artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

大橋可也&ダンサーズ『グラン・ヴァカンス』

会期:2013/07/05~2013/07/07

シアタートラム[東京都]

上演直前、席おきのパンフレットを目にして、上演時間が「2時間半」とあり、驚愕した。ピナ・バウシュならば休憩込みでそんな尺の作品もあったかもしれないが、日本のダンス作家の作品としてはほとんど前代未聞。「どうなることか」と始まる前は不安もあったし、正直、前半はなくてもいいのではないかとも思ったものの、後半はまるでインド映画でも見ているときのような「ハイ」な状態が訪れ、終幕のころには「まだ30分くらいは全然見ていられる」なんて気持ちになってしまった。日本のダンスのなかでは珍しく原作のある作品だった(ちなみに、大橋の師・和栗由紀夫には美学者・谷川渥の著作をベースにした作品がある)が、SF小説を忠実にダンス化したというよりは、原作とつかず離れずの距離を取り、彼のキャリアの集大成的な作品に新味な彩りを施す手段として、大橋は原作を大胆に利用しているようだった。その点で、飛浩隆ファンにとってはわかりにくい公演になっていたかも知れない。けれども、大橋はそうした大橋作品未体験者を彼独自の舞踏世界へとまんまと誘拐しえたわけで、実際、長丁場の舞台に、客席はうとうとする者は少なく、観客が終始高いテンションを保っていたのは印象的だ。振付の方向としては、2011年の『驚愕と花びら』を思い起こさせる。この作品では、見なれないダンサーたちが舞台を埋めていた。彼らは当時大橋が行なったダンスワークショップに参加した若者たちだった。今作『グラン・ヴァカンス』でも、古参のダンサーたちによって重要場面が引き締められていたとはいえ、多くの時間で、彼らを中心とした新参のダンサーたちの存在が目立っていた。前半は、若い男性ダンサーたちのまだ出来上がっていない気がする身体に戸惑った。それとは対照的に、後半、若い女性ダンサーたちの訓練の跡を感じさせる身体は美しく、見応えがあった。いや、でも、そうしたばらつきのあるダンサーたちが、かたまりとして、醜さも示しつつ美しくまとまってゆくところに大橋の狙いはあったのだろう。そうした傾向は、大橋が「タスク」というよりも「振付」をより積極的に志向しはじめた『驚愕と花びら』に顕著だった。正直に言えば、ぼくは『ブラック・スワン』の頃の大橋が好きだ。緻密で繊細な動作に、見ている自分の記憶があれこれと呼び覚まされてしまう。そうした独特の感覚は今作ではあまり強調されていなかった。先述したことだが、今作でわかりにくかったのは、なにより原作とダンスとの関連性だった。原作があることで大橋が自由になれた部分と、原作があることで原作と今作との関係を問われてしまう部分とが出てくる。前者の効果は非常に大きかったと思う反面、後者に関して、原作を読み込んではいない筆者のような人間には、戸惑う面があった(あるいは小説のファンで大橋作品をはじめて見る観客にも、似たような戸惑いがあったと想像する)。提案なのだが、もっとわかりやすい原作に挑戦してみてはどうだろう。例えば、いま人気の押見修造『悪の華』はどうだろうか。あるいはいっそのこと『くるみ割り人形』でもいいかも知れない。その場合には、今度はバレエ愛好者たちが興味を抱かされることだろう。そう、今回の大橋の試みでもっとも評価すべきは、摩訶不思議なダンス公演というものの前で逡巡する潜在的な観客に、入りやすい「入口」をこしらえるやり方を示したことだ。宝塚歌劇団では、テレビゲームを原作とする作品を上演していると聞く。そうした「あざとさ」を一種の誘惑の戦略としてどう活用できるのかは、ダンスをどうポップなものにするのかという点のみならず、ダンスをどう刷新していくのかという点にも繋がっているはずだ。

「グラン・ヴァカンス」トレーラー

2013/07/06(土)(木村覚)

田中美沙子『闇とルシフェリン』

会期:2013/07/05~2013/07/06

せんがわ劇場[東京都]

久しぶりに新しい才能に出会えたとわくわくした。上演時間の60分を飽きさせない知的な工夫が随所に施されていたからだろう。田中美沙子は、黒田育世が主宰するBATIKに所属するダンサー。確かに「女性性」の表現に黒田のセンスに通底するものを感じるのだけれど、そうした印象をはみ出す力強い可能性を見た気がしたのだ。舞台にはシングルサイズのベッドと黒い下着姿の女(田中)が1人。女は口に、トナカイの角に似た木の枝(先端には小さな電灯が飾られてもいる)をくわえている。なんとも滑稽で奇妙なジョイント。なぜ女がへんてこなオブジェをくわえる運命を生きることになったのか、それはわからない。わからないが無理やり繋がっている二つの存在に目が釘付けになる。田中の体からは、バレエのエッセンスを感じさせる動作が時折あらわれる。けれど、アンコウの体の一部のようでもありまたペニスのようでもある銀色の枝が、その美しさを打ち消してしまう。次に、ベッドが壁のように立てられると、女は闇から残骸らしきものを拾いはじめた。残骸のなかに、明らかにしゃれこうべとわかるパーツがあらわれる。おかしなポーズのおまじない(?)とともに、それらをベッドの向こうへ放り投げる。しばらくすると、今度は完全な形のしゃれこうべを手に田中が姿をあらわした。時間の逆行?魔法?なんだかよくわからないが、枝といいベッドといいこのしゃれこうべといい、ソロのダンスにこうしたアイテムがとても効果的に舞台に置かれているのは間違いない。オブジェが踊る身体を引き立てるだけの役割ではなく、むしろ身体と対等に並び、拮抗しているのがよいのだ。全体として音楽の選択もとても気が利いていた。印象的な音楽が流れるたびに、イメージが切り替わり、その都度、場が面白くなった。けれども、音楽が前に立ちすぎて、音楽に頼りすぎているように見えてしまうのは残念だ。音楽と拮抗し、ときに音楽を裏切り、あるいは音楽不在のダンスであっていい。正直、フライヤーに書かれていた作品についての田中本人の文章と、作品を見たぼくの印象とはあまり接点がない。そういう意味で、ぼくの誤解もあるのかも知れない。けれども、それにしても、風変わりで力強い作品を見ることができた楽しさは否定しようがない。

2013/07/06(土)(木村覚)

大橋可也&ダンサーズ『グラン・ヴァカンス』

会期:2013/07/05~2013/07/07

シアタートラム[東京都]

今月の一推しは、大橋可也&ダンサーズ『グラン・ヴァカンス』(2013年7月5日~7日、シアタートラム)。大橋は、舞踏にルーツをもつ振付家だが、つねに新鮮なアイディアで挑戦し続けてきた野心的な作家だ。今回はSF小説家の飛浩隆作『グラン・ヴァカンス──廃園の天使〈1〉』を原作に、さらに新しい境地に挑む。大橋のダンスの魅力は、ダンサーたちのゾンビ性にある。とくに最近の恵比寿NADiffでの上演は印象的だった。書店の空間に客に混じって徘徊しているダンサーたちが、ある時間になると激しく踊り出す。薄い生地のワンピースに身を纏った女性ダンサーたちは、日常に溶け込みつつも、明らかに常軌を逸した、不安を掻き立てる無表情で踊り、男たちもどこにでもいそうな佇まいでありながら、生々しい暴力性を湛えていた。暗黒舞踏は、エログロナンセンスの60年代らしく、当時、異形として際立った身体を踊らせることをしたわけだが、大橋はそうした歴史的意匠から自由に、現代にふさわしい異形を模索してきた。今作でも、そうした大橋の長年のトライアルが威力を発揮することだろう。大橋のこれまでの活動の集大成となる作品に違いない。必見です。

「グラン・ヴァカンス」トレーラー

2013/06/30(日)(木村覚)

岡崎藝術座『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』

会期:2013/06/14~2013/06/23

北品川フリースペース楽間[東京都]

岡崎藝術座の芝居のほとんどを占めているモノローグは、とても攻撃的に観客に迫ってくる。この攻撃性については、作・演出の神里雄大のパーソナリティに由来するものかあるいは彼の社会的境遇に由来するものかなんて考えさせられることが多く、これまでの場合、攻撃性に思いを馳せるとき、作者本人の怒りや不安にその原因を求めがちだった。しかし、本作はすさまじい攻撃性を感じさせられるものの、その根底にあるのは個というよりもっと普遍的なものであると強く思わされた。観客に人間というものへと反省を向けさせる、ここにこの作品が傑作である理由がある。少女誘拐監禁という話題と刑事ポワロとその友人ヘイスティングズが関わる殺人事件の話が併存し進む。これら基本要素のなかで、5人の役者たちの演じる10人近い人間たちの思いが、憎悪や偏見、軽蔑やおせっかいなどを噴出させ、終始舞台は混沌としている。噴出する人間たちの思いを混ぜっ返してさらに複雑にしているのは、ダンスというべきか否か、役者たちの不思議な動作だ。口から漏れ出すセリフを冷やかし、ふざけて手にしては弄んでいるみたいに見える諸々の動作は、ただでさえ照明の暗い舞台を一層暗くさせる。見ていて、ずっと嫌な気持ちになっていた。いやがらせ?と思わされる感じは、相変わらずの岡崎藝術座。けれども、このダンスにも似た動作が部分的な統率を生み出して、舞台全体はいままでにないような独特で濃密な密度を保って進んでゆく。この全体の完成度が人間を語るという次元を成立させているのかもしれない。


『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』ダイジェスト

2013/06/22(土)(木村覚)

小松亨『シスターモルフィン』

会期:2013/06/21

森下スタジオ[東京都]

世界を横断しながら活動を続ける(結果、日本での活動は控え目なのがもったいない)舞踏家・室伏鴻の作・演出・振付による作品。とはいえ、土方巽の晩年に薫陶を受けたという小松亨の身体所作には、その時期の土方独特の〈徴〉が強く刻まれており、まるで小松の身体の上で室伏と土方がつばぜり合いをしているかのように見えた。いや、もう少し冷静に読みとるべきかもしれない。土方仕込みの身体で自分の踊りたい欲求を舞台に発露する小松に、室伏のアイディアが衝突し、小さな摩擦を残してすれ違った、そんなところか。冒頭、白い布を被った小松がゆっくりとしゃがんだ姿勢から立ってゆく。布の奥で瞳が被虐性をほのめかす。立った姿勢で首を微妙に傾けると、ベーコンの自画像のように布のヒダが顔を歪める。そこに被虐の感触は一層際立ってくる。次のシークェンスでは、口から真珠がこぼれる/真珠をこぼす。全部で100粒ほどが、ぽろぽろとこぼれ、床に散らばる。布も真珠も室伏の作品にふさわしいアイテムなのだが、室伏が自分のソロ作品で用いるならば出てくるニュアンスとは微妙に違う。室伏が用いるとき、諸アイテムは自分とは別の生命をもったもののように単独性を帯びているのだが、小松はまるで自分の延長のように用いるのだ。小松のダンスからは、ナルシシズムが濃密に感じられる。それがピークに達したのは、中盤の5分ほど、ひたすら絶叫しながら、壁に激突したり、非常時用の階段を上り下りしたり、床を蹴ったりした場面だった。小松のなかの怒りのような不安のような思いが溢れた。しかし、ただ溢れてゆくだけだ。溢れたことを外から見つめる視点が舞台のなかにない。だから、溢れたものを観客はそのまま受け取らざるをえない。そのぶん、観客に強く依存する意識が目立ってくる。ダンス公演の帰り道などによく思うことなのだけれど、ダンスを見るとは、煎じ詰めると、所作の完成度などを云々することよりも、所作から透けて見える踊り手の意識を見ることなのだ、おそらく。終盤、四つん這いの獣の佇まいでゆっくりと舞台の縁を回り、最後はほぼ全裸の状態で小松はゆっくりゆっくり横回りした。50歳を過ぎた女性の体が表に裏になる、それがエロティックに映る。「見て!」と言わんばかりの所作は、その所作へ向けた小松の解釈がはっきりとこちらに伝わらないぶん、ただただ生々しい。自分を露出したいというダンサーの願望と、振付家の意図とがきちんとした対話を経る手前で、上演の日を迎えてしまった、そんな気がした。「出会い損ね」という出来事それ自体は面白いとも思えるものなのだが。

2013/06/21(金)(木村覚)