2019年05月15日号
次回6月3日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

未来を担う美術家たち 21st DOMANI・明日展

会期:2019/01/23~2019/03/03

国立新美術館[東京都]

文化庁新進芸術家海外研修制度の成果を発表する展覧会。今回はここ3、4年内に派遣されたアーティストを中心に、計10人の作品を展示。成果発表といっても、派遣先でつくった作品だけを見せるわけではなく、また「派遣前」「派遣後」に分けて「こんなに効果が表れました」みたいなあからさまな展示でもなく、近作・新作を個展形式で自由に見せている。作家にとっては国費を使ったことに対する務めであり、また、国立美術館で作品を見せられる特権でもあるだろう。逆に鑑賞者にとっては、こういう奴らに税金が使われたのかと確認する場でなければならない。派遣作家を選ぶほうも大変だ。

展示で目を引いたのは蓮沼昌宏。展示室に長大なテーブルを置き、14台のキノーラと呼ばれる簡易式ぺらぺらアニメを並べた。当日は中学生が団体で訪れていたので、テーブルは満席。みんな席を移動しつつ作品に見入る様子は理科の実験室のようで、現代美術展では見慣れない風景だった。村山悟郎の絵画と呼ぶにはあまりに逸脱した「織物絵画」も目を引いた。麻紐を放射状または鳥の羽根のように織った上に絵具を施した作品は、本人によれば、雪の結晶やアリの巣などに見られる自己組織的なプロセスやパターンを絵画で表現したものだそうだが、ぼくから見ると、未開民族の呪術的装飾を思わせると同時に、はるか絵画の原点に思いを馳せさせもする。

展示の後半は映像系の作品が多くてスルーしたが(^^;)、最後の三瀬夏之介の部屋で立ち止まってしまった。いや、立ち止まらざるをえないでしょ、展示室いっぱいに《日本の絵》と題された超大作が立ちはだかっていたんだから。もちろんデカすぎて通れないという意味ではない。具象・抽象を問わず多彩なイメージを織り込んだ紙を切り貼りし、支持体に貼らずに上から吊るし、どこからどこまでがひとつの作品かわからないようなインスタレーション形式で見せるなど、日本画の範疇を超えたより大きな「日本の絵」を目指していたからだ。これまでの9人の作品が吹っ飛ぶほどのインパクト。よく見ると、三瀬は文化庁の海外研修制度の恩恵は受けておらず(五島記念文化財団の助成を受けたことはある)、今回はゲスト作家という扱い。文化庁の研修制度が色あせて見えないか心配だ。

2019/01/24(木)(村田真)

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岩熊力也「狩猟採集と絵画」

会期:2019/01/07~2019/01/19

コバヤシ画廊[東京都]

「狩猟採集と絵画」というタイトルを聞いて、先史時代の洞窟壁画を思い出したが、当たらずとも遠からず。木曽に住む岩熊は、「狩猟採集」と「絵画」という一見かけ離れた行為をきわめて強引に……ではなく、きわめて自然に結びつけてみせる。山で駆除された鹿やイノシシの不要部分を譲り受け、獣毛と竹で筆をつくり、獣皮からニカワをとり、ニカワと煤を練り合わせて墨にする。これを画材にして紙や獣骨に鹿やイノシシと木曽の風景を重ねた絵を描くのだ。その展示はどこか考古学資料が並ぶ博物館を思わせる。

「限りある自然資源を無駄にすることなく持続可能なライフスタイルを築いていくこと、そのなかに絵を描くという行為を位置付けること。そこから人類はなぜ絵を描くのかという問いの答えを模索すること」、それが「木曽ペインティング」だと岩熊は記す(木曽での展覧会のカタログ『けものみち』より)。木曽ペインティングはまたペインティングの「基礎」でもあるだろう。『けものみち』にはまた、「旧石器時代に洞窟内に動物たちの姿を生き生きと描き出した人類最初の画家たちは猟師でした。光のまったく届かない洞窟の奥に絵を描いた理由を私なりに推測すると、自ら殺めてしまった動物たちが再び生きて戻ってくることを願ったのではないかと思います」とも記されている。通説では洞窟壁画は狩猟の成功祈願のために描かれたとされるが、死んだ動物の蘇りのためにという説は、実際に動物たちの死に立ち会った者だからこその仮説だろう。いやあこれほど絵画の根源に遡って絵を描こうとする作家もいないだろう。


展示風景

2019/01/19(土)(村田真)

『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』

ヨーゼフ・ボイスが来日してから35年、没してからも30年以上たつ。名前を聞く機会もめっきり減ったけど、アート・プロジェクトやソーシャリー・エンゲイジド・アートなどが喧伝される昨今、「社会彫刻」を掲げたボイスはもっと再評価されていい芸術家の筆頭に挙げられるだろう。この映画は残された写真や映像により、ボイスの生涯と思想を大まかにたどったドキュメンタリー。

第2次大戦中に搭乗した戦闘機が撃墜され、タタール人に救出されて体に脂肪を塗られ、フェルトにくるまれて九死に一生を得たとか、デュッセルドルフの美術学校の教授に収まったものの、定員を無視して学生を入れたため解雇されたとか、資本主義と対立し、アメリカのギャラリーから呼ばれたときには誰とも会わず、コヨーテと過ごしたとか、緑の党の立ち上げに参加したとか、おおよそのエピソードは80年代から知られていた。しかしそれをボイス自身の口から聞いたり、実際のパフォーマンスを映像で見るのは初めてのこと。余計な演出もなく、ただ既存の映像をつなぎ合わせ、合間に関係者へのインタビューをはさんだもので、キャロライン・ティスダルとかヨハネス・シュトゥットゲンとか懐かしい人物も出てくる。

ボイス自身の言葉も興味深い。いわく「笑いなしで革命ができる?」「芸術だけが革命的な力を持つ。芸術によって民主主義はいつか実現する」「撹乱は必要だ、人目を引くためにね」。ボイスはみずからの考えを広めるために道化役をいとわなかった点で、岡本太郎を思い出させる。しかし毀誉褒貶があったにしろ、晩年のボイスが栄光に包まれていたのに対し、岡本太郎の晩年が悲惨だったという明暗対比はいかんともしがたい。どうしてこんなに差がつくんだろう?
いろいろ考えさせられる映画だった。

2019/01/08(火)(村田真)

終わりのむこうへ : 廃墟の美術史

会期:2018/12/08~2019/01/31

渋谷区立松濤美術館[東京都]

日本でにわかに廃墟ブームが起こったのは1980年代のこと。バブル景気を前にいたるところで再開発が進み、都市が大きく変貌しつつあったことと無関係ではないだろう。未来の廃墟というべき三上晴子のインスタレーション《滅ビノ新造型》や、解体中の建築を撮った宮本隆司の写真集《建築の黙示録》が注目を集めたころだ。その後も鉄道の廃線や工場の夜景、ダムや橋などの近代遺産を写した写真集が人気を集めているが、意外なことに「廃墟」をテーマにした展覧会はあまり聞いたことがなく、ひょっとしたらこれが初めてかもしれない。

展示は6章に分かれ、まず古典的な西洋の廃墟画に始まり、近代日本人画家の廃墟との出会い、シュルレアリスムの廃墟を経て現代の廃墟画まで、計73点でたどる構成。つまり古今東西の廃墟画をさほど広くない会場で紹介するわけで、やや無理がある。とくに西洋の廃墟画は、ピラネージにしろユベール・ロベールにしろポール・デルヴォーにしろ版画が大半だし、パンニーニやクロード・ロラン、フリードリヒが出てないのも寂しいところ。いっそ付け足しみたいな西洋ものを省いて日本の廃墟画に絞ったほうが明快だし、中身も充実したのではないだろうか。まあそこまで絞ると動員が減るのは間違いないけど。

ともあれ今回のいちばんの見どころは、近代日本における「廃墟の受容と展開」だった。古来日本には廃墟を愛でる心情はあったものの、絵に表わすことはあまりなかったようだ。それはおそらく日本の建築が吹けば飛ぶような木造が多く、時とともに朽ちていくため、悠久の時間を感じさせるような「堅牢な廃墟」が存在しなかったせいかもしれない。おもしろいのは、近代以前の日本にも廃墟画がまったくなかったわけではなく、舶来の版画に描かれた廃墟を模写した伝歌川豊春の浮世絵が残されていること。この絵師はおそらく西洋の廃墟を美しいと思って描いたのではなく、たまたま模写した版画が廃墟図だったというだけの話だろう。

日本に本格的に廃墟画が導入されるのは明治に入ってからのこと。工部美術学校に招かれたイタリア人画家フォンタネージが持参した廃墟の素描を、生徒たちが模写したものだ。その後、百武兼行や松岡壽らが渡欧して廃墟を描くことになるが、しかしそれも風景の一部に廃墟が入っていた程度のもので、そこからは廃墟の持つ意味や象徴性は読み取れない。1930年代からおもにシュルレアリスム系の画家たちが、戦禍の近づく不安な世情を反映させるように廃墟を採り入れるが、今度は逆に象徴性が勝りすぎて廃墟が廃墟らしくしっかり描かれていないのが残念なところ。でもこの昭和の廃墟観を拡大して戦争を軸に1本にまとめれば、おもしろい展覧会になると思う。

最終章では日本の現代都市が廃墟化した風景を元田久治や野又穫らが描いていて、ようやく廃墟画が根づいてきたことを感じさせる。欲をいえば、磯崎新をはじめ建築家の作品も見たかった。

2019/01/08(火)(村田真)

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5 R00MS Ⅱ──けはいの純度

会期:2018/12/07~2019/01/19

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

大小5つの展示室からなるギャラリーで、5人のアーティストが作品を発表している。最初の部屋は和田裕美子。肌色の女の子の人形を並べ、黒々とした髪の毛が延びて先端がレース編みのようなパターンを描いている。これがただの黒い糸だったら学芸会レベルだが、髪の毛であると知ると意味も見え方も異なってくる。素材の力は大きい。次の部屋は橋本雅也で、鹿の角を植物のように彫ったり、木を彫って石の固まりのようにしたり、ある素材をそれに似つかわしくないものに変える彫刻を出品。

3番目の七搦綾乃も少し橋本に似て、木を彫って骨のような、あるいは植物のような不穏な物体に変えてみせる。だが、橋本が工芸的な美しさに着地するのに対し、七搦は荒削りで正体不明の不気味さをたたえ、どこにも行きつかない点が大きく異なる。ここまで来るとなんとなく展覧会全体のテーマが浮かび上がってきた。それは「素材の曖昧さ」だ。と思ってチラシを見たら「けはいの純度」とある。ぜんぜんハズレ。4番目のスコット・アレンはレーザーを使う作品らしいが、アウト・オブ・オーダーだったので問題外。5番目の大西康明は一番大きな展示室を使ったインスタレーション。この展示室を特徴づける階段の踊り場から色テープを投げて、宙に張り巡らせたテグスに引っ掛けて床に広げた。いわば行為の軌跡を視覚化したもので、ほかの3作家に共通する「曖昧さ」はないけれど、大空間をにぎやかに埋めようとする努力は認めよう。

2019/01/05(土)(村田真)

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