイメージや象徴的な目が写っており、不鮮明なブレと相まって、カプセルホテルで過ごした一夜に見た夢の感触を描き殴った夢日記のようにも見える。また、「まだ、死なないで」「Keep in touch」といった断片的な言葉も添えられる。孤独や傷つきやすさを抱えた存在、一糸まとわぬ全裸の姿がより強調するヴァルネラビリティ(被傷性)、他人や社会から遮断し保護してくれるシェルター的空間、妄想が護符のように描かれた壁、その閉鎖性や内向性を強く印象づける。



会場風景

こちらに向けられた前谷の眼差しは、無防備さと緊張感が入り交じり、凝視しているがどこか虚ろさを感じさせる。シャッターを操作するのは前谷自身だが、自分ではファインダーを覗けないため、カメラに向けられた眼差しや表情は、鏡を見るときのように完全にコントロールされたものではない。

ここで、対極的な作品として想起されるのは、横溝静の写真作品「ストレンジャー」である。横溝は、路上に面した窓のある家に住む見知らぬ住人に手紙を送り、指定した撮影日時に部屋の灯りを点けてカーテンを開けた窓辺に立ってもらうよう要請し、撮影協力に応じた彼らのポートレートを、夜の窓越しに撮影した。カメラを構える写真家の姿は夜の闇に沈む一方、灯りの点いた部屋のなかでは、窓ガラスは外界への通路ではなく、自身を映し出す「鏡」となる。見知らぬ他人(写真家)の視線に晒されていることを意識しつつ、鏡面となった窓ガラスに映る自分を眼差し続ける彼らは、自己と他者、見る/見られるという緊張感、カメラが視界に入らないという安堵と「いつ誰に撮られているかわからない」という緊張感を行き来しながら、シャッターを切ってイメージとして捕捉する決定権を写真家に無防備に委ねている。横溝は、文字通り「フレーム」として両者を区切る窓という装置を挟んで相対しつつ、「自身を凝視する眼差し」そのものを抽出する。被写体であり、かつ見る主体でもある彼らにとって、「ストレンジャー」は写真家を指すだけではなく、コントロールを外れた状態でかすめ取られた、自己像の不意打ち的な提示でもある。一方、前谷の場合、「自身を凝視する視線」の提示は、レリーズによるシャッターの遠隔操作によって他者をまったく介在せずに行なわれ、「カプセルホテル」という空間が、その閉鎖性や内向性をより強調する。

だが、「カプセルホテル」という空間は、「セルフヌード」であることとも相まって、外界からの遮断や閉鎖性、シェルターへの希求と親和性が高いだけに、そうした内向的心理と密着しすぎて作品の幅を狭めてしまうのではないだろうか。確かに「カプセルホテル」は、外界や社会から遮断してひとりになれる避難場所を象徴する一方で、個人の生を最小限に規格化されたユニットに押し込む近代的合理化や均質性の極限的装置であり、モビリティや経済格差の拡大を反映する社会的装置でもあり、立地場所は都市のなかの場所の地政学とも関わり合っている。「カプセルホテル」という主題は、そうした広範な可能性を秘めている。「自己と向き合う」作業を通じて、個の内面の凝視にとどまらず、自身を取り巻くより広範な社会性が否応なしに透けて見えてくる、そのようなシリーズとしてのさらなる成長を期待したい。



会場風景

2019/04/14(日)(高嶋慈)

KG+ SELECT 2019 裵相順「月虹」

会期:2019/04/12~2019/05/12

元・淳風小学校[京都府]

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019の同時開催イベント「KG+SELECT 2019」に公募で選出され、個展を開催した裵相順(ベ・サンスン)。1月の個展に引き続き、彼女が近年精力的に取り組んでいる「月虹」シリーズが、新たな構成で展示された。

20世紀初頭、朝鮮半島において、日露戦争に備えた鉄道開発と移住政策を日本が行ない、近代都市として形成された大田(テジョン)。だが、敗戦後の日本人居留者の引き揚げ、朝鮮戦争による街並みの破壊を経て、植民地期の都市形成や日本人社会の記録は、日韓両国の歴史においてほとんど語られることがなかった。裵は、約3年間かけてリサーチを行ない、かつて大田で生まれ育ち、引き揚げ後は日本国内での差別から朝鮮半島生まれであることを語らずに生きてきた高齢者たちにインタヴューを行なった。リサーチに基づき制作された写真作品《シャンデリア》は、日本と韓国の錦糸を複雑に絡み合わせたカラフルな糸玉を撮影した作品だ。両国の狭間で引き裂かれたアイデンティティ、70年以上も胸に秘めてきた記憶、そうした苦悩や記憶のもつれを心象風景として描出するとともに、複雑に絡み合った日韓関係、容易には解きほぐしがたい感情や歴史問題、さらには線路の拡大とともに肥大する帝国主義的欲望の膨れ上がった姿など、「糸」の持つ多義的なメタファーと相まってさまざまな読み取りを誘う。

今回の個展では、元小学校の教室という空間を活かし、インスタレーションとしても完成度の高い展示空間が出現した。また、絡みもつれ合う糸の写真作品とともに、引き揚げ経験者たちのポートレートを新たに並置した。老人たちはみな穏やかな表情をたたえ、わかりやすく「悲惨さ」をアピールする写真ではない。近づいてよく見ると、皮膚に刻まれた皺や輪郭を鉛筆でなぞったラフな線が描き加えられている。「他者の生や記憶に触れたい」という願望の現われ、あるいは静止した写真に生命の振動を与えようとする所作ともとれる。絡み合った糸や紐の写真は、これらのポートレートと並置されることで、人体の有機的な組織であるような印象がより強まる。心臓、血管、毛髪、へその緒、子宮……。アニメーションの映像作品では、もつれた糸の塊が、まさに心臓のように脈打つ。それは彼らの生き抜いてきた生命の強さであるとともに、歴史を現在と断絶したものではなく、血肉の通った生きられた記憶として捉えるように見る者を促す。



会場風景

「現在と地続きの過去」への意識は、教室の窓を用いたインスタレーションにおいても顕著だ。繁った樹木の写真が窓ガラスに貼られ、窓の向こう側に街路樹があるかのように緑の光が差し込み、ステンドグラスのような荘厳な雰囲気に包まれる。裵が韓国で撮影したこれらの樹木は、移住した日本人が街路樹として好んで植えたものであり、現在その種類の樹が生えている場所がかつて日本人の居住エリアであったことを示すという。樹木の写真は、モノクロのなかにカラーが混在し、その鮮明な緑色と今も息づく命は、根強く残る差別、未解決の歴史問題、日本の占領と敗戦を経て朝鮮戦争から今に至る南北分断の状況が、現在と切り離された「過去」ではなく、現在と地続きの問題であることを示す。樹木の写真の合間には、軍隊の記録写真や消印の押された切手も配され、郵便(通信)が鉄道建設と同様に、軍事と密接に関連した産業であることを示唆する。

「戦争」を「現在の日本の領土内で起こった事象」に限定する狭窄な視野は、問題の本質を見失わせる。日本による都市建設や鉄道開発は、「近代化に貢献した」という肯定的な評価、あるいは「土地を収奪された」という糾弾、どちらに偏っても不十分だ。また、私たちの前に静謐なポートレートとして佇む元居留者たちは、植民者・支配者でありつつ、敗戦によって故郷から強制的に隔てられ、かつそのことを隠して生きてきたという点では被害者でもある。被占領者側からの糾弾する視点にのみ立つのではなく、「狭間で生きた人々」に焦点を当てる裵の視線は、韓国の大学を卒業後、日本の美術大学で学び、約20年間日本に在住して2つの視点を持つ彼女だからこそ可能になったといえる。その姿勢は、アートを通してポストコロニアルを考えるうえでも大いに示唆に富んでいる。



会場風景

公式サイト:http://kyotographie.jp/kgplus/2019/

関連レビュー

裵相順「月虹 Moon-bow」|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/04/14(日)(高嶋慈)

KG+SELECT 2019 福島あつし「弁当 is Ready.」

会期:2019/04/12~2019/05/12

元・淳風小学校[京都府]

近代日本の植民地支配、アメリカの銃社会、性的マイノリティ、高齢化社会など、社会性のあるテーマを扱った作品が多く、充実していた今年の「KG+SELECT 2019」。KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭の同時開催イベントであり、公募から選出された12組のアーティストが元・淳風小学校の各教室で展示を行なう。最終的にグランプリに選ばれた1組は、来年のKYOTOGRAPHIEの公式プログラムに参加できる。

今回のグランプリに選ばれた福島あつし「弁当 is Ready.」は、高齢者専用の弁当屋の配達員をしていた福島が、2004年から10年間にわたり撮影した写真群で構成されている。「配達員」から次第に、カメラを介して老人たちと1対1で向き合う関係性を築き上げていく過程が、10年間の厚みとともに示される。それは、「高齢化社会」「独居老人」「孤独死」といった社会問題を提起しながら、「生きる」ことの根源についても触れる力に満ちていた。

とある住宅の玄関先を写したショットから展示は始まる。汚れた布団とそこからはみ出した羽毛、その白い埃のような羽毛にまみれて横たわる老人。積み重なった新聞や、累々と連なるゴミ袋の山、床に散らかった空の弁当箱。ドアの向こう側にあるのは、異臭と孤独の匂いが強烈に立ち込める世界だ。(おそらく多くは独居の)老人たちの居住空間に、「配達員」として足を踏み入れ、次第に接近していく福島を追体験するように、展示は展開していく。配達された弁当を、背中を丸めて一人で寂しく食べる老人たちの姿は、斜め後ろや横からのアングルで撮影され、彼らに対する距離感や「孤独さ」が強調される。老人たちの表情は見えないか陰に暗く沈み、雑然と散らかった室内も写し込むことで、「独居老人」「高齢化社会」といった社会問題を告発するが、分かりやすい紋切り型のイメージに留まる点は否めない。



© Atsushi Fukushima

しかし、福島のカメラは次第に、ひたすら無心に懸命に「食べる」老人たちの表情に真正面から対峙していく。硬直した身体を傾げながら、新聞紙をよだれかけ代わりに首に巻きつけ、弁当を食べる老人。鼻にチューブを通した老人が見上げる窓のアルミサッシには、自らを鼓舞するかのように、「生命力」という言葉がマジックで書かれている。ぎこちなく握ったスプーンでご飯にかぶりつく老人は、「それでも食べるんだ」という強い意志を無言で発する。彼らの身体になおも宿る生命力の強さや生への意志が垣間見える瞬間であり、告発調のドキュメンタリー(のメッセージの持つ単調さ)から一歩も二歩も踏み込んだ。そこには、「配達して終わり」の関係から、日々通うなかで時間をかけて関係性を築き上げながら、老人たちに対する視線を徐々に変化させてきた福島自身の変化が写し取られている。

ただ、展示方法には相反する両面を感じた。「額装した写真を、床から少し浮かした低い位置に水平に並べる」という展示方法は、ベッドや床に力なく横たわる老人たちの身体の水平性や物体的なあり方を反復するという点では効果的だ。だがその一方、観客が「上から見下ろす」視線のあり方は、 社会的弱者である彼らを文字通り見下ろすという点で、視線の暴力性を強く感じさせる。床に散乱したゴミやゴミ袋の写真も多いが、それらゴミと老人たちを等価に眼差す構造を誘発してしまうのだ。(ホワイトキューブではなく、元小学校の教室という展示空間の難しさもあるが)、「床と水平かつ低い位置」という展示方法は、イレギュラーであるだけに諸刃の剣となる可能性もある。
シリーズとしては撮影は終了しているというが、来年のKYOTOGRAPHIEの公式プログラムへの参加も決定している。展示方法やプリントの大きさを含め、より練り込んだ発表をさらに期待したい。



会場風景

公式サイト:http://kyotographie.jp/kgplus/2019/

2019/04/14(日)(高嶋慈)

文字の大きさ