2021年07月15日号
次回8月2日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

眠り展:アートと生きること ゴヤ、ルーベンスから塩田千春まで

会期:2020/11/25~2021/02/23

東京国立近代美術館[東京都]

眠り? なにをいまさら寝ぼけたテーマをと思ったら、これは東近だけでなく、国立西洋美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館など国立美術館のコレクションを寄せ集めた合同展。なるほど、それで古今東西にまたがる(古と西は少ないけど)無難なテーマに落ち着いたわけか。長引くコロナ禍で気持ち眠ってる人も多いだろうし。

序章の「目を閉じて」は、ゴヤの版画集『ロス・カプリーチョス』より《睡魔が彼女たちを圧倒する》から始まる。以下、ルドンのまさに《目を閉じて》、ルーベンスの《眠る二人の子供》、藤田嗣治の《横たわる裸婦(夢)》など、文字通り目を閉じている人を描いた作品が並ぶ。ハッとしたのが河口龍夫の《DARK BOX 2009》で、目じゃなくて鉄の箱を閉じて、闇を封印しているのだ。第1章「夢かうつつか」の冒頭はゴヤの《理性の眠りは怪物を生む》。なるほど、ゴヤの版画が各章のあいさつ代わりか。次にルドンの版画集『ゴヤ讃』が来て、エルンストのフロッタージュやミショーのメスカリン素描など、シュールな「夢うつつ」の世界が展開。だが、水に浮いて水平線ギリギリに風景を撮った楢橋朝子の写真で、「なんでこれが眠り?」と立ち止まってしまう。答えは「half awake and half asleep in the water」というシリーズ名にあった。水にたゆたいながら夢うつつの状態で撮った写真なのだ。

こんな調子で2章、3章と進んでいくのだが、なぜだかほかのテーマ展では感じられない安心感がある。描かれた人物の多くが目をつむっているからだろうか。つまり作品から見られていない安心感? あるいは、「眠り」というどうでもいいようなテーマがもたらす油断があるかもしれない。よくも悪くも緊張感に欠け、のんびり見られるのだ。

そんな「ゆるい」展示のなかで、たまに覚醒させられるのは、なんでこれがここに? という疑惑の作品があるからだ。序章の河口、第1章の楢橋もそうだが、第3章の森村泰昌と第5章の河原温にも違和感があった。ま、河原は「I Got Up」シリーズがあるし、起きてから寝るまでを作品化した作家だからわからないでもないが、森村の《烈火の季節/なにものかへのレクイエム(MISHIMA)》は理解に苦しんだ。三島由紀夫による自決直前の演説を模写った映像だが、これは「眠り」じゃなくて「覚醒」だろ? ひょっとして、三島=森村が覚醒させようとしたのが「眠れる国民」ってことか? いささか強引だけど、ちょうど50年前の事件を呼び起こすので駆り出されたのかもしれない。こうしてノンレム睡眠とレム睡眠を繰り返しながら、なんとなく目覚めてしまう展覧会だった。

2020/11/24(火)(村田真)

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黄金町バザール2020─アーティストとコミュニティ

会期:2020/11/06~2020/11/29

京急線日ノ出町駅・⻩金町駅間の高架下スタジオ/周辺のスタジオ/地域商店/屋外空地ほか[神奈川県]

ヨコトリの会期に合わせたレジデンス・アーティストによる第1部は終わり、推薦と公募で選ばれた6カ国9組のアーティストによる第2部が始まった。海外アーティストの来日を待って時期を遅らせたものの、結局コロナが長引いて来日はかなわず、リモートによる制作・展示となった。そのせいもあるかもしれないが、全体に低調だった。

そんななかで輝いて見えたのが、インドネシアのアルフィア・ラッディニによる《Sailormoonah》というインスタレーション。ギャラリー中央に太い角柱を設け、四方からプロジェクターで四面にひとつの彫刻を映し出している。公園に一時設置された銀色の彫刻は、タイトルから察するにセーラームーンのキャラクターらしいが、スカートが長いうえヒジャブをつけたムスリム・バージョン。四角い台座にはインドネシア語で「この彫刻をどう思うか?」「好きか? 嫌いか?」「壊すべきか?」などの質問が書かれ、チョークで意見が書けるようになっている。セーラームーンもイスラム圏では長いスカートをはき、ヒジャブをつけなければいけないこと、そんなアニメのキャラが公共彫刻になっていること、それに対してどう思うかを問い、市民が答えていること。「アーティストとコミュニティ」のテーマに沿った示唆に富む作品だ。

2020/11/16(月)(村田真)

#16 VIVIDOR - 人生を謳歌する人

会期:2020/10/24~2020/11/15

アズマテイプロジェクト[神奈川県]

イセザキモールの片隅に建つ古びたビルの2階奥の1室で開かれた映像展。計2時間10分の長丁場だが、29組が1組5分以内にまとめた短編をつなげたオムニバスなので見に行った。最初の作品は、白人と黒人が向かい合い、中央に置かれた袋から白い粉(小麦粉?)をつかんでお互いに掛け合うという映像だが、粉が掛かる音は銃声だ。白人はより白く、黒人はすごく白くなり、最後は2人が正面を向いて終わり。Eross Istvanの《Dialogue》で、これを見て最後まで見る気になった。でもこうした比喩的な表現は少なかった。

自分と同じサイズの蛍光灯、マット、鉄の箱を床に並べて本人もその横に寝そべる倉重光則の《1974年の七つのパフォーマンス》は、4半世紀後のリメイクらしいが、いかにも70年代的なポストもの派の発想だ。自身の不幸な生い立ちを文章だけで読ませる辻郷晃司の《私とボクのカルテ》は、見ていてツラくなる。髪の薄い中年男性客の後頭部を画面に入れながら、回転寿司を撮り続けるダニエル・ゲティンの《Food Train》は秀逸だ。生茂るマロニエの木立をクローズアップして、葉陰からのぞく向こう側を歩く人を捉えたSoft-Concreteの《marronnier》は、音楽ともども癒された。

2020/11/15(日)(村田真)

石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか 

会期:2020/11/14~2021/02/14

東京都現代美術館[東京都]

企画展示棟の2フロアを使った大規模な回顧展。「血が、汗が、涙が」というタイトルを聞くと、根性ものかと勘違いしそうだが、ま、確かに根性が入っていることは間違いないが、中身は洗練されたデザイン展だ。

石岡瑛子のイメージは世代によって異なるかもしれない。ぼくはまず、前田美波里を起用した資生堂のサマー・キャンペーンに触れ、「裸を見るな。裸になれ。」「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」などのコピーで知られるパルコや、本を雑に扱うので嫌いになった角川文庫のポスターが記憶に残る。あとはせいぜいレニ・リーフェンシュタールの『ヌバ』や、コッポラ監督の『地獄の黙示録』のポスターを知ってるくらいで、これらはすべて60年代末から80年代までの活動。この展覧会でいえば、3部構成のうちほぼ第1部に収まってしまう。展示面積でいうと全体の5分の1にも満たない。

その後のことはほとんど知らず、すっかり過去の人だと思っていた。でも2部、3部を見ると、マイルス・デイヴィスのアルバム・パッケージ、グレイス・ジョーンズのコンサート、ビョークのミュージック・ヴィデオ、オペラの『ニーベルングの指環』の衣装デザイン、北京オリンピックの開会式、シルク・ドゥ・ソレイユのサーカス、映画『白雪姫と鏡の女王』など、質的にも量的にもとんでもない仕事をしている。ただ海外での活躍が多かったし、ポスターやテレビCMのようなマスメディアではないし、アートディレクションという裏方の仕事なのであまり目立つことはなかった。というより、ぼくが疎いだけだったのかもしれない。

後半は衣装デザインが多いが、その特徴は非時代的で無国籍的。あえていえば、古代ギリシャ風にも見えるし、アジアの民族衣装にも見えるし、キモノにも見える。その意味では、日本人によるネオジャポニスムといえなくもない。『スター・ウォーズ』に出てくるアミダラ姫などの衣装やメイクも、石岡デザインを参照したんだろうか。その影響力は想像以上に大きかったのかもしれない。

2020/11/13(金)(村田真)

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佐賀町エキジビット・スペース 1983–2000 ─現代美術の定点観測─

会期:2020/09/12~2020/12/13

群馬県立近代美術館[群馬県]

美術館でオルタナティブ・スペースの展覧会が開かれるのは珍しい。そもそも日本ではオルタナティブ・スペース自体が少なかったし、また、オルタナティブ・スペースという存在が、権威主義的な美術館や商業主義的なギャラリーを否定するところから始まったものだからだ。でもじつは、権威主義的な美術館や商業主義的なギャラリーというのは欧米の話であって、日本の美術館にはよくも悪くも権威はないし、ボロ儲けしているギャラリーもなかった。そのうえ日本には貸し画廊という独自の制度があり、とりあえず美術家の登竜門として機能していた。ま、そんなわけで、日本にはオルタナティブ・スペースが育たなかったのだ。

とはいえ、皆無だったわけではない。1980年ごろからそれらしきスペースが倉庫の集中する湾岸周辺に出現する。LUFT、🌀(クルクル)、ほかにもあったような。でも「ベイエリアのロフト」とファッショナブルに消費され、あるいは再開発で取り壊され、一時的な現象に終わってしまう。ただひとつ残ったのが、佐賀町エキジビット・スペースだった。隅田川近くに1927年に建てられた食糧ビルの講堂を改装した「展示空間(エキジビット・スペース)」で、広々した空間と高い天井、そしてアーチ型の窓とプロセニアムが特徴的だった。ここが1983年から17年間続いた理由は、なにより明確なヴィジョンと実行力を持った小池一子さんが主宰していたからだ。

彼女はここを、いままさに才能を発揮しつつある新進作家(エマージング・アーティスト)の発表の場にしようと奔走。ここで発表したエマージング・アーティストは、野又穫、剣持和夫、吉澤美香、大竹伸朗、森村泰昌、堂本右美、内藤礼、日高理恵子ら枚挙にいとまがない。佐賀町に対する評価はこうしたエマージング・アーティストに偏りがちだが、それだけではなかった。横尾忠則やキーファーといった大御所の個展もやったし、ファッションや建築、デザインなどジャンルも多彩だったし、フェミニズムやLGBT関連の企画展も開いた。先鋭的というより、むしろ玉石混交、清濁併せ呑む多様性こそ佐賀町の魅力だったと思う。「現代美術」の狭い枠からはみ出すこうした多彩な活動は、ファッションやデザイン界で仕事をしていた小池さんの顔の広さを物語ると同時に、彼女自身がアソシエイト・キュレーターを務めていた西武美術館とも通じるものがある。

展示は、計106回に及んだ展覧会の全記録写真と、当時の作品を中心とする25作家による41点の出品。巨大でクセのある空間が特徴だっただけに、当時は剣持和夫や内藤礼のような展示空間全体を使ったインスタレーションが話題になったが、その場限りで解体されて見ることができない。せめて「展示空間」の一部でも再現してほしかったが、地方の公立美術館では難しいのか。そういえば、なんで群馬でやるんだろう?

2020/11/11(水)(村田真)

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