artscapeレビュー

捩子ぴじん『Urban Folk Entertainment』

2015年07月01日号

会期:2015/06/25~2015/06/27

横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール[神奈川県]

捩子ぴじんの新作公演を見た。「ぽっかり」とした舞台と10人ほどの演者たち。そこはかとない空虚感。演者たちのほかに登場するのは「水」。天井から吊り上げられた蛇口から水は滴り落ち、ポリバケツに収められる。水入りペットボトルを演者たちは仰向けで額に置き、起き上がろうとしては、床に落とす。遠くでは祭りの音が聞こえている。祭りの輪の外、そのさらにはずれの出来事。水道メーターが床に浮き上がるかたちで置かれているので、舞台の「高さ」はコンクリートやアスファルトをめくり、土を少し掘り出した位置であるようだ。ならば、この演者たちは地の霊? ぽっかりとした集団は同じ動作をともに行ない、ときにそれがポストモダン・ダンスのような「タスク」の遂行のようにも映り、また、『牧神の午後への前奏曲』をバックに、みなが方々であくびを繰り返しつつ前進するところには、捩子ぴじんがかつて所属していた大駱駝艦の舞台を連想させる集団性があった。ぼくはここに、バレエともモダンダンスとも異なる、ポストモダン・ダンスや舞踏に近いがそれとも一致しない、新しいダンスの萌芽を見た。祭りの一体性からはずれたところで起きる、もうひとつのダンス。それは目下のところ水のモチーフに引きつけるなら「無味の味」のダンスだ。甘くも苦くも辛くもない。そうしたわかりやすい味でひとを引きつけたり、引きはがしたりするようなことは、このダンスはしない。その点で、支配にも排除にも加担しない、正しいところがある。けれども、「無味の味」には味がない。「いや、ある!」と好事家を気取って言うこともできよう。でも、その味は、甘さや苦さや辛さで麻痺した人たちを、「やっぱり、こっちが美味しい!」と魅了するほどの力は、まだない。本公演はコンテンポラリー・ダンスの「ゼロ地点」を指差した舞台だったともいえるだろう。かつてBONUSサイト上で行なった座談会で、捩子は自分の制作姿勢を「ニッチ」と呼んでいた。さまざまな方法が群雄割拠するなか、それらの方法の盲点に、自分のするべき仕事が隠されているのではないか、そんな話だった。「ニッチ」を選択するのは「反ダンス」の態度でもあるだろうが、未知のダンスを発見する冒険でもあるはず。反ダンスでありダンスであるダンス。それを目指す地平に、かつてレイナーも土方巽も立ったはず。捩子ぴじんがその地平にまずは立ったというのが本公演だとしたら、さて、どうやってそれでもダンスを踊ろうか?(あるいはなぜそれでもダンスなのか?)という問いが次の公演で掲げられることになるのでは、そうであると期待をかけたい。

2015/06/26(金)(木村覚)

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