artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
TPAM2018 梅田哲也『インターンシップ』
会期:2018/02/12~2018/02/13
KAAT神奈川芸術劇場 ホール[神奈川県]
梅田哲也が劇場のテクニカルチームに「インターン」として潜入して制作した、というのがタイトルの由来。本作は、「舞台上に見るべきものは何もない」という表象批判・劇場批判をリテラルに遂行しつつも、劇場の物理的機構そのものを用いて圧倒的な感覚的体験の強度をつくり出した。
観客はまず、本来は「見えない」ところに吊られてあるはずの多数の照明装置が下ろされた舞台を目にすることになる。裏方スタッフたちによって、移動式の一階席の椅子が舞台裏に運ばれ、エレベーターに乗せられ、運び去られていく。あちこちに設置されたスピーカーの出力チェックが行なわれ、劇場空間が音響的な遠近感をもって体験される。ゆっくりと上げ下げされる照明装置。階段状にせり上がる客席の床。そうした物理的機構の「運動」と裏方の現場作業を見た後、観客は二階座席に誘導され、舞台の前列に並んだオーケストラを見下ろすことになる。チューニングがいつしか即興的な演奏へと変わる。照明装置が一段ずつ上昇し、焚かれたスモークにまばゆい光が当たり、機械の森の幻影のように直交する光と影が移ろう。オーケストラピットはゆっくりと下降し、楽器隊は見えなくなるが演奏は続く。無人で空っぽになった舞台空間上を、照明装置の投げかける光と影、そして音響が満たしていく。上方に吊られた反響版が下降を始め、ゆっくりと角度を変えながら夜のとばりが下りるように客席と舞台の間を遮っていく。囁き声、そして呼吸のような音。再び反響版が上がると、舞台上には椅子や機材がきちんと並べられ、「いつも通り」裏方スタッフたちがテキパキと行き交っていた。
まず、通常は不可視である舞台上の構造をむき出しにし、「非日常」のイリュージョンを出現させる舞台の「日常」の光景を見せる。そして、劇場機構を駆使した、光と音による圧倒的な「非日常性」を体験させた後、空っぽだった舞台上には再び機材や裏方が姿を見せ、「日常」へと回帰する。本作の構造はこのように記述できるだろう。それは非日常と日常が何度も反転しながら入れ替わる交替劇であり、光から闇へ、生から死へ、そして夜と死を潜り抜けて再び生へと回帰するドラマでもある。単なる表象批判や劇場批判を超えて、崇高感すら漂う感覚体験へと反転・昇華させた点が鮮やかであり、そこに本作の意義はある。
公式サイト:https://www.tpam.or.jp/2018/
2018/02/12(月)(高嶋慈)
トラベラー:まだ見ぬ地を踏むために
会期:2018/01/21~2018/05/06
国立国際美術館[大阪府]
全フロアを使用した、開館40周年記念展。第1部「The Multilayered Sea:多層の海」では「記憶や時間の多層性」を扱った作品、第2部「Catch the Moment:時をとらえる」ではパフォーマンス作品(とその記録)を中心に展示。コレクションを核に、本展のために制作された新作群を加えた構成となっている。
第1部「多層の海」では、「失われ(かけ)た記憶とその修復」に向き合う作品群が目を引く。例えば、「ジャコメッティ」の影に埋もれた元恋人の女性彫刻家の生涯を、息子の証言/映画的な再現映像で辿るテリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラーの《フローラ》。スクリーンの表/裏に投影された2つの映像が同期することで、証言/フィクション、記憶/再現、カラーの現在/モノクロの過去が表裏一体のものとして交錯する。また、小泉明郎の映像作品《忘却の地にて》は、第二次大戦で子どもを殺害した日本兵の証言を、事故で記憶障害になった男性に暗誦させることで、「加害の記憶喪失」を患う日本を批判する。ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・マエダは、60年代の前衛美術を2年間熱心に記録し続けた美術ファンの男性によるスクラップブックを、紙のシワや裏写りまで正確に再現。「記録の空白」を埋める一個人の記録活動に敬意を示すとともに、彼の記録方法に倣って、「現在の東京」の美術動向を記録したもう一冊のスクラップブックを制作した。チラシやチケット、写真を紙に貼り付け、手書きのメモを添えるというアナログな方法だ。そこには、歴史を参照し、その方法論を「再利用」しつつ「現在」へとアップデートをはかろうとする作家的態度への自己言及性も見てとれる。
また、「コレクションとのコミッションワーク」も新たな試みとして注目される。ピピロッティ・リストは、高松次郎が「影」を描いた壁面絵画に映像を投影。お馴染みのポップで浮遊感あふれる植物や水中の映像が漂うが、「高松作品」である必然性に乏しい。地味で埋もれがちな高松作品をカラフルに救済し、「エントランスで観客の目を引く仕掛け」に留まる点が惜しまれる。また、カリン・ザンダーは、収蔵作家143名から自作にまつわる「音」を集めた《見せる:国立国際美術館のコレクションを巡るオーディオ・ツアー》を制作。観客は、作家名のみが記されたキャプションの前で音声ガイド機のボタンを押して「鑑賞」する。物理的実体の代わりに「作家の肉声や制作時の音」を収集した本作は、一種の美術館批判と言えるだろう。あるいは、サービス重視に努める美術館での「作品鑑賞」が「オーディオガイドを聞く体験」に他ならず、「作品の不在化」に対する皮肉ともとれる(ちなみに、本展自体の「オーディオガイド」も例にもれず用意されている)。
一方、パフォーマンス作品(とその記録)に焦点を当てた第2部では、コレクションを紹介しつつ、ライブパフォーマンスを展示に組み込むことで、「収集」が困難な作品に向き合う美術館のビジョンを模索する。フルクサスのインストラクション(塩見允枝子)、記録写真(ヴィト・アコンチ、植松奎二、榎忠)、記録映像やビデオアート化(マリーナ・アブラモヴィッチ)、パフォーマンスに使用された残存物(工藤哲巳)というように、これまでの「パフォーマンスの収蔵方法」(=メディアの変換)を見せつつ、その延長線上に、生身のパフォーマーが展示室で行なうライブパフォーマンスを組み込んでいる。例えば、アローラ&カルサディーラの《Lifespan》は、同館で初めて収蔵されたパフォーマンス作品である。天井から吊るされた古代の小石に、3人のパフォーマーが息や口笛を吹きかけ合い、蘇生や交信を試みるようだ。
こうした取り組みは、「新たな美術館像」の提示としてチャレンジングである一方、慎重に考慮すべき側面もある。「美術館への収蔵」がパフォーマンス作品の制作の前提となり、ある種の「囲い込み」「選別」につながる可能性は否定できない。例えば、野外で行なったり、暴力的な要素や身体の露出を含むものは排除され、「美術館の展示室で安全に見せられる作品」が暗黙の内に収蔵の前提条件となるおそれがある。それは、政治的なボディ・アートやフェミニズム・アートにおける「支配的体制への身体的抵抗」という歴史的背景を切り捨ててしまうことに繋がりかねないだろう。この点で、ティノ・セーガルの参加は看過できない。出品作《これはプロパガンダ》は、観客が展示室に入ると、監視スタッフと同じ服装をして紛れたパフォーマーが歌い出し、不在のキャプションの代わりに「作品タイトル、作者名、制作年」を口頭で告げるというものだ。収蔵や展示にあたっての契約を口頭で行ない、一切の記録化を禁止するセーガル作品は、「パフォーマンスの物象化」への極北的な抵抗を示すようでいて、美術館制度との共犯関係の下に成立する。「監視スタッフ」という通常は不可視化されている存在を可視化しつつ、「行為の依頼や代行」という権力関係が浮上するのだ。
「パフォーマンス作品の収蔵」の取り組みは、既に海外の美術館では始まっている(例えば、上述のセーガル作品はテートが収蔵している)。それは、固定化された物理的実体に依拠する展示/美術館という近代的制度の中に、「時間軸の経験」を導入するものとして、根本的な変化をもたらすだろう。
2018/02/10(土)(高嶋慈)
プレビュー:BRDG vol.5「Whole」
会期:2018/03/16~2018/03/18
studio seedbox[京都府]
「BRDG」は、俳優・演出家の山口惠子と舞台制作者の川那辺香乃が2011年に立ち上げたユニット。山口は近年、「京都に住む異邦人」をテーマとし、インタビューを元に演劇作品を制作している。本作は、京都という街の「ローカルな国際性」を演劇化するBRDGのシリーズ第3弾。京都とフィリピンでのリサーチで集めた声と共に、多彩さを増す街の人物像を描くという。それは、国籍や地図上の線といった可視化された/想像上の分断線を融解させていくような作業となるだろう。OHPを用いて、めくるめく光と色彩が織りなすライブドローイングを行なう仙石彬人が手がける美術も注目される。また、会場の「studio seedbox」が位置する東九条が、多文化の共存する地域であることも、本作にとって大きな意味を持つだろう。京都では、昨年に約30年の歴史に幕を下ろしたアトリエ劇研など小劇場閉鎖が相次ぐなか、表現者たちの自主的な活動により、2階建ての元工場をリノベーションする新劇場「Theatre E9 Kyoto」の創設が予定されている。その創設までの空白期間を補うための場としてつくられたのがstudio seedboxである。ここからまた、新たな表現活動が生まれてくることを期待したい。
公式サイト:http://brdg-ing.tumblr.com/
2018/01/31(水)(高嶋慈)
チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション
会期:2018/01/30~2018/02/04
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
チェルフィッチュの代表作『三月の5日間』(2004年初演)のリクリエーションの京都公演。
『三月の5日間』は、2003年3月のイラク戦争開戦前後の5日間、ライブハウスで出会ったゆきずりの男女が渋谷のラブホテルで過ごして別れるまでの話を軸に、周囲の若者たちのエピソードが交差する。日常からの一時的な逃避行先としてのラブホ、その対極にあるもう一つの非日常=戦争、デモの祝祭感、旅行先の外国の街のように新鮮な高揚感で変貌した渋谷、「この5日間が過ぎたら戦争も終わっているかも」という楽観的な願望。しかし奇跡的な時間の終わりとともに回帰すべき「日常」はすっかり変質し、路傍のホームレスが犬に見え、非人間化の幻視が嘔吐という生理的反応をもたらす。これらのことが、誰かから聞いた出来事を「伝聞」として間接的に語りながら、いつの間にかその「誰か」を演じている、という伝聞形式の語り/再現=表象の複雑な往還運動のうちに展開され、発話主体の境界を曖昧に融解させていく。それは、「演劇」という制度へのラディカルな疑義の提出でもあった。
今回のリクリエーション版の上演では、以下の改変点が見てとれる。1)20代前半の若い俳優陣の採用。2)計7人の俳優の男女比の逆転と発話の振り分けの変更。3)台本の改訂。初演版の特徴である過剰な冗長さを保持しつつ、例えば「~なんですけど、」という言い回しで統一するなど、整理がなされている。4)舞台空間の変更。何もないフラットな空間から、抽象的でシンプルな舞台美術が出現した。
ここで、1)「20代前半の俳優の採用」は、このリクリエーション版の意義について考える際の要となる。彼らは、2003年当時、6~12歳であり、「イラク戦争開戦時の時代の空気感や渋谷の若者像」を同時代的な感性として共有あるいは記憶すらしていない。これは、「戯曲に描かれた若者たちの設定年齢には近づく一方、出来事としての共有からは遠ざかる」というジレンマを戦略的に引き受ける選択である。俳優たちは、この距離感をアプリオリなものとして引き受けたまま上演に臨まねばならない。この距離感を、「2003年の渋谷の若者のリアル」に擬態することで埋め合わせるのではなく、距離として測定すること。それは、「自身が体験していない、誰かから聞いた話を伝聞形式で語る」というスタイルとより親和性が高い。こう考えると、2)「発話の振り分けの変更」は必然的な選択だったのだと納得がいく。例えば、顕著な変更として、初演版の冒頭では、「ミノベくん」についての語りを男優2人が行なっていたのに対し、リクリエーション版では女優2人が担う。初演版では、「語り手」と「演じられるキャラクター」との境界の曖昧さや発話主体の錯綜が企図されていた。しかし、リクリエーション版では、「俺」という一人称や下ネタ的な単語が女性の口から発せられるという違和感の効果により、「語り手」と「演じられるキャラクター」との弁別や乖離はよりクリアに示される。3)「言い回しの統一的な処理」がこの弁別をより補強する。
「直接的な体験としては知りえないこと」に対してどう接近していけるのか。もどかしさや見えない圧力が俳優たちの身体に負荷をかけ続ける。極めて緩慢な歩みで「再現」されるデモの様子。「床に引かれた白線テープ」はデモ隊が歩く横断歩道へと変貌するが、指で摘まみ上げる別の俳優によって「現実の物質であること」が露呈され、フィクションは解体される。また、ある一つのシーンが、一人の俳優の内の「間接的な語り/再現」の切り替えに加え、複数の俳優によって視点や細部の言い回しを変えて何度も変奏的に反復されることで、時間軸が前進と後退を繰り返し、リニアな秩序を撹乱させる。語り、身体運動、そして反復によって「物語の単一のフレーム」は生起すると同時に揺さぶられる。それは、「2003年3月の5日間」という局所的な時空間に再び強固な輪郭を与えるのではなく、個別性を少しずつ丁寧に剥ぎ取り、「現在との距離」へと変換していくのだ。
この距離を固定化されたものとして描出せずに、その都度の上演の時空間のなかで立ち上がらせること。その距離の不安定な現われと測定のうちに、「2003年」から変化したものとしなかったものを聞き取ろうとすること。そこに本リクリエーション版は賭けられている。
関連レビュー
チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション|山﨑健太:artscapeレビュー
2018/01/31(水)(高嶋慈)
キュレトリアル・スタディズ12: 泉/Fountain 1917-2017「Case 5: 散種」
会期:2018/01/05~2018/03/11
京都国立近代美術館[京都府]
男性用小便器を用いたマルセル・デュシャンによるレディメイド《泉》(1917)の100周年を記念した、コレクション企画展。再制作版(1964)を1年間展示しながら、計5名のゲスト・キュレーターによる展示がリレー形式で展開される。最終回の「Case 5: 散種」でキュレーションを担当したのはアーティストの毛利悠子。毛利は、さまざまな日用品を音や光の出る機器と組み合わせ、オブジェたちが繊細でリリカルな即興演奏を奏でているかのような魅力的なインスタレーションをつくり出す。水やエネルギーの循環、自動運動機構に関心を持つ毛利は今回、デュシャンの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称《大ガラス》、1915-23)に着目。9人の男性独身者たちの性的な欲望がさまざまな装置を通過して抽出され、花嫁を刺激して脱衣させるという物語が、巨大な板ガラス上に奇妙な図像で描かれた《大ガラス》を、立体化・空間化する試みを展開した。
「《大ガラス》の立体化」の先例としては、例えばアプロプリエーションの作家、シェリー・レヴィーンによる《独身者たち》(1989)がある。レヴィーンは、《大ガラス》下部にある「9つの雄の鋳型」を金属やガラス製の彫刻につくり替え、一つひとつをガラスケース内に隔離。形象化された男性の欲望を安全に眺められるオブジェとして無害化し、かつ「眼差しに晒される商品」として欲望の主客を転倒させてしまう。
一方、毛利は、「花嫁」「3つのヴェール」「9つの雄の鋳型」「チョコレート磨砕機」「眼科医の証人」などと名付けられた《大ガラス》各部分に、自作の翻案的な装置、自然科学の模型、デュシャン自身の作品を当てはめて複合的に再構成した。特に、「9つの雄の鋳型」の部分には、デュシャン作品のミニチュアのレプリカを詰め込んだ《トランクの中の箱》と、精液で描かれた《罪のある風景》を配置し、密かな反撃を仕掛けている。また、《トランクの中の箱》の投入はジェンダーの言及だけにとどまらない。《トランクの中の箱》には《大ガラス》のミニチュアも含まれ、上部の「花嫁」の世界/下部の「独身者たち」の世界、そして上下を分断する「水平線」に対応するように、3つのレディメイドのミニチュアが収納されている。毛利は《泉》を含むこの3つのレディメイドを、立体化された《大ガラス》の横に再配置した。平面から3次元化された《大ガラス》の中にデュシャンの別作品を取り込み、さらにそこからもう一つの立体的配置を展開させる。一つの空間内に、入れ子状になった引用の連鎖が折り重なる。
《泉》の展示シリーズはこれで最終回となるが、「作家による個展であると同時に、コレクションの斬新な(時に反則的な)活用」という点でも興味深く、今後も同種の企画が続いてほしいと思う。
2018/01/28(日)(高嶋慈)