2020年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

ハマスホイとデンマーク絵画

会期:2020/01/21/~2020/03/26

東京都美術館[東京都]

10年ほど前に日本に初紹介されたハンマースホイが、名前を短縮して再登場。書き手としては2字も省略できて経済的だが、なんとなく北欧的な重厚さが薄まって間が抜けた感じがしないでもない。ハマスホイ。そういえば前回はまったく無名だったため「北欧のフェルメール」などと宣伝されたが、今回は多少知られてきたせいか、オランダ絵画の黄金時代の巨匠の名を借りることもなく(と思って探したら、チラシの裏に小さく「北欧のフェルメール」と書いてあった)、デンマークの先輩画家たちとの抱き合わせで展覧会は成り立ったようだ。

でもこの時代を「デンマーク絵画の黄金期」と呼んだりするのは、やっぱりフェルメールの生きた17世紀オランダになぞらえたいからだろう。実際、19世紀後半のデンマーク絵画は、同時代の印象派などより17世紀オランダの風景画や風俗画に近いところがある。どちらもヨーロッパの北に位置し、海に面しているせいか殺風景だし、気候的にも家にこもりがちで、おのずと室内画が多くなったようだ。

展示は「日常礼賛─デンマーク絵画の黄金期」「スケーイン派と北欧の光」「19世紀末のデンマーク絵画─国際化と室内画の隆盛」、そして「ヴィルヘルム・ハマスホイ─首都の静寂の中で」の4部構成。まず、ハマスホイ以外で気になった作品を挙げると、ミケール・アンガの《ボートを漕ぎ出す漁師たち》と、オスカル・ビュルクの《スケーインの海に漕ぎ出すボート》がある。この2点は制作年こそ3年違うが、ほぼ同じ主題を描いており、とりわけ驚くのは、両作品とも左側で正面を見つめる漁師が、顔も体格もポーズも服装もほとんど同じであることだ。これは偶然だろうか、それともプロのモデルを雇ったのだろうか。

クレスチャン・モアイェ=ピーダスンの《花咲く桃の木、アルル》にも驚いた。どこか見覚えのある絵だなと思ったら、ゴッホの《桃の木(マウフェの思い出に)》とよく似ているのだ。解説によると、ピーダスンは南仏アルルでゴッホと親交を結び、ゴッホが制作した位置から数メートル離れた場所でこれを描いたらしい。ちなみに、ピーダスンはゴッホについて「私は最初、彼は頭がいかれているのだと思いましたが、しだいに彼の考えにも体系があることがわかってきました」と述べ、ゴッホはピーダスンのことを「もともと彼には厄介な事情があって、そのせいで仕事も変え、神経症にもなったのでそれを治療するために南仏に来ていた」と記している。お互い「いかれたヤツ」と思っていたらしい。

もう1点、ユーリウス・ポウルスンの《夕暮れ》も瞠目に値する。夕暮れを背景にした2本の木を描いた絵だが、完全にアウトフォーカスで捉えているのだ。こうしたアウトフォーカス気味の描写はある程度ハマスホイにも受け継がれており、この時代のデンマーク絵画の特徴ともいえるが、これほど焦点の合わないピンボケ絵画は見たことがない。ついでにもうひとつ、ハマスホイも含めてなぜか後ろ姿を描いた絵が多いのも気にかかる。ざっと数えると、斜め後ろも含めて13点あった。そういえばノルウェーの画家ムンクにも後ろ姿の絵が多かったような気がする。これは北欧絵画の特徴か。

ようやくハマスホイに行きついたぞ。ハマスホイの作品で注目したいのは、レリーフの模写が2点あり、どちらも正面から描いていること。絵画を模写するとき斜めから描くバカはいないが、レリーフを模写するなら、立体感を出すために斜めの角度から描写してもおかしくない。でもハマスホイは正面から捉えることで平面性を意識させる。室内風景を描くときも同じく、壁に対して斜めではなく直角に視線を投げかける。だから壁と天井、壁と床の境界線は水平に引かれ、柱または壁の垂直線と直角をなす。この水平線と垂直線の織りなす幾何学的構成により画面の矩形性が強調されるが、これこそハマスホイとフェルメールの画面に共通する絵画の特性にほかならない。

2020/02/15(土)(村田真)

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掃部山銅像建立110年 井伊直弼と横浜

会期:2020/02/08~2020/03/22

神奈川県立歴史博物館[神奈川県]

横浜の掃部山に建つ井伊直弼の銅像建立110年を記念する特別展。彦根藩主で幕末の江戸幕府に仕えた井伊大老の銅像が、なぜ横浜に建っているのか? なぜそれを歴史博物館で紹介するのか? この展覧会を見ればわかる。

そもそも掃部山を「かもんやま」と読める人は、井伊直弼ファンか、掃部山周辺の住人くらいではないか。この名称は井伊掃部頭直弼の官位「かもんのかみ」に由来する。つまり、掃部山という名の小高い丘に銅像が建ったのではなく、井伊直弼の銅像が建ったから掃部山と呼ばれるようになったのだ。それ以前は不動山、明治以降は近くに最初の鉄道が通ったため鉄道山とも呼ばれていたという。

ここで井伊直弼の略歴を振り返ってみると、近江彦根藩主の家に生まれ、幕末に江戸に召還されて幕府の大老となり、日米修好通商条約を結んで日本の開国に尽力する。これが横浜港を見下ろす丘の上に銅像が建った理由のひとつだ。しかし強権をもって反対勢力を粛清(安政の大獄)したため恨みを買い、万延元(1860)年、襲われ刺殺される(桜田門外の変)。

明治になって直弼の銅像を建てようと動いたのは旧彦根藩士たちで、その中心人物が横浜正金銀行の頭取を務めた相馬永胤だった。相馬は横浜裁判所の判事を務めたこともあり、横浜との縁は深かった。最初は上野の山に建設しようとしたが許可が下りず、次に横浜の不動山に建設を申請し、こちらは許可が下りたものの「藩閥政府の圧迫」により計画は頓挫してしまう。大仕事をなしとげた為政者は敵も多いため、モニュメントを建てるのは容易なことではない。

しかし相馬はあきらめず、20年以上たってから再び奔走し、ようやく横浜開港50年に当たる1909年に完成を見た。銅像を制作したのは藤田文蔵で、工部美術学校で彫刻を学び、東京美術学校の教授を務め、女子美を創立した彫刻家だ。また、台座を設計したのは妻木頼黄。相馬が頭取を務めた横浜正金銀行本店の設計者でもある。そしてこの銀行の建物が現在、神奈川県立歴史博物館として使われているのだ。なぜ井伊直弼像が横浜に建ち、なぜ歴史博物館で紹介されるのか、すべてはつながっているのだ。

像はその後、関東大震災で倒壊は免れたものの台座ごと回転。第2次大戦中は金属回収により撤去され、戦後の1954年、開国100年に合わせて再建された。展覧会ではこうした銅像建立の経緯を示す資料をはじめ、像のマケット、茶人でもあった直弼の書画や茶器、相馬の日記、藤田の作品、震災によってズレた台座の写真、銅像の絵葉書、開国百年記念の手ぬぐい、銅像がデザインされた崎陽軒の弁当の包装紙にいたるまで集めている。はっきりいって展示だけ見てもおもしろいものではないが、日本の近代化の過程で銅像建立がどんな意味を持っていたのかを知ることは、一見なんのつながりもなさそうな現在のパブリックアートを考える上でも無駄なことではないだろう。

2020/02/11(火)(村田真)

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白髪一雄

会期:2020/01/11~2020/03/22

東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]

足で描いた絵(フット・ペインティング)ばっかり見せられるのもツライなあ、でも商売柄いちおう見とこう程度の気分で見たら、意外とおもしろかった。どこがおもしろかったかというと、やっぱり足で描いた絵が大半を占めるため(それ以外の作品もある)、ワンパターンに陥らないようにいろいろ工夫した跡が見て取れることだ。

1924年生まれの白髪の画家としての出発点は、戦後まもない時期。最初はシュルレアリスム風に始まり、ほどなく抽象絵画に移行し、スキージやナイフによる偶然の効果を採り入れた表現主義に行きつく。1955年に具体美術協会に参加するころ、偶然の効果を強調するため足で描くスタイルを編み出す。これは前衛集団の具体のなかでも強烈なインパクトを残した。たぶん、あまりにバカバカしくてだれも試みなかっただろうし、だれも真似しなかっただろう。以後、白髪といえばフット・ペインティングというくらいトレードマークになっていく。

しかしトレードマークを確立するのはいいが、それを何年も続けていくと次第にマンネリ化し、飽きられてしまうのも事実。白髪はこれを10年ほど続けるが、その間、色合いを変えたり、足の動きを制御してみたり、キャンバスでなく毛皮に描いてみたり、いろいろ試したようだ。それでも60年代なかばにはフット・ペインティングをいったん封印し、スキージを使って円弧を描くように作画した作品を発表。だが、具体が解散する1972年ごろからこれにも限界を感じ始め、70年代末には再び足で描くようになり、晩年まで続けていく。出品作品を年代別に見ると、40年代が2点、50年代が20点、60年代が19点、70年代が11点、80年代以降が7点で、重要作品が初期の50-60年代に集中していることがわかる。

作品そのものに注目すると、フット・ペインティングはたしかに個性的でダイナミックだが、絵としてはキャンバス地に絵具を伸ばしただけ、いいかえれば地の上に図を載せただけともいえる。それに対して後のスキージを使った作品は、見た目のインパクトでは劣るものの、地塗りを施した上に絵具を載せ、ときに地の色と混じり合って地と図が浸透し合い、絵画空間としてはより複層的に見える。それでもフット・ペインティングに回帰したのは、いったん定着した白髪イコール「足で描く人」のトレードマークを捨てきれなかったからだろうか。まあフット・ペインティングが売れ始めたから、という理由もあったかもしれないが、画家としてはどうなんだろうと考えてしまった。

2020/02/04(火)(村田真)

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太陽の塔

太陽の塔[大阪府]

大阪日帰りの旅。あべのハルカスの「カラヴァッジョ展」が目的だが、ついでに(というには反対方向にある)太陽の塔を見に行ったら、予約なしでも内部を見られるというので入ってみた。万博が開かれた当時、関西に住んでいたので3回も足を運んだけど、ものすごく混んでて塔のなかには入れなかったからな。これはラッキー!

いまでこそ太陽の塔は広大な万博記念公園にポツンとぼっちしているが、当時はお祭り広場を覆う丹下健三設計の大屋根をぶち抜くようにオッ建っていた。それだけでなく、広場の地下展示場からエスカレーターで塔内を昇り、大屋根に抜ける「テーマ館」の展示施設および通路の役割も担っていたのだ。内部には高さ41メートルの「生命の樹」がそびえ、アメーバから人類まで進化の過程をエスカレーターに乗りながら見る仕掛けだったという。万博終了後はほかのパビリオンと同じくこの塔も撤去される予定だったが、なぜか塔だけが残され、以後半世紀近く放置されていた。

それが公開に向けて動き出すのは比較的最近のこと。2016年から塔の耐震補強工事と展示物の再生工事が行なわれ、2018年から予約制の一般公開が始まった。塔の裏から入り、「地底の太陽」(オリジナルは行方不明のため復元された)を拝んで塔の内部へ入場。エスカレーターは取り払われているので、階段を上りながら生命の樹に貼り付いている生物を進化順に見ていく。なんとなく半世紀前の時代を感じさせるのは、全体の色彩や照明がサイケ調で、アメーバや太陽虫や原始的な魚類の姿がウルトラマンに出てきそうな怪獣っぽくて、ティラノザウルスに似たトラコドン(カモノハシ恐竜)がゴジラみたいに立ち姿だからだ。あの時代、円谷プロの影響が相当なものだったことがうかがえる。

生命の樹のてっぺんはチンパンジーからネアンデルタール人を経て、腰蓑姿のクロマニヨン人(これも時代を感じさせる)で終わっていて、現代人は展示されていない。たぶんこれを見に来た観客本人が「現代人」ということだろう。大屋根に続いていた腕(羽根? ひれ?)の部分のエスカレーターも取り除かれ、鉄骨構造がむき出しになっている。帰りは裏口から狭い階段を下りるだけで素っ気ない。いやーそれにしても「カラヴァッジョ展」よりおもしろかったなあ。比べるもんでもないけど。



[筆者撮影]


2020/01/31(金)(村田真)

香港の不自由展

会期:2020/01/27~2021/02/15

ギャラリーQ[東京都]

昨年、世界を騒がせた香港の民主化デモも、今年に入って新型コロナウイルス騒動でめっきり報道されなくなってしまったが、別に終息したわけではない。最近は、感染拡大を招いた中国政府を批判する学者たちが当局によって拘束されているが、それに対する抗議デモが起こっているという。しかしデモに加わってスクラムでも組もうものなら、すぐに感染しちゃいそうだ。そうか、新型ウイルスは香港のデモを鎮静化するために当局が開発した生物兵器だったのかもしれない。ウソです。

ギャラリーQでは、香港のデモの経過を時系列に沿って紹介しつつ、デモ参加者による絵画、彫刻、ポスターなどを展示している。目玉は、ヘルメットを被り、ガスマスクをつけた民主主義を象徴する頭像。白ヘルを被って出てきたノリのいいギャラリーオーナー、上田雄三氏によると、これは香港の学生たちが制作し、山の上まで運んで据えつけたものの、当局によってすぐに破壊された全身像の頭部だそうだ。その一部始終を映像でも見せている。ほかにもドラクロワやマグリットのパロディなど、複製ながら興味深い「革命画」が並んでいる。



[筆者撮影]


2020/01/30(木)(村田真)

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