2019年05月15日号
次回6月3日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

小野祐次「Vice Versa ─ Les Tableaux 逆も真なり ─ 絵画頌」

会期:2018/12/12~2019/02/02

シュウゴアーツ[東京都]

フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》をはじめ、レンブラントの自画像、ルーベンスによる肖像画、モネの《印象・日の出》、セザンヌの静物画などを額縁ごと撮った写真。といってもすべてモノクロで、なにが描かれているかほとんど判別できない。これらは美術館に注ぐ自然光の下で撮影したものだが、図像の代わりに絵具の盛り上がりやキャンバスのたるみ、ひび、修復跡などが浮かび上がってくる。画集などに載る絵画の写真が色彩を中心とする画像の再現に注力するのに対し、小野の写真は絵画の物理的状態を露わにする。つまり絵画を平面としてではなく、立体(またはレリーフ)として写し出すのだ。色彩と形態から成り立つ絵画が真であるならば、彼の写真もまた絵画のもうひとつの真の姿なのだ。


関連レビュー

小野祐次「Vice Versa─Les Tableaux 逆も真なり─絵画頌」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー

2018/12/22(土)(村田真)

フィリップス・コレクション展

会期:2018/10/17~2019/02/11

三菱一号館美術館[東京都]

1921年、ダンカン・フィリップスがワシントンに開設した私立美術館フィリップス・コレクション。近代美術を中心とする4千点を超えるコレクションから75点を選んだもので、印象派をはじめ、18世紀のシャルダンからアングル、ドラクロワ、20世紀のピカソ、ジャコメティまで絵画、彫刻を展示している。アングルの有名な後ろ姿のヌード像の小ヴァージョンや、人気ヴァイオリニストのパガニーニを描いたドラクロワの軽快な小品、マネのぎこちない踊り子姿、抽象画といってもいいようなゴーガンの静物画、カンディンスキーの最初期の抽象画、ココシュカの珍しい風景画など、見るべき作品は少なくない。

だが、作品もさることながら、本展で見逃してはならないのは、第1次大戦から第2次大戦後まで、ダンカンが作品を手に入れた順に並べていること。ふつう展覧会は時代順、様式やジャンルごと、国別・作家別に並べることが多いが、同展はあくまでコレクターを主体に構成されているということだ。これはとくに個人のコレクションを見せるときにぜひやってもらいたかったこと。誰も個人コレクションで美術史を勉強しようなんて思ないので、だったらいっそ個人がどのような嗜好で作品を集め、どのように嗜好が変わり、最終的にどんな作品を残したのかを(できればどの作品を手放したのかも)わかりやすく見せたほうが興味が湧くというものだ。ダンカンの場合、古典的なものから近代、現代へと嗜好が移っていく(あるいは意識が目覚めていく)のがよくわかるが、これは、まあ、ほかのコレクターと変わらない。

もうひとつ、同展で気づいたのは、額縁にガラスの入っていないものが多いこと。近年は作品防護のためガラスで画面を覆うことが多く、ガラスのない額縁を見つけるほうが難しいくらいだが(反射しないので、一見ガラスが入っているかいないかわかりにくい)、ここではざっと数えて34点にガラスが入っていなかった。彫刻を除く68点の絵画の半分だ。最近は無反射ガラスが使われるためガラス入りでも見にくくはないが、それでもガラスなしのほうがクリアに見える。最高の状態で作品を見せたいという鑑賞者ファーストの思想だろうか。それとも単に金がないだけなのか。

2018/12/19(水)
(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00046279.json s 10151998

吉村芳生 超絶技巧を超えて

会期:2018/11/17~2019/01/20

東京ステーションギャラリー[東京都]

ひたすら同じこと、意味のないことを繰り返したり、恣意性を排した機械的作業に身を委ねる。モダニズムが行きつくところまで行きついて閉塞状況に陥った70年代、こうしたシジフォスのごとき単純労働を自らに科した作家は少なくない。いわば表現しないことを表現した「非表現主義」。吉村芳生は、徹底した恣意性の排除とシステマティックな制作方法においてその代表格といえるだろう。

初期の作品《ドローイング 金網》は、紙の上に金網をのせてプレス機にかけ、紙に写った跡を鉛筆でなぞり、陰影をつけて立体感を出したもの。まあこれだけなら驚かないが、それを何度も繰り返して全長17メートル、網目の数は約1万8千個におよんだというから、「バカじゃないか」と感心する。なにげない風景写真を模写した《ドローイング
写真》シリーズは、モノクロの風景写真を紙焼きして格子状にマス目を引き、1マスごとの濃淡を10段階に分けて数字を記入。その数字を方眼紙に書き写し、上から透明フィルムを重ねて数字の本数だけ線を引いて濃淡を表わしたもの。アナログな画像をいったんデジタル化して再度アナログ化するわけだが、その作業自体がアナログ極まりないのだ。ほかにも、新聞紙を一字一句もらさず丸ごとそのまま原寸大に書き写した《ドローイング
新聞》シリーズ、1年のあいだ毎日セルフポートレートを撮り、それを鉛筆で描き写した《365日の自画像》など、常軌を逸した作品ばかり。

しかし70年代にこれらを見せられても、それほど驚くことはなかったに違いない。ミニマリズム、コンセプチュアリズムが生んだ一種の奇形的表現として受け止められただろう。吉村の真に驚くべき点はそんな作業を40年近く、63歳で死ぬまでずっと続けたことにある。70年代が終わって80年代に表現主義の季節が訪れると、多くの作家は呪縛が解けたように「表現」に戻っていったが、吉村は色こそ加えたものの時流に流されることなく、ただ機械的に写し取るだけという自らの手法に固執し続けた。なぜそんなことができたのか?
 ひとつには、おそらく彼が人生の大半を故郷の山口県ですごし、余計な情報に惑わされることが少なかったからだろう。もうひとつは、カタログに載っていた彼自身の言葉に示されている。


「僕は小さい頃から非常にあきらめが悪かった。しつこくこだわってしまう。僕はこうした人間の短所にこそ、すごい力があると思う」

芸術とは才能ではなく、こうしたある種の偏った性質に宿る。金網のドローイングも、新聞の模写も、「365日の自画像」も、個々の作品から受ける感動は実のところ「こんなバカなことに多大な労力をかけて」という平面的な感動にすぎないが、そこに何十年という垂直の時間軸が重ね合わされて、立体的で重量感を伴う感動を与えるのだ。最晩年、彼は花の絵を例によってマス目を埋めるように色鉛筆で塗っていたという。絶筆はコスモスの花の絵。画面の5分の4は花が咲き乱れているのに、右端の5分の1ほどがマス目ごと空白のまま残されている。持続していた生が突如中断される死を、これほど鮮明に示してくれる絶筆も少ない。


関連レビュー

吉村芳生 超絶技巧を超えて|飯沢耕太郎:artscapeレビュー

2018/12/19(水)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00046999.json s 10151999

木下直之全集―近くても遠い場所へ―

会期:2018/12/07~2019/02/28

ギャラリーエークワッド[東京都]

日本の近代美術をまともに研究すればするほど道を踏み外しかねない。それは近代以前の日本には西洋的な「美術」は存在しなかったのに、幸か不幸か「美術らしきもの」が存在し、両者が強引に接ぎ木されることで歪みや矛盾が生じ、「つくりもの」「まがいもの」といった魅力的なマグマを吹き出すからではないか。だから東京藝大から公立美術館の学芸員を経て、東大の教授を務めるという美術の王道を歩んだ木下直之氏が、にもかかわらず、というよりそれゆえに「つくりもの」「まがいもの」の森に迷い込んだのも故なきことではないのだ。王道を行けばいつのまにか邪道にそれ、その邪道こそ実は王道だったりする迷宮世界。それが日本の近代美術なのかもしれない。

同展はこれまで木下氏が執筆してきた12冊の本を全集に見立て、「本物とにせもの」「作品とつくりもの」「都市とモニュメント」「ヌードとはだか」などに分類し、本物、ニセモノ、パネル、映像などで紹介している。日用品を組み合わせて人の姿に似せたつくりものをはじめ、西郷さんや小便小僧の人形、銅像の絵葉書、男性裸体彫刻の股間コレクション、お城のミニチュア、木下氏が高校時代に描いた抽象画まで、美術と美術でないものの境界線上にひしめくアイテムばかり。展覧会全体が見世物仕立てになっている。近年マンガやアニメ、建築やデザインなどのマージナルな分野の展覧会は盛んに行なわれるようになったが、こうした「つくりもの」「まがいもの」はそれこそ「美術」概念を破壊しかねないせいか、美術館では扱わないらしい。ならば同展をこのまま常設展示してほしい。

2018/12/18(火)(村田真)

霧の抵抗 中谷芙二子

会期:2018/10/27~2019/01/20

水戸芸術館[茨城県]

1970年の大阪万博ペプシ館で初めて発表して以来、中谷は人工的に霧を発生させる「霧の彫刻」を世界各地で80回以上制作してきた。その「霧の彫刻」を中心とした展示。万博のペプシ館での映像を見ると、霧がパビリオンを包み込むように広がり、知らない人が見たらまるでボヤみたい。ところが森のなかで霧を発生させた記録映像を見ると、自然の霧となんら変わりなく見える。一方、芸術館広場の巨石を吊ったカスケード(人工滝)で発生させた霧は、子供たちが喜ぶ遊びの道具になっていた。時と場所によってこれほど印象が異なり、役割が変わる作品も少ないだろう。

館内で行われた霧のインスタレーション《フーガ》は、かなりシビアな体験だった。細長いギャラリーの一番奥の部屋で30分ごとに上演(ていうのか?)されるのだが、部屋に通されて紗で仕切られた向こう側にズラリとノズルが並ぶのを見て、ちょっと不安になる。あのノズルから気体が噴出するのか……。1年前のメゾンエルメスでの個展のときも不謹慎ながら感じたことだが、今回は部屋が四角くて狭いうえ密室性が高く、壁も床もグレーに統一されているため余計ナチスのガス室を連想させるのだ。背後のドアが閉じられ、水蒸気が噴き出す瞬間、緊張してしまったのはぼくだけだろうか。でもこのインスタレーションはただ霧を出すだけでなく、鳥の映像を向こう側から霧の上に投影することで、あたかも雲の上に昇る朝日のなかを鳥たちが飛び回っているように見せるポジティブな仕掛けがあるのだ。もちろんこれが天国に昇る途上の光景だとは思いたくないが。

2018/12/09(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00046351.json s 10151492

文字の大きさ