2021年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

『吾妻橋ダンスクロッシングファイナル!』

会期:2013/08/17

アサヒ・アートスクエア[東京都]

タイトルに「ファイナル」とついた吾妻橋ダンスクロッシング(以下「吾妻橋」)が上演された。前半と後半(「コンピレーション・アルバム」の体裁を模した吾妻橋らしく「DISK 1」「DISK 2」と呼称)でトータル約7時間(!)。とはいえ、18組のパフォーマンスとChim↑Pomによるインスタレーションは、ほぼ10年続いた吾妻橋を総括するというよりも、いまの旬のパフォーマンスをキュレーターの桜井圭介による独特のセレクションで集めており、その意味で相変わらずの吾妻橋だった。桜井は、これまでの10年をまとめ、今後の10年を予感させるつもりで選んだと筆者に話してくれたが、なるほどKATHY、黒田育世、身体表現サークルというチョイスは、「The Very Best of AZUMABASHI」★1が上演された2007年頃を思い起こさせて、懐かしさを感じさせるものだったし、ただそうした観客側の懐古的な思いを打ち消すように、ロロ、ピグマリオン効果、hyslom(ヒスロム)、ダンシーズ(皆木正純+山田歩+唐鎌将仁)のような新しいラインナップも加わわっていた。
今回の吾妻橋にぼくが見た特徴は二つ。
ひとつは、身体という存在の不確かさ・不安を訴えているような作品が目立ったこと。DISK 1のトップバッター、音楽家の安野太郎は、4本のリコーダーをPCの制御のコンプレッサーが奏でるという実演を行なった(タイトルは「ゾンビ音楽」)。空気圧で鳴る音色の非人間的な感触は、パフォーマンスにおいて人間の肉体が不在であることの無気味さを強く印象づけた。ほかにも、かつて大分で遭遇した心霊体験を語り、その際撮影した写真を紹介した捩子ぴじんの上演は、目の前に存在しない(いや、存在するかどうか不確かな)霊的な存在をめぐってのものだった。KATHYは美術家の水野健一郎とともに、普段ぼくたちが知覚せずにいる次元に迫り、見えないものを観客に感知させるパフォーマンスを行なった(タイトルは「確かにみえている」)。ルックスからしてそうであるが、かねてから踊る身体の存在の不確かさ、曖昧さについて自覚的であったKATHYのさらに一歩超常現象へと進んだ表現を見た後では、快快の山崎皓司によるパフォーマンスもいつも以上に、存在の不安に迫っているように見えてしまう。山崎はユニクロとダイソーを愛する中年女性に扮した。自分を見過ごす社会への不満が演じる山崎自身の抱く役者生活への不安と重なる。余剰的存在として役者を提示することは快快の舞台に時折盛り込まれるものだ。昨今の、三次元よりも二次元、現実よりもヴァーチャルを志向する社会の傾向にあって、パフォーマンスする身体の価値はそれほど自明ではなくなっている。そうした状況が滲んで見えたのが、今回の吾妻橋に目立った特徴だった。
もうひとつは、冷笑的な傾向だ。ダンシーズの男3人が野良犬のようにうろうろする舞台、そこに尾崎豊のライブ語りを流したのだが、尾崎の真っ直ぐさを冷やかしているように見えたし、DISK 2のラストで有志の観客100人を斬り続けた悪魔のしるしの危口統之は、観客を愚かな死体と化してその状況を高みから笑っているように見えた。ひたすらくだらないだしゃれを口にし、まとまらない状態を演出したライン京急も、とくに今回は、くだらないことをあえて強調している気がした。舞台を、ダンスや演劇を、あるいは観客を嗤う批評性は、どうしても笑う者の優位と笑われる対象の劣位が際立ってしまい、破壊のダイナミズムに乏しい。その意味では、最近の吾妻橋に頻繁に出演していた遠藤一郎の不在が寂しかった。彼の度はずれた真っ直ぐさこそ、優劣を超えた場を引き出す力となるのではないか。それは吾妻橋が示す倫理的態度でさえあった、そう思っていたから。

★1──木村覚「アメーバ化したぞ『吾妻橋』」(吾妻橋ダンスクロッシング「The Very Best of AZUMABASHI」レビュー、ワンダーランド、2007)

2013/08/17(土)(木村覚)

鈴木ユキオ+金魚『Waltz』

会期:2013/08/08~2013/08/10

シアタートラム[東京都]

鈴木ユキオのダンスを観ると、「彫刻」の文字が頭に浮かぶ。時間芸術のダンスとは異なり、彫刻はもっぱら空間芸術。だけれど、鈴木のダンスはまるで彫刻のように造形的精神に溢れていて、時間(身体の動き)をとおして造形物を拵えているかのように見えるのだ。だとすると問題になるのは彫刻の自律的性格だ。彫刻に見えるというのは、それぞれのダンサーがそれ自体の質をきちんと保持し、各自が単体で高まっている状態を目指しているということだろう。そうすることで密度の濃い、見応えのある身体が立ちあがってくるのは事実。ただし、自己完結している各ダンサーの動きは、ソロや群舞には向いているのかも知れないけれど、互いの呼吸を感じながらするデュエットには向いていないかも知れない。それぞれがちょっとずつ閉じた自己を開いてはじめて、すなわち即興の要素が際立ってきてはじめて、デュエットはその面白さを発揮するはずだ。タイトルにある「Waltz(ワルツ)」には、そうした思いが込められているのではないだろうか。ただし、上記した意味での「ワルツ」を見たという気持ちにはならなかった。終盤に、鈴木が安次嶺菜緒と踊るところでは、デュエットが試みられていた。それまでそれぞれの内部で完結していた身体がほぐれようとしていた。手と手を握り合い、互いを感じながら踊るという次元に至る予感はあった。けれども、2人の目指すデュエットは予感以上のなにかとして実体化されはしなかった。ただし、それこそが今後の課題だと鈴木自身が思っているのならば、彫刻状態の2人が解体しながら再構築を試み、再構築のプロセスさえ解体を含んで進む、そんなワルツの誕生を期待したくなる。

鈴木ユキオ+金魚新作公演「Waltz」(ワルツ)Trailer

2013/08/10(土)(木村覚)

川口隆夫『大野一雄について』(「ダンスがみたい! 15」)

会期:2013/08/08~2013/08/09

d-倉庫[東京都]

タイトルの通り、川口隆夫が「大野一雄」について踊る作品であった。休憩を挟んで90分、大野の代表作のタイトルがスクリーンに掲げられ、そのたびに川口は衣裳を替えた。音響は大野の上演の際に録音したものをそのまま流しているようだった。ひたすら踊り続ける大野のような川口。とはいえ、これはダンス公演ではない、あくまでも大野一雄についてのパフォーマンスだった。聞いたところによると、川口の動きは大野の映像を踏襲したものであったようだ、しかし、それは「プライべートトレース」でかつて手塚夏子が試みたような、徹底した映像のコピーというものではないし、あからさまな物真似(大野を真似た誇張表現)ともみなしがたい、その意味では中途半端なところがあった。なにがしたかったのだろう。恐らく、レクチャーを模したパフォーマンスも行なう川口のことだから、「大野一雄についての研究」というモチーフがベースにあったのではと推測する。もっとその意図を明確にして、意図や研究方法を本人が自ら語るようなパートがあってもよかったのではないか。それがカットされている分、川口の動きの曖昧さが気になってしようがない。大野のダンスを研究してその方法論を反映しているとわかれば、見る側もともに研究する姿勢で見ることができるのに。その方法論が見えない。終幕にいたり、川口が拍手のなかおじぎをしたあとで、まるで大野がかつてそうしていたように、川口はアンコールで一曲踊った。そのときにはっとしたのだが、観客の何人かは川口のなかに大野の影を見ていたらしい。音楽にあわせての手拍子の「ノリ」がその思いを伝えていた。先述した動きの曖昧さにも原因があるのだが、美男子の川口に大野の老体を錯覚するのは難しい。けれども、錯覚する観客もいるのだ。それはまるで少女漫画を読む読者のように、「大野がこんな躍動的に踊れる身体をもった美男子だったら!」という甘い願望が花開いた瞬間だったのかも知れない。そうした誤読から自由であるためにも、この作品には「研究」の要素が強調されているべきだったろう。

2013/08/09(金)(木村覚)

マームとジプシー『cocoon』

会期:2013/08/05~2013/08/18

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

漫画家・今日マチ子の同名作品を原作にした本作は、第二次世界大戦、沖縄のひめゆり学徒隊の悲劇をモチーフにしている。女子学生たちを一人一人紹介する前半は、明るくて前向きな女の子たちが描かれる。当時のひとのあり様を丁寧に描かない分、現代の10代がそのままタイムスリップし、戦争に巻き込まれているかのような演出になっていた。これは今日の漫画を踏襲した結果でもあろう。今日の漫画では、兵士など男たちは白い輪郭だけで描かれた。それは少女時代の「潔癖さ」故に今日が「男性の存在がないようにふるまっていた」ことに由来するという。なるほど、戦争を描くのみならずここにあるのは、そうした同性のみの世界(女子校的世界)の姿であり、同性のみの世界がつくり出す独特のファンタジーが「繭(コクーン/cocoon)」という言葉で伝えたい内実を示してもいる。同性のみで完結するこの閉じた世界が、後半、戦争の惨劇に巻き込まれていく。手榴弾で自爆したり、治療の手助けをした男にレイプされるなどのエピソードもショッキングだが、そうした出来事を、猛烈な勢いで舞台を駈け回る役者たちによって描いたのは圧巻だった。マームとジプシー独特の何度も角度を変えながら場面を反復するスタイルが、執拗に繰り返されると、舞台上の華奢な役者たちは本当に身体的に疲弊し、その様が戦場の恐ろしさにリアリティを与える。ただし、この現代の少女たちがタイムスリップしたように見える演出は戦争をイメージするのに十分効果的だったのか、この点は疑念に思った。ちょうど同じタイミングで上映されている宮崎駿のアニメーション『風立ちぬ』も戦争の時代を描いていたが、宮崎は当時の人間の心模様をとらえようと試みていた。戦争中の人々は、戦争のことや自分の思いについて寡黙だった(亡くなった祖母や祖父などをとおしてぼくもその感じをかろうじて知っている)。無邪気になんでも口にできるわけではなかった。宮崎の描いた寡黙さは、当時の戦争を的確に伝えていた。対して『cocoon』の少女たちは饒舌だ。しかし、この饒舌さを封殺してしまうものこそ戦争ではないか。そしてまた別の話だけれど、現代の少女が将来、最悪の進路を世界が進むとき、その果てで経験する戦争は、おそらく70年前とは異なる戦争だろう。いまの時点でも自爆テロや兵器の遠隔操作をぼくたちは知っている。ぼくたちは歴史を忘れずにいるのみならず、いや歴史的事象を悲劇として鑑賞するくらいなら、むしろ未来のありうる悲劇を正確にイメージしておくべきかも知れない。

2013/08/08(木)(木村覚)

プレビュー:鈴木ユキオ+金魚『Waltz』、黒沢美香『Wave』、川口隆夫『大野一雄について』、『吾妻橋ダンスクロッシング ファイナル!』

[東京都]

8月は、鈴木ユキオ+金魚『Waltz』(8月8日~10日、シアタートラム)があり、またd-倉庫でも『ダンスがみたい!15』で黒沢美香(ポスト・モダンダンスに対する黒沢独特の応答として解釈されている『Wave』[8月7日])や川口隆夫(『大野一雄について』[8月8日~9日])の公演など、注目の上演が次々に行なわれる。とはいえ、なによりも見過ごしてはならないのが『吾妻橋ダンスクロッシング ファイナル!』(8月17日、アサヒ・アートスクエア)だろう。2004年にはじまったこのイベントは、一度に旬のダンス作品が多数見られるお得感も売りだったが、重要なのは桜井圭介のキュレーションしたラインナップであること。スタート当初は桜井が「コドモ身体」なるコンセプトを世に問いだした時期とも重なり、たんにダンス好きに留まらない、多様な分野からの興味を奪っていた一大ダンスイベントだった。近年では、出演者のラインナップを見る限り、タイトルにある「ダンス」の濃度は薄くなり、代わりに旬な劇団・ミュージシャン・美術作家が座を占めるようになっていった。しかし、これは桜井のなかからダンスへの思いが消えたということではないはず。むしろ桜井のよしとする「グルーヴ」(あるいはユーモア)が、表現形態としてのダンスの枠を超えて、どん欲に求められていった結果に違いないだろう。とくに3.11以後は、「それでもダンスは可能か?」との問いに桜井は向き合ったに違いない。しかし、なんと今回はダンス組が多数出演するのだ。KATHYは美術系アーティストの水野健一郎とのコラボで出演するし、捩子ぴじんや大橋可也&ダンサーズでおなじみのダンシーズなどの参加も楽しみだ。驚愕するべきは、身体表現サークルの名がリストにあること! しばらく上演活動から遠ざかっていた常楽泰がどんなパフォーマンスを見せてくれるのか、期待と不安とでいまからわくわくしてしまう。この世界で、それでもダンスは可能か? ダンスをめぐる未来は、きっとこの上演の余韻のなかに示されることだろう。

鈴木ユキオ+金魚新作公演「Waltz」(ワルツ)Trailer

2013/07/31(水)(木村覚)

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