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artscapeレビュー

NEWCOMER SHOWCASE #4 黒沢美香振付作品『lonely woman』

2016年12月15日号

会期:2016/10/31

ArtTheater dB Kobe[兵庫県]

この原稿を準備していた12月はじめ、黒沢美香の訃報が飛び込んできた。黒沢は、日本のモダンダンスのパイオニア・石井漠の徒弟である両親からダンス教育を受けた後、1982~85年にNYに滞在。日常的な動作を取り入れ、モダンダンスのスペクタクル性を批判的に乗り越えようとしたジャドソン・グループの思想に影響を受け、帰国後は日本のコンテンポラリーダンスの草分け的存在となった。代表作『lonely woman』(1991年初演)は、そのラディカルさと即興の強さ故に、フランスのバニョレ国際振付コンクールの本選に選ばれるも上演拒否にあった作品。これまでに20回の上演が行なわれ、250人以上が出演した。参加者は、ダンサーのみならず、音楽家、美術家、詩人などダンス経験のない人にまで多岐にわたる。NPO法人DANCE BOXが主催する若手育成事業「国内ダンス留学@神戸」のショーイング公演として上演された今回は、受講生に加え、ワークショップ選抜メンバーや黒沢美香&ダンサーズのダンサー、ゲストのドラマーなどが参加した。
『lonely woman』の特徴は、ルールの厳格さと即興性の高さ、という相反する二極の共存にある。出演者に課せられたルールは「立ったその場を動いてはいけない」というもの。3名の出演者は横一列に並んで立ち、30分間、即興でトリオ(横軸)として踊る。その場を動かなければ、何をやってもよい(小道具の使用も許されている)。25分が経過すると「ヒト時計」のパフォーマーが登場し、楽器演奏などで「交代」を告げると、次の出演者3名が新たに登場し、交代する出演者とデュエット(縦軸)を踊る。この3名1組による30分を数セット繰り返すのが、『lonely woman』の基本的構造だ。
ここで問われているのは、「作品」の帰属先と「責任」の所在である。ダンス作品は振付家のものなのか、ダンサーの身体も含めて「作品」となるのか? そこで観客に提示される身体は誰に帰属し、誰のために動いているのか? ダンサーの身体は作品に奉仕するのか、作品に回収されない余剰がはみ出る可能性はないのか? それはバグやノイズとして処理されるのか、その予測不可能性すら構成要素として作品に取り込まれるのか? 黒沢は、場所の移動以外は何をやってもよいという自由さや多様性を限りなく許容する一方で、その場でダンサーがやったことのすべてが「黒沢の作品」に回収されてしまうという権力性も発動させる。
それはまた、「振付」の問題の根幹にも関わっている。黒沢は、「振付」がはらむ権力性を、視覚的なフォルムやムーブメントとして可視化する代わりに、「その場を動いてはいけない」という目に見えない強制力として顕在化させるのだ。内容の委任・譲渡と枠組みがはらむ権力性、オープンな肯定性と拘束性がせめぎ合う臨界点として「ダンス作品」を逆照射する『lonely woman』は、「ダンス作品」の上演が構造的にはらむ力学をメタ的に抽出している。それはまた、作品のフレームを強固に保ちつつ、「そこで流れる時間」の成否(停滞なのか活性化なのか)の「責任」 をダンサー自身に明け渡している。ダンサーは、即興の歓びや自由とともに、その「責任」を背負って孤独に立つ。だから『lonely woman』は苛烈なまでに過酷な作品だ。
本公演では、3名×4組の計12人と、「ヒト時計」の2人が出演した。実見して感じたのは、それぞれの組によって場の雰囲気や時間の流れ方がガラリと変化したことだ。横に並んだ3名が均質性を保ちながら続く時間もあれば、互いに異物のように主張する3名が不思議な調和を発する一瞬もある。時間の重みに耐えきれなくなった体が、吹っ切れたように声や音を発して突破口を開こうとする瞬間もあれば、次第に醸成されていく粘着質な空気が一気に沸点へと立ち上がって肌がゾクリと反応する瞬間もある。とりわけ、最終組の3名(北村成美、文、泰山咲美)のトリオは静かな熱気を放ち、惹きつけられた。
はからずも、黒沢自身が直接立ち会った最後の上演となった本公演。「ダンス」をラディカルに問う姿勢と開拓精神が、参加した若い受講生たちに受け継がれることを願ってやまない。それこそが真の追悼となるだろう。


撮影:岩本順平

2016/10/31(月)(高嶋慈)

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