artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
新・今日の作家展2017 キオクのかたち/キロクのかたち 小森はるか+瀬尾夏美《声の辿り『二重のまち』》、是恒さくら《ありふれたくじら》、久保ガエタン《その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える》
会期:2017/09/22~2017/10/09
横浜市民ギャラリー[神奈川県]
他者の記憶を拾い集めて再 物語化し、「語り」という身体的営みやテクストを通して共有すること。個人的記憶の収集とその複層的な重なり合いを通して、大文字の歴史化へのオルタナティブを探ること。あるいは、「歴史の表象空間」という政治的な場への抵抗を示すこと。そうした「記憶」の継承や「記録」する行為それ自体への問いを扱う作家4組のグループ展。小森はるか+瀬尾夏美、是恒さくら、久保ガエタンについての前編と、笹岡啓子についての後編に分けて記述する。
小森はるか+瀬尾夏美は、東日本大震災を契機に陸前高田に移住し、現在は仙台を拠点とするユニット。住民への聞き取りを元に、人々の記憶を内在化させた土地の風景への眼差しを映像、絵画、テクストといった複数の媒体で表現している。出品作《声の辿り『二重のまち』》は、「2031年」の想像上の陸前高田を舞台にした小説『二重のまち』を、地元住民たちが朗読し、現在の風景とともに記録した映像作品である(この小説は、砂連尾理の演出作品『猿とモルターレ』の2017年大阪公演でも朗読され、重要な役割を担っていた)。『二重のまち』では、4つの季節のシーンが、それぞれ別の主人公による一人称視点で語られる。新しい土地の上の町/地底に眠る町、記憶の中の「故郷」への想い/人工的な風景を「故郷」として育つ子供たち。そうした未来の視点からの「2031年」の物語が、更地に生い茂る植物や、山を切り崩し「盛り土」工事を行なうクレーン車といった「震災後の現在の光景」を前に語られることで、時制のレイヤーが折り重なった奇妙な感覚を生む。ここは未来か、過去か、現在か。これは誰の記憶なのか。また、「一人称の語り手」と「朗読者」との年齢や性別の差異や不一致も巧妙に仕掛けられる。例えば、「少年の僕」の語りを女性が朗読し、一人の語りが複数人で分割して語られることで、「語り」の主体が曖昧に分裂して多重化し、いつかどこかで遠い誰かの身に起きた出来事を「民話」や「寓話」のように語り継ぐ光景のように思えてくる(あるいはそうなってほしいという願いが顕現する)。
また、是恒さくらは、アラスカや東北、和歌山など捕鯨文化の残る土地を訪ね、鯨にまつわる個人の体験談を聞き取り、リトルプレス(冊子)と刺繍として作品化。国同士の反発の要因ともなる「捕鯨」を、むしろ国や言語という境界線を超えて、異文化間の価値共有の可能性を探るための文化として提示する。
久保ガエタンは、母の出身地である仏ボルドーで19世紀に造られた軍艦が、アメリカを経て幕末の日本に渡り、最終的に解体されて発電機に再利用されたという史実を軸に、「変身」「再生」にまつわるさまざまなエピソードを織り交ぜ、自伝的要素と歴史や神話が入り交じるグラフィカルな「物語」を提示した。
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2017/10/09(月)(高嶋慈)
新・今日の作家展2017 キオクのかたち/キロクのかたち 笹岡啓子《PARK CITY》
会期:2017/09/22~2017/10/09
横浜市民ギャラリー[神奈川県]
「キオクのかたち/キロクのかたち」展のレビュー後編。
「語ること」の可能性を模索する前編の3組とは異なり、広島という歴史的な刻印を押された地に身を置き、「語ること」の不可能性もしくは飽和状態を見つめ直すことから出発しようとするのが笹岡啓子の写真作品《PARK CITY》である。笹岡は、夜間の平和記念公園や市街地、平和記念資料館の展示室をモノクロで撮影した写真集『PARK CITY』(2009)を刊行後、近年はカラープリントを発表している。この移行に見られるある種の断絶、もしくは「ヒロシマ」の表象をめぐる転回については、6月のThe Third Gallery Ayaでの個展レビューで考察した。
本展では、大判のカラープリントのあいだに小ぶりのモノクロプリントが点在し、さらにネガポジ反転された写真も加わり、視線と焦点を定めにくい分散的な展示方法が(あえて)採られた。長時間露光撮影により、観光客や通行人の姿が希薄な陽炎のように空中を漂い、「亡霊」の出現、もしくは「原爆の炸裂の瞬間に蒸発した人間」を否応なしに想起させるカラーの近作。そこでは、観光客で溢れる明るい現在の公園の中に、(炸裂の瞬間という記録不可能な)「過去」が召喚され、狂気に満ちたイメージが出現する。また、資料館の展示室で撮影した写真では、写真パネルや映像展示とそれを「見る」観客の姿に笹岡は執拗にカメラを向ける。大きく引き伸ばされた焼野原の写真をスマホで「撮影」する観客たち、入れ子状に増殖する「写真」の生産。リニューアルされた展示室で、円形の都市模型にプロジェクションされる原爆投下前/投下後のCG映像に魅入る観客たち。「映像」の「ヒロシマ」、「映像」でしかない「ヒロシマ」、その実体感の希薄さ。ネガポジ反転された写真群が、「失調」という感覚を増幅する。
そして、これらのカラー写真のあいだに置かれたモノクロ写真は、遠目にはほぼ真っ黒で、至近距離で目を凝らさないとよく見えない(闇に浮かぶ献灯の前で佇む後ろ姿や、人々が集う川辺の背後にうっすら浮かぶ原爆ドームのシルエットなど)。大判のカラープリントと小ぶりのモノクロプリントが隣り合って並ぶため、作品との「適切な距離」がうまく取れない。引きで見ようとするとモノクロの画面はほぼ真っ黒で判別できず、接近して見るとカラーのプリントは視界からはみ出してしまう。引きと接近の狭間を往還し、その都度焦点を合わせ直しながら、小さな疲労が次第に身体に溜まっていく。
「適切な距離感の把握」の失調、それは、きれいに整備された公園/写真や映像の実体のなさが浮遊する平和記念資料館内において、「ヒロシマ」を捉えようとする時の距離間隔の喪失でもある。笹岡の展示は、「広島」のなかにある「ヒロシマ」の見えづらさ、捉えどころのない距離感の失調感覚を、一枚の写真の中だけで完結させるのではなく、展示空間全体の体験へと拡張し、観客に体感させることに成功していた。
また、笹岡のカメラが、平和記念公園と資料館の双方において、外国人観光客の姿を多く捉えていることにも注目したい。「広島」が抽象的な概念ではなく、世界遺産登録やオバマ来訪といった外的要因によって外国人観光客が増加するなど、絶えず変化していく現実の生きた場所であり、また東館のリニューアルなど「展示」内容や形態がメディアの進歩とともに加算され更新されていく以上、「ヒロシマの表象」をめぐる笹岡の抵抗の試みもまた、何度でも編み直されていかねばならない。
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2017/10/09(月)(高嶋慈)
村山順子展「ケモノのキモノ 2」
会期:2017/09/23~2017/10/7
ギャラリーギャラリー[京都府]
染織作家、村山順子の個展。団栗、エンジュ、桜、ヤマモモなどの自然の染料を用いて、《春のケモノ(クマ)》《冬のケモノ(冬毛のオオカミ)》《石のケモノ(ナキウサギ)》《川のケモノ(カワウソ)》という動物の毛並みのイメージに織り上げられた着物4点が展示された。草木染めの絹糸で織られた表面は起伏に富み、光の当たり方によってさまざまな表情を見せる。淡いグレーの中に茶褐色と沈んだ紺が潜み、黄土色と白の線が現われ、銀灰色の中に緑がかった水色が幾筋も走り、深い赤と直交する。目を凝らすたびに、名状し難い色の中に新たな色が現われ、百の、そして千の色彩が移ろっていく。それらは人間のまとう着物の形をしているが、表面の豊かな表情と光沢は野生の獣の毛並みを想起させ、人間でも獣でもない身体が立ち上がる。
「衣服」は人間と動物を弁別する装置のひとつだが、化学合成繊維が発明される以前、人間は、動物から剥いだ毛皮を身にまとい、自然から採取した繊維で布を織り、草木や土を染料に用いて布を染めてきた。人間は自然界と連続した「第2の皮膚」をまとってきたのであり、また、動物の毛皮や羽根を身につけて精霊や自然神に擬態する祭りや儀式、ヒトならざるものに変容する変身譚は世界各地に残る。村山の「ケモノのキモノ」シリーズは、そうした衣服の起源、「擬態」や「変身」という呪術的機能、皮膚/外界や人間/自然を隔てつつ連続させる「衣服」について再考を促す。それは、「高度な技術で織り上げられた衣服を身にまとうことで野生化、動物化する」という転倒を孕み、「繊細な野蛮さ」とでも言うべき魅力に満ちている。
2017/10/07(土)(高嶋慈)
プレビュー:KOBE - Asia Contemporary Dance Festival #4 家族の系譜
会期:2017/11/03~2017/11/25
ArtTheater dB KOBE、旧K邸、駒ヶ林会館、ふたば学舎 講堂[兵庫県]
第4回目を迎える舞台芸術祭「KOBE-Asia Contemporary Dance Festival」(通称「アジコン」)。「家族の系譜」をテーマに、日本、インドネシア、ヴェトナムのアーティスト計13組が参加する。主催のNPO法人DANCE BOXの拠点である神戸の新長田は、在日コリアンやヴェトナム移民などの住民が多く、下町の雰囲気と「マルチ・エスニック・タウン」の性格が混在する町。人の移動の背景にある、文化的ルーツとその変容、家族の系譜、歌や踊りのなかに身体化された記憶といったトピックスに焦点を当てたプログラム構成となっている。
インドネシア・パプア地方出身のジェコ・シオンポは、動物から着想を得た動きとヒップホップを混ぜ合わせた「アニマル・ポップ」というスタイルで知られる。滞在制作で結成した「アニマル・ポップ・ファミリー・コウベ」が劇場から町中へと繰り出し、祝祭的な空間を出現させる。アジア諸国の舞台芸術関係者が集う集合体「アジア女性舞台芸術会議実行委員会」からは、祖母の洗骨の儀式を記録したヴェトナム在住のグェン・チン・ティの映像作品と、矢内原美邦が在日ヴェトナム人の女性たちの声を拾い集めて描いた戯曲が上演される。また、新長田で暮らす多様な人々による民謡や踊りの現場へ赴き、身体が記憶している所作や風習のありようを探るプロジェクト「新長田ダンス事情」では、演出家の筒井潤が新作を発表する。
「家族」および既成の概念への問い直しという面では、ダムタイプ『S/N』のヴィデオ・ドキュメンタリー上映、結成20周年を迎える男女のデュエット、セレノグラフィカが古民家で静かに紡ぐ男女の時間、ダンサーで振付家の余越保子による映像展示とパフォーマンスがある。余越は、4名のアーティストが瀬戸内海の島でともに暮らしながら撮影した映画と、その映画をテクスト化したライブパフォーマンスを発表。また、黒沢美香と両親の記念碑的ダンス公演『まだ踊る』の舞台裏を追ったドキュメンタリーを展示し、戦後の現代舞踊界を牽引し続けたダンスファミリーの軌跡を提示する。
芸術祭の期間中は、子どもたちを恐怖に陥れた目黑大路の「妖怪ショー」がアジアの妖怪を新たに加えて上演。また、近年、ダンスの継承の現場における「師匠とダンサーとのやり取り」を時にユーモラスにメタ化して提示している山下残は、アルゼンチン、イスラエル、オーストラリア、トーゴ、日本からなる国内ダンス留学@神戸 六期生が出演する新作を発表する。
会場は、ブラックボックスの劇場空間であるArtTheater dB KOBEに加え、古民家や商店街の中でも行なわれる。約1カ月の開催期間を通して、身体表現を介して新長田という場所の多層性に触れる機会ともなるだろう。
公式サイト:https://kacdf2017.wixsite.com/2017
2017/09/30(土)(高嶋慈)
プレビュー:黒沢美香追悼企画 美香さんありがとう
会期:2017/11/12~2017/12/30
横浜市大倉山記念館 ホール、d-倉庫、アップリンク渋谷[神奈川県、東京都]
昨年12月1日に逝去した黒沢美香の一周忌を記念した追悼企画。「日本のコンテンポラリーダンス界のゴッドマザー」とも称され、80年代から日本のダンスを牽引してきたその特異な足跡を、作品上演と記録映像の上映会によって振り返る。11月には、「ルール」の縛りと即興性の高さの双極の狭間で展開される2作品『一人に一曲』と『lonely woman』が横浜市大倉山記念館 ホールにて上演される(『一人に一曲』では、無記名のカセットテープをくじ引きで選び、出てきた曲を一人ずつ踊りきるというルールが課せられる。『lonely woman』は、「ダンサーは立ったその場を動いてはならない」というルールの下、横一列に並んだ3人のダンサーが30分間即興で踊る作品)。12月には、80年代から作りためた小品集「ダンス☆ショー」がd-倉庫で上演され、アップリンク渋谷では選りすぐりの記録映像が一挙上映される。なお、この企画は、黒沢が1985年に立ち上げた「黒沢美香&ダンサーズ」の最後の活動となることが予定されており、貴重な上演機会となるだろう。
公式サイト:http://mdancers2017.wp.xdomain.jp
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2017/09/30(土)(高嶋慈)