2021年07月15日号
次回8月2日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

DOMANI・明日展 2021 文化庁新進芸術家海外研修制度の作家たち

会期:2021/01/30~2021/03/07

国立新美術館[東京都]

文化庁の新進芸術家海外研修制度(在研)の成果発表の場として始まった「DOMANI・明日展」も、今年度で23回目。昨年の同展が開催されたのは、中国で新型コロナウイルスが流行し始めた時期だったが、まさかその後1年間でこれほどのパンデミックになるとは予想もしなかったなあ。だいたい昨年の「DOMANI展」は、東京オリンピック・パラリンピックを記念する特別展という位置づけだったのに、肝心のオリンピックが延期され、いまや開催そのものまで危うくなってる始末。それはともかく、同展の母体となる在研も大きな打撃を受けただろうことは想像に難くない。渡航や移動、交流を控えなければならないとしたら、研修制度のあり方も再考しなくてはならないかもしれない。そんな緊急事態下で行なわれる「DOMANI展」だ。今年は出品作家10人(ペアが1組)で、男女半々。同展企画者(林洋子)も同館館長(逢坂恵理子)も女性だから、政財界やスポーツ界に比べれば進んでいるかも。以下、目についた作品をいくつかピックアップしていこう。

笹川治子は縦長の2面スクリーンによる映像を出品。スローモーションの男女の姿や動物園のチンパンジー、コーヒーをカップに注ぐ場面など、日常の風景が左右のスクリーンにランダムに映し出される。関連なさそうなイメージが次々に現われては消えていくだけなので、退屈きわまりない。が、見ているうちに時おり左右でイメージが同調することがあって、その瞬間だけなんとなくわかった気分になり、ホッと安心する。なんだろう、この小市民的満足感は? これはひょっとして、そんな同調圧力への嘲笑なのか? その隣の大田黒衣美は、毛皮の上に細長い板みたいなもので人物像をつくり、写真に撮った作品。毛皮は猫の背中、板状の物体はガムのようだ。つまり猫をキャンバスに、ガムを絵具として人物を描いているのだ。タイトルは「sun bath」。猫の背中の上でのガムと日光浴の出会いは美しいだろうか。ほかにも、本物のガムを用いたドローイング、陶土でつくった巨大なガムなども出品。

出品作家はほとんどが40歳前後だが、袴田京太朗だけ10歳以上年上で、同展のなかである意味「重石」のような役割を果たしている。「複製」シリーズは、木やFRPで作った人物像を頭部、胴、脚あたりで水平に3分割して2体に分け、それぞれ欠損部分を積層させたカラフルなアクリル板で補ったもの。多くは2体ペアで壁に背中向きに展示されているが、1体だけ軍人像が3分割され、胴体部分が床に転がっている作品があってハッとした。彫刻は破壊することで物語り始めるのか。軽くておとなしい作品が多い同展のなかで、ここだけ濃密な空気が漂っている。最後の部屋は竹村京と鬼頭健吾のペアによる展示。それぞれ別の時期に在研でドイツに滞在していたが、現在はパートナーとして生活しているそうだ。それぞれ個別にも作品を出しているが、何点かはコラボレーションしている。鬼頭のカラフルな画面と竹村の布による平面を交互に連結させたり、鬼頭の画面の上に竹村の布をかぶせ、その上に鬼頭が絵具を塗って、さらに竹村が刺繍するという作品もある。こういう参加の仕方もあるんだ。一番にぎやかで楽しい空間だった。

2021/01/29(金)(村田真)

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並木のパブリックアートプロジェクト

会期:2021/01/16~2021/01/31

金沢シーサイドタウン各所[神奈川県]

開発50年を迎えた横浜市の金沢シーサイドタウンを舞台に、人とアートの出会いを演出する「ナミキアートプラス」プロジェクト。その一環として、期間限定のパブリックアートを並木地区の商店街や住宅地に展開している。今日は、黄金町芸術学校のプログラムとして毎月1回開いている講座が緊急事態宣言で中止になったため、代替案としてこのパブリックアートをオンラインで紹介しようということで訪れたのだ。ぼくもこのプロジェクトのことは知らなかったので、最初にスタッフからレクチャーを受ける。ふむふむ、なるほど、そうだったのか。作品展示はキム・ガウンと池田光宏の2人で、ほかに「まちあるきプログラム」としてorangcosongも参加しているという。

同地出身の池田は、並木地区の住人が家や商店に飾っているお宝コレクションを調査し、そのお宝の画像とキャッチコピーを大きくバナーにプリントして、展覧会の広告みたいにアーケードの天井から吊るした。題して「BGAプロジェクト─横浜・並木のアートシーン─」。BGAとはバックグラウンドアートの略で、いつも身近にあって生活に溶け込んだアートのこと。「佐久間玉江の陶板画展」「KOUTA 並木少年画家」「さとうりさ ワークショップ」といったように、10枚ほど掲げられている。池田尚弘という人の絵もあったが、地元出身の作者、池田光宏と名前がよく似てないるなあと思ったら、やっぱり無縁ではないらしい。コレクション自体はどれも豪華なもんではないけれど(本物の高価なお宝があっても税金や盗難の関係で出せない?)、どうせなら独り占めするより地区全体で共有しようという発想だろう。

韓国出身のキム・ガウンは、日本やイタリアにも長く住み、絵本作家、ジュエリーデザイナーとしても活動するアーティスト。クマとウサギが主人公の絵本も書いており、ここでは池や公園など5カ所にクマとウサギがクジラや魚と戯れる壁画を制作している。なぜクマとウサギかというと、黒と白、大と小、コワイとカワイイといったように対照的な動物だからだそうだ。それがクジラや魚と遊ぶのは、ここがもともと埋立地につくられた集合住宅地で、それ以前は海だったから。そうした土地の記憶を遡った絵物語を綴っているのだ。圧巻なのは、公園に建つ東屋の円蓋にマーカーペンと鉛筆で描いた天井画。東屋は3メートル四方ほどの大きさだが、線描なので大変な作業だったはず。これは残しといてほしいなあ。

これらのパブリックアートは半月しか公開されないのが残念だが、短期間という条件だからこそ可能だったともいえるだろう。長期間展示しようとすれば、安全性や耐久性、環境や美観への配慮などクリアしなければならない問題が出てきて、結局当たり障りのない表現に落ち着いてしまいがち。だから恒久的なパブリックアートはつまらないものが多いんだね。



キム・ガウン《海を想う》(2021)金沢センターシーサイドショッピングセンター


2021/01/26(火)(村田真)

冨安由真展 漂泊する幻影

会期:2021/01/14~2021/01/31

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ[神奈川県]

会場の扉を開けると、長い廊下が真っすぐ伸びている。が、正面に自分の姿が見えるので、鏡で長さを倍増していることがわかる。左側に扉があり、開けると今度は暗い部屋に出る。そこには3つの古びたテーブルセットをはじめ、ホコリだらけのソファ、時代物のピアノ、シカやクマの剥製、止まった時計、瓦礫やボロ切れ、旧式の受話器などが置かれ、それぞれにスポットライトが当たっては消えていく。放射能かコロナか知らないけれど、無人になった廃墟のような風景だ。奥のスクリーンには実在する廃墟だろう、荒れ果てた室内の映像が映し出される。

別の扉から出ると、また最初の廊下に戻る。と思ったら、先ほどの鏡の裏側に設えた別の廊下であることがわかる。再び奥の扉を開けて、絵が10点ほどかかっている薄暗いギャラリーに入る。その絵はいま見た廃墟を描いたものらしいが、1点ずつランダムに照明が当てられるので移動しながら見ることになる。こうしてインスタレーションと映像と絵画によって廃墟を追体験させられるわけだが、これらは実際に廃業した千葉県のホテルがモチーフになっており、インスタレーションで使われた家具などはそのホテルから運んだものだという。コンセプトも会場構成もよく練られ、照明効果も抜群だ。それもそのはず、この「美術展」が県民ギャラリーではなく芸術劇場で行なわれるのは、照明やセットなど舞台美術のノウハウが活かせるからであり、「現代美術と舞台芸術の融合による新しい表現」を模索するKAATならではの企画だからだ。ああ見てよかった。

でも作品とは別に、残念なこともあった。まだ1週間近く会期を残しているのに、カタログが完売していたことだ。いったい何部刷ったんだろう? 増刷もないという。主催者としては喜ばしいことかもしれないが、見に行った者にとっては残念というほかない。買えなかった腹いせに言うのではないが、きつい言い方をすれば、作家にとって失礼ではないか? 完売するということはあらかじめ動員数を少なく見積もっていたということだろう。最近はSNSなどで反響が予想を超えることもあるかもしれないが、千部と二千部と経費はそれほど変わらないのだから、最大限つくってやれよ。せっかくすばらしい作品を実現してくれたのに、なんとももったいないと思うのだ。

2021/01/25(月)(村田真)

千葉正也個展

会期:2021/1/16~2021/3/21

東京オペラシティアートギャラリー[東京都]

千葉の絵は、自ら粘土をこねた人物みたいな彫刻を中心に、植木や水槽、ナイフ、靴など身の回りのものを寄せ集めて描いたもの。あえて分類すれば静物画だが、背景はグレーに塗りつぶされたり、アメリカ西部の風景だったりする。その粘土彫刻にはいろいろと意味がありそうだが、いずれにせよそれらのモチーフを机や棚に載せて、達者なテクニックで克明に描いていく。その絵自体何ともいえず魅力的なのだが、今回はそれをとんでもない展示方法で見せている。

会場に入ると、壁に絵はなく、ギャラリー中央に設けられた細い通路が目に入ってくる。絵は通路の両脇に、しかも通路に向いて並んでいるのだ。なんだこれは? と思いながら通路沿いに作品を見ていくと、カメがのそのそと通路上を歩いているのに出くわす。千葉が飼ってるリクガメのローラで、通路は彼(オスらしい)の散歩道だそうだ。だから通路沿いにビルボードみたいに立っている絵は、ローラが散歩がてら見るために並べられているのだ。その散歩道には起伏があったり広場があったり、隣のギャラリーに行くために壁にトンネルを開けたり、絵のモチーフに使われる粘土彫刻などが置かれていたり。こんな絵画展、これまであっただろうか。

今回はさらに、他人の顔に千葉が自画像を描いて紙に転写した「顔拓」とその映像や、ホットカーペットに担当キュレーターやギャラリースタッフの肖像を描いたシリーズも出している。特にキュレーターの肖像は床に敷かれていて、まるで踏み絵。みんな喜んで踏むだろうね。会場の隅にはベニヤ製の手形が四方を指している彫刻が置かれていて、なにかと思ったら、その手形の指す方向を見ると、貴乃花や若乃花のホンモノの手形が壁に貼ってあるではないか。これは楽しい。

ふつう絵画の展覧会でこんなことをすると気を てら っているように見られるが、これは不思議と衒いが感じられず、なんか変だなーと思いつつ受け入れてしまった。作品に説得力があるのだ。そもそも千葉の絵は見ているだけで飽きないが、それを壁に飾るだけでは「なんだろう」「どういう意味があるんだろう」と深刻に考え込んでしまいかねない。今回のインスタレーションはそれを回避する役割を担っているのかもしれない。これなら何時間でも堪能できる。今年の暫定ベスト1だ(まだこれしか見てないけど)。

2021/01/15(金)(村田真)

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Connections─海を越える憧れ、日本とフランスの150年

会期:2020/11/14~2021/04/04

ポーラ美術館[神奈川県]

久々に足を伸ばして(といっても神奈川県だが)箱根のポーラ美術館へ。着いたのは3時過ぎ、いまは1年でいちばん日が短い時期なので、まずは森の遊歩道をぐるっと散策してみる。あー都会とは空気が違う。なにしろ活火山が近いからな。千年後、ポーラ美術館がポンペイみたいに発掘されないことを願うばかりだ。

「コネクションズ」はサブタイトルにもあるように、日仏の150年にわたる美術交流の一端を見せるもの。美術交流といっても、フランスからの一方的な影響を思いがちだが、150年前の発端は逆で、フランスが日本美術を熱烈に受け入れる「ジャポニスム」から始まった。展覧会は第1章を「ジャポニスム―伝播する浮世絵イメージ」とし、浮世絵と印象派やエミール・ガレの花器などを対置させている。例えば、ジヴェルニーの太鼓橋を描いたモネの《睡蓮の池》と、北斎の《冨嶽三十六景 深川万年橋下》はジャポニスム(ジャポネズリーというべきか)のわかりやすい例だが、ゴッホの《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》と、広重の《高田姿見のはし俤の橋砂利場》の対比は苦しい。ゴッホが浮世絵の熱烈なファンだったのは周知の事実だが、この頃はすでに外面的な模倣を超えて内面化していたはずだから、比較展示しても一目瞭然というわけではない。その印象派と浮世絵の合間に山口晃が割り込んできたり、荒木悠の映像が流れたりして、東西だけでなく今昔の対比も目論まれている。

もっとも興味深かったのは、第2章の「1900年パリ万博―日本のヌード、その誕生と展開」だ。日本に本格的にヌード画をもたらそうとしたのは、パリでラファエル・コランに学んだ黒田清輝だが、その彼が1900年のパリ万博に出品されていたコランの《眠り》に触発されて描いたのが、ポーラ所蔵の《野辺》。第2章ではこの2点を軸に、日本のヌード画の展開を追っている。黒田はそれ以前にも全裸のヌード像を描いているが受け入れられず、コランに倣って半身ヌードの《野辺》を制作。師弟のこの2点はよく似ているだけに、違いの持つ意味は大きい。まず目立つのが肌の違い。コランの白くて柔らかそうな官能的な肌に比べて、黒田のモデルは黄色っぽくて中性的だ。また、コランの女性は眠っているのか、無防備に腕を上げているのに対し、黒田の女性は目を開き、片手で腹部を隠している。さらに、コランの女性の腹部には毛皮がかかっているのに対し、黒田の女性にかかっているのは布という違いもある。こうした違いは、黒田が裸体表現から官能性を排して日本社会にヌード画を根づかせようと工夫したものだという。実際その後の岡田三郎助にしろ満谷国四郎にしろ、ヌード画の多くは腰を布で覆っているし、その影響は、本展には出ていないが、萬鉄五郎の革新的な《裸体美人》にまで及んでいるというのだ。なるほど、納得。

第3章の「大正の輝き」、第4章の「『フォーヴ』と『シュール』」では、印象派からシュルレアリスムまでめまぐるしく変わるフランス絵画の動きを、日本の画家が数年遅れで取り込んでいったことがわかる。ルノワールそっくりの中村彝、セザンヌそっくりの安井曾太郎、ユトリロそっくりの佐伯祐三といった具合に、一方的な影響が暴かれている。そこに森村泰昌を忍ばせることで、日本人の抱く西洋コンプレックスを決定づける。けっこうシビアな展示構成だな。

エピローグはフランスと対等に戦った画家としてレオナール・フジタが取り上げられている。このフジタ作品もそうだが、大半の作品をポーラ・コレクションで賄っているのはさすがだ。しかし「150年」とはいうものの、出品作品は明治から第2次大戦までの前半に集中し、戦後がすっぽり抜け落ちて、現代の森村や山口が唐突に登場するといういささかバランスの悪い配分になっている。もっとも戦後は相対的にフランスの影響力が落ちたから仕方ないけどね。

2020/12/20(日)(村田真)

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